播磨風土記の原文は漢文(全部漢字)です。播州弁訳の作成に、小学館1997年発行新編日本古典文学全集5 植垣節也校注・訳の「風土記」を主として、その他、岩波書店発行日本古典文学大系「風土記」、岩波文庫武田祐吉編「風土記」、姫路文庫・谷川健一監修・播磨地名研究会編「古代播磨の地名は語る」等を参考にしました。

賀古の郡かこのこおり

(加古川左岸の加古川市、加古郡稲美町、加古郡播磨町、明石市二見町)

 賀古かこの郡こおり。昔、天皇さんが高いとっから廻まわりを見渡してゆうたったんは「このへんは、丘と原と野とが広おて、この丘を見たら鹿児(かこ)みたいや」。そやから、名づけて賀古の郡とゆうんや。

 日岡ひおか。ここんとこの神さんは、大御津歯おおみつはの命みことの子、伊波都比古いはつひこの命の二人や。その神さんが狩をした時に、一匹の鹿がこの丘に走り登りって鳴いたんやけど、その声が比々ひひと聞こえたんや。そいで、日岡ひをかと名付けたんや加古川市加古川町大野の日岡山。)

 この岡に比礼墓ひれはかがあるんよ。なんで褶墓ひれはかゆうかゆうたら、昔、大帯日子おおたらしひこの命(景行天皇)が、印南いなみの別嬢わきいらつめがごっうべっぴんで、おまけにおせらしいゆうのんを聞いて、いっぺん会いたい思おて、御佩刀みはかしの八咫やたの釼つるぎの上結うはゆひに八咫やたの勾玉まがりたま、下結したむすびに麻布都まふつの鏡ゆう国の宝もんを全部身につけて、賀毛かもの郡の山の直あたひ等の先祖の息長おきながの命、みんなは伊志治いしぢとゆうてんやけど、その人に案内さして奈良から播磨へ会いに行ったんや。その時に、摂津せっつの国の高瀬たかせ(淀川)のとこに来て、「この河を度わたらして」とゆうたったんや。ところがその川の度子わたりもり、は紀伊の国の小玉をたまゆう人で、「わいは天皇の家来やあらへん」ゆうて断ことわったんや。そいで景行天皇は、「かまへんから度わたせ」とゆうたって。度子わたりもり、答えてゆうたんは、「度りたいんやったら、度賃わたしちんをくれ」ゆうて。しゃあないから弟縵おとかづらゆう金の髪飾かみかざりを取って、舟の中にほうり入れたら、縵かづらの光明ひかりがきらきらと舟に満ちたんや。度子わたりもりは仰山ぎょうさんの賃をもおたんで、よろこんで度したんや。さやさかいここの渡しを朕君あぎの済わたりとゆうんや(大阪府守口市。今は対岸の摂津市に鳥飼大橋、豊里大橋がかかっている)

 やっと赤石あかしの郡こほりかしはでの御井みゐ(井戸)に来て、土地の神さんに、求婚きゅうこんを許して貰うための御食みあえ(食物)を供そなえたんや。そいで、廝かしはでの御井みゐとゆう(明石市太寺付近)

 天皇さんが求婚に来たゆうのんを聞いた、印南いなみの別嬢わきいらつめ、驚いて、「そんなんよーいわんわ」ゆうて、南比都麻びつまの嶋しまに遁げ度わたったんや。天皇さん、賀古かこの松原まつばらまで来て捜さがしたんやけんど別嬢わきいらつめは何処どこにも居ーひんのや。そしたら、白い犬が海に向こおて長く吠えたんや。天皇さんが周りの人に「是これは誰の犬や」と聞いたら、須受武良すずむらの首おびとが対こたえたんには、「是は別嬢わきいらつめが養おとる犬や」とゆうて、そんで天皇さんは、「ええことを告げるかも」とゆうて。そいで、須受武良すずむらを告つげの首おびとと名付けたんや。さやさかい天皇はこの小嶋こじまに別嬢わきいらつめが居てるんを知って、その嶋へ度ろうとしたんや。まず、阿閇津あへつ(加古郡播磨町本荘港)へ行って、御食みあへを土地の神さんに供そなえたんで、そこが阿閇あへの村とゆうんや。又、江(川口)の魚を捕りて、御坏物みつきものというお供えにしたんで、そこが御坏江みつきえとゆうんや。又、舟に乗った処ところに、志母止しもと(小枝)で神棚かみだなを作ったんで太奈津たなつとゆうんや。やっと嶋に度って別嬢わきいらつめに遇おて、「この嶋に愛妻隠つまなびつ」とゆうて、そいでこの嶋が南比都麻なびつまとゆうようになった(高砂市高砂町、同荒井町。現在の山陽電鉄本線が当時の海岸線。山電播磨町から高砂までは駅4つ、約6キロ、途中に加古川の河口が広がり、荒井はその中州。)

