三 秋風 (桐一葉)
 秋乙へは未だソ連軍は姿を見せなかったが各戸毎に赤地に星と鎌のついたソ連邦の旗をかゝげる様にとの通報があった。
 八月二十五日には日本軍に対して〃武装解除〃が命ぜられ、銃、ピストル、刀、短剣に至る迄将校の私物の軍刀まで、総べて武器と名のつく物は一つ残らず、それに軍馬、トラック、運輸に関する物は全部接収された。
岡田軍医も秘蔵の〃備前の長船〃を供出した。(これは日露戦争に従事した父、秀之助氏から五年以前、南方の関東、海南島に征った時に息子の出征を祝って、貰った物で父亡き現在は、父の形見とも言える軍刀であった。)備前の長船は軽くて帯びて歩き易かったが細身で長く、短身の彼が長い軍刀を腰にマントを着て歩く姿はまるで軍刀が歩いている様であった。
 軍刀の供出にあたって将校連中は、ソ連の兵士に日本刀の目利が出来るとは思われず、各自の名札をつけた愛蔵の軍刀を前に差し出して、黙って涙をのんでいた。
柳沢主計大尉は、自分の名札をつけた。〃関の孫六〃の業物を見つめながら半生を共にした愛刀との別れに拭っても拭っても、手で拭いきれぬ涙に頬を濡らしていた。
 官舎の周囲を四、五人ずつ隊を組んで行く衛兵の兵隊さん達の腰からも短剣が見られなくなった。
全員武装して炎天下に行動していたこれらの人々の変った姿にも忍びよる静かな秋の足音が感じられるのだった。よく伸びた唐もろこしの葉末をさわさわと鳴らして吹く風は暑気を払って、日中の日差しは未だ未だ強かったが、朝夕は凌ぎよいものとなって来た。
 その様な或日、秋乙陸軍官舎の家族の居ない営外下士官及び将校は、すみやかに部隊に住居を移すようにとの命令が出た。そして明け渡された官舎の一部にはその日のうちに、平壌市内の軍人や軍属の家族達が引越して来た。登勢の隣家には平壌市内の某歩兵隊の中隊長夫人が二人引越して来た。
一人はあどけない顔だちの細そりとした涼しい様な婦人で萩原中尉夫人、もう一人はどこか知的な閃めきを思わせるノーブルな面だちの友久大尉夫人だった。
どちらにも可愛いい女の児が二人ずつあって敏夫や留里ともすぐ仲よく遊ぶ様になった。すっかり打ちとけて、表玄関前の桐の木の下で賑やかに子供達は遊んでいた。
「留里ちゃん言う児がほおしいな!」「ジャンケンポン」「勝って嬉しい花一匁!」「敗けて口惜しい花一匁」子供達が遊んでいる傍らで萩原夫人と友久夫人が静かに口を切った。
「ソ連軍は一週間程の戦争で勝って嬉しい花一匁と、市内へ入壌して来たのよねえ。」「朝鮮側の手の平を返した態度も敗けた日本には、花一匁どころでは無いわねえ。」「ソ連軍が入壌して来たので官舎まで開け渡して来られたの?。」登勢は聞き返した。
「ええ。それにポスターが電車の中にも街角にも貼っであって情ないわ!。」萩原夫人が悲しそうに口ごもった。友久夫人は思い余った様に言った。「ねえ。奥様、戦いに敗れて無条件降伏というからには忍ばねばならぬ事なのでしょうが---。ポスターには日本の国旗。(〃日の丸の旗〃)を靴でふんづけて。」「そうよ。」「足げにした上で赤地に鎌の画かれたソ連の旗を持ったロシア人と太陽を象どった朝鮮の旗を持った朝鮮人が堅く握手をしている絵が画がかれているのよ!!。」「まあ!!。」今更の様に敗戦の悲しみに胸を衝かれて登勢は言葉が無かった。
 友久夫人が「朝鮮側の歓迎も大げさなんだものねえ。」と、歎息する様に言った。「それに〃日本帝国主義を断固として粉砕し、その侵略と弾圧から脱脚して立派な共産政権の樹立に遭進しよう〃という様なメッセージが出され、ソ連側からも〃友交を結んで民衆の幸福の為の共産政権の確立に協力を惜しまない〃という意味のメッセージが取り交わされて、明日には平壌市内で大々的な歓迎旗行列が行なわれるそうよ。」