 そいから、天皇さんの船と別嬢わきいらつめの舟とを繋つないで度り、提灯持ちょうちんもちした楫杪伊志治かぢとりいしぢに褒美ほうびやゆうて名前を大おおき中なかの伊志治いしぢと名付けたんや。元の印南いなみの六継むつぎの村にいんで、始めて密事むつびごと(H)をしたんや。Hする事を昔は隠しとったんで密事むつびごとゆうんやけど、そいでこの村を六継むつぎの村とゆうようになったんや(加古川市東神吉町砂部)。Hの後天皇さんが、「此処は、浪なみの響ひびき、鳥とりの声こえ、甚いとじゃかましいわい」とゆうて、高宮たかみやに遷かえったんや。そやから、ここを高宮たかみやの村とゆふ(加古川市米田町平津。神吉町砂部と米田町平津とは1キロも離れていない。浪の音、鳥の声もほぼ同じ。とりあえず六継の仮宮でHして、平津に本格的な本宮を建ててそちらに移った)

 この時、酒殿さかどのを造つくった処ところを酒屋さかやの村とゆうて、贄殿にへどのを造った処を贄田にへたの村とゆうて、館やかたを造った処を舘やかたの村とゆうたんや(加古川市東神吉町砂部)。酒や贄にへや館やかたの用意がでけてから、城宮田村きのみやたむらへ行って、そこで始めて結婚式をしたんや(加古川市加古川町木村。昔は先にH をして、気にいったら、結婚式を挙げた。今でも結構あるけど!。)。へてから別嬢わきいらつめのお手伝いさんの出雲いずもの臣比須良比売おみひすらひめを仲人してくれた息長おきながの命みことに与えて結婚さしたんや。

 別嬢わきいらつめの墓はかは、賀古かこの駅うまやの西にある(加古川市野口町古大内)。ずーと後になって、別嬢わきいらつめがこの宮で死にはったら、墓はかを日間ひをかに作って葬はふりまつったんや(加古川市加古川町大野の日岡山)

 その遺体をみんなで担かついで印南川いなみがは(加古川)を渡わたる時に、大飄おほつむじ(突風とっぷうが川下から吹いて、担いでる人が次々こけて、その遺体が川中に纏き入れられてしもおて、流されてしもたんや。皆んなで捜さがしたんやけど、とおとお見つからへんかって、身に付けてはった厘くしげ(化粧箱)と褶ひれ(くびかざり)とだけが見つかったんや。さやさかい、この二つをその墓に葬ほおむったんで、褶墓ひれはかとゆうんや。ここに、天皇は、恋ひ悲かなしんで、「この川の物を食わん」と誓ちかいをしたったんや、そいで、その川の年魚あゆは天皇家への貢みつぎ物から外はずされたんや。ずーと後になって、天皇さんが病気になった時に「わえはさみしいんや」ゆうて、宮を思いでの賀古の松原に造って、そこへもどってきてたんや。或る人、ここに冷水しみずを掘り出したんで松原の御井(井戸)とゆうんや(加古川市尾上町養田。当時は結婚しても、女性は親の実家に居て、男が通ってくる。それにしても、大和と播磨、200キロ離れている。別嬢わきいらつめは大和の宮で暮らしたこともあったのだろうが、年を経て、故郷播磨で暮らすことを望んだのであろう。景行天皇と別嬢わきいらつめの子供が、有名なヤマトタケルの命。播磨風土記になぜヤマトタケルの命は登場しない?。)