話しながら顔を曇らせている萩原夫人の後へ「ばさり!」と音がして桐の葉が一枚散ってきた。思わず顔を見合わせた三人は、〃桐一葉落ちて天下の秋を知る!!〃この言葉を各々の心の中で深くかみしめるのだった。
頭上では桐の葉がざわざわとなった。愁と悲しみに満ちた三人に夫人の頬そめて秋風はひそやかに渡って行った。
 彼女等の知らぬ間にも運命の歯車は休まず回転していた。鉄道を逸早く接収したソ連軍は、終戦一週間後の二十二日からもうソ連本国向けの物資の輸送を始めていたのだった。
様々の占領物品を一杯に積んで汽車は北へ北へと走っていた。一刻を、いや一分一秒をも惜しむかの様に。その為に南鮮行の列車は何時頃再開されると言う望みもなく、全部止められていた。その中に、「軍人は全部捕虜として一定の場所に収容され、秋乙は家族だけ残るようになるであろう。」という様な噂が流れてきた。何時の間にかもう八月も終わりに近づいて夏の名残のひぐらしが、裏山から聞こえる頃となっていた。
明後日から九月に入るという日の夜遅く、バタンと弾んだ音がして、大きなリュックを背負いその上毛布をうず高く積み上げて荷物の化物の様な格好の兵隊さんが、転ぶようにして入ってきた。彼は佐々木兵長であった。此の度特別の召集解除になり、家族護衛の意味で官舎に回された兵隊さんであった。
佐々木兵長の故郷は滋賀県大津市郊外の、紫式部が源氏物語を書いたという、石山寺の近くであった。六月の末に腸チフスにかかり、すっかり健康は快復していたが頭髪が大分うすくなって、三十六才という年令より大分老けてみえた。彼は秋乙陸軍官舎の家族達と一緒に、早晩内地へ帰国できると聞いていた。
 明けて八月三十一日。
登勢は愈々主人との別離の日が迫って来た事を感じて、その日の朝食には葡萄酒を皆に注いだ。
主人と佐々木さん登勢と敏夫ちゃん、留里ちゃんの前にも、小さな盃を置いた。 計らずも三十一日は、登勢の二十七才の誕生日にあたっていた。
黙したまま皆顔を見合わせて、にっこりとして盃に唇をつけた。「言わで思うぞ言うに優れり。」古歌の一節がふと登勢の脳裏を掠めた。この場合沈黙は雄弁にまさって、互いにいたわりの気分がしみじみと感じられるのであった。
敏夫ちゃん留里ちゃんが何も解らずに、はしゃいでいるのみだ。登勢は真っ赤な液体が熱涙の様に臓腑に沁みこんで行くのを感じながら、今にも溢れそうになる涙を落とすまいと、眼を一杯に見開いていた。
もうこれが永の別れにつながるかもしれぬ。部隊へと出で発つ者も、その思いで一杯であった。
しかしその日も、次の日も、主人岡田軍医太尉は帰宅した。
 次の日の真夜中頃だった。あわただしい物音に登勢は目を覚ました。「報告!明朝八時に部隊に集合、三合軍廠舎へ出発します。日用品及び衣類を持参して下さい。終わり。」取急いだ様子の福岡二等兵だった。
時計を見ると夜中の三時過ぎであった。
はっとしてすっかり眼が冴えてしまった登勢は、いくら寝つこうとしても、なかなかすぐには眠れなかった。
何度も寝返りを打って、うとうととしている間に、あたりが白んで明方の冷気を含んだ空気が漂ってきた。
登勢はそっと起き出て、音を立てぬ様に窓の戸をくると、外は一面に霧がおりて物の見分けもつかぬ程である。
まるでミルクを流した様な東の空に、日輪がぼんやり浮んで、開かれた窓から霧がさんさんと流れ込んで来た。
みるみるうちに、登勢の着物までじっとりと霧にぬれてきた。しめやかに降り注ぐ霧の流れを全身に受けて、しばし佇んでいた登勢は、出来るだけ御馳走を作りたいと何時もより念入りな朝食の仕度に取りかかった。
殆んど用意がととのった頃、眼を覚ました留里ちゃんを抱