 望理まがりの里。土はまあえー。大帯日子おほたらしひこの天皇(景行天皇)がこの辺に来た時に、この村の川が曲まがっとんのんを見て、「この川の曲まがり方はごつう美うつくしょい」とゆうたんで、そんで望理まがりとゆう(加古川市八幡町、同神野町北部加古郡稲美町北部)

 鴨波あははの里。土はまあまあや。昔、大部おおともの造みやっこ等の先祖やった古理売こりめが、この辺を耕たがやしてぎょおさん粟あはをまいたんや。そいで粟々あははの里とゆう(加古川市神野町南部、同野口町北部、平岡町北部、加古郡稲美町南部)

 この里に舟引原ふなひきはらゆうとこがあるんやで(加古郡稲美町六分一字船引)。昔、神前かむさきの村(加古郡播磨町古宮字神作)に、ごじゃもんの神さん(荒ブル神)がおって、ここを通る舟を半分留めて通さへんかったんや。しゃないから、通せんぼされた舟は印南いなみの大津江おほつえ(加古川市米田町船頭同加古川町本町、同面河原)に留とどまり、そっから印南川の川上かはかみに上って、賀意理多かおりたの谷(加古郡稲美町天満大池の東西の谷)を船を担かついだり引っ張ったりして瀬戸川せとがわまで運んでそいから赤石川あかしがわに行って、赤石あかしの郡林こほりはやしの潮みなとに出たんや。そんで、この天満大池のとこを舟引原ふなひきはらとゆうんや(加古郡稲美町六分一字船引)

 長田ながたの里。土はまあまあ。昔、大帯日子おほたらしひこの命みこと(景行天皇)が別嬢わきいらつめの処に行く途中に、道ばたに長い田があって。それを見て「長い田やなー」とゆうたったんで長田の里とゆう(加古川市尾上町、同別府町、同野口町南部、同平岡町南部、加古郡播磨町、明石市二党町)

 駅家うまやの里。土はまあまあ。ここは地方へ命令を伝える役人が乗り換える馬が用意されとお駅家うまやがあるんで、それが地名になったんや(加古川市野口町、同加古川町、同平岡町北部)

印南の郡いなみのこおり(加古川市の加古川右岸、高砂市、姫路市飾東町・大塩町・別所町・的形町)

 印南いなみの浦うら。あるひとがゆうてんのんには、印南とゆうんは、穴門あなとの豊浦とよらの宮に居ったった天皇、皇后(仲哀天皇、神功皇后)が、筑紫つくしの久麻曽くまその国をやっけよお、ゆうて、大和やまとから下って来たった時に、乗って来た船を印南の浦に泊めたんや。こん時、槍海あをうなばらが平ないで、風波かぜなみがなかって静になって、そんで名づけて入浪いりなみとゆう(高砂市伊保町、同曽根町の海岸)

 大国おほくにの里。土はまあまあや。大国とゆうんは、百姓の家が多く此に居んどお。そいで大国とゆう(高砂市中部、同西部、加古川市両神吉町南部、姫路市別所町、同由形町、同大塊町)

 この里に山があって名を伊保山いほやまとゆう。帯中日子たらしなかつひこの命(仲哀天皇)を祀まつる墓石はかいしを捜さがしに、息長帯日女おきながたらしひめの命みこと(神功皇后)が石作いしつくりの連むらじ大来おほくを連れて、讃伎さぬきの国の羽若はいかまで行ったったんやけど、ええ石がのおて、しゃーないから、そっから海を度って、高砂たかさごに着いたんやけど、どこで宿をとろおか決めてない時に、大来おほくがええ石を見つけたんや。見つけたんで美保山みほやま(高砂市中筋5丁目、同竜山2丁目の山)

 山の西に原があって名を池の原とゆう。原の中に池が有るから池の原とゆうんや(高砂市阿弥陀町南部)

 その原の南に作石つくりいしがあるんや。形は家をひっくり返したみたいや。長さ二丈(6.45メートル)広さ一丈五尺(4.75メートル)、高さもそれくらい(5.6メートル)。名前を大石とゆうてる(現在は石の宝殿とゆうてる)。言い伝えでは、聖徳太子の頃に、弓削ゆげの大連おおむらじが造った石やて(高砂市阿弥陀町生石字宝殿山の生石神社の御神体)

 六継むつぎの里。土はまあまあや。六継の里とゆうわけは前にゆうたやろ(加古川市東神吉町南部、同米田町、同加古川町南西部、高砂市高砂町、同荒井町)

 この里に松原があって、甘茸あまたけが生えとお。色はなもみの花に似とって、形は鶯茸うぐひすたけみたいや。十月上旬かむのとをかに生えて、下旬しものとをかにはもう無い。その味はごっつう甘い(黄シメジ茸の一種)

 益気やけの里。土はまあええほうや。宅やけとゆうんは、大帯日子おおたらしひこの命(景行天皇)が御宅みやけをこの村に造ったんで宅村やけむらとゆうんや(加古川市東神吉町南部、同米田町、同加古川町南西部、高砂市高砂町、同荒井町、加古川市東神吉町升田)

 この里に山があって、名前を斗形山ますがたやまとゆう。石で斗ますと乎気をけとが作っとんで、斗形山ますがたやまとゆうんや(加古川市東神吉町升田、同池尻の山)。この山に石の橋はしがあって、言い伝えでは、ズート昔、この橋はしは天てんまで届いとって、八十人衆やそひとども(大勢の人)が天まで上ったり、天から下りてきたりしてたんやて。故れ、そやから八十橋やそはしとゆうてる(加古川市東神吉町升田字八十橋同池尻字八橋)

 含藝かむきの里。本の名は瓶落みかおちや。土は普通よりましや。瓶落みかおちとゆうわけは、難波なにはの高津たかつの御宮おほみやの御世(仁徳天皇の頃)に、私部きさいちべの弓取ゆみとり等の遠い先祖の池田をさだの熊手くまちが瓶みかの酒を馬の尻に着けて、家を建てる場所を探しながら通っていたら、その瓶みかがこの村にまくれてそえから瓶落みかおちとゆうんや加古川市東神吉町北西部、同両神吉町北部、同志方町、姫路市飾東町)

 又、ここには酒山さかやまがあるでえ。大帯日子おほたらしひこの天皇(景行天皇)の御世に、酒の泉が涌き出たんや。そいで酒田さかやまとゆうんや。そやけど百姓が飲んだら、酔おて喧嘩するんで村ン中がごじゃになってもて、しゃないさかいに泉を埋めてもたんや。ずっと後になって、庚午かのえうまの年(670年)に、ある人がその辺を掘ったら、酒の匂いがしとったんやて。

 郡こおりの南の海中に小嶋がある。名を南毘都麻なぴつまとゆう(高砂市高砂町同荒井町)。志我しがの高穴穂たかあなほの宮に居ったった天皇(成務天皇)の頃に、丸部わにべの臣おみ等の先祖の比古汝茅ひこなむちを加古郡かこのこおりに派遣して、国の堺さかいを定めたんや。その時、この辺のええしやった吉備比古きぴひこ・吉備比売きぴひめの二人が迎むかへに出たんや。へてから、いろいろあって、比古汝茅ひこなむちが吉備比売きぴひめと結婚して出けたややこが、印南いなみの別嬢わきいらつめなんや。この女はごおつう べっぴんで、当時のミスJapanや。それを聞いた大帯日吉ひこの天皇(景行天皇)、この女を嫁はんにしたいゆうて、播磨の加古郡まで来たんや。別嬢わきいらつめがそれを聞いて、「そんなん、かなわん」ゆうてこの嶋しまに度わたって隠かくれとったんや。そんで南毘都麻なぴつまとゆふ。(成務天皇は景行天皇の息子。時代設定が逆転している。景行天皇の親の垂仁天皇とすれば辻褄が合う?)


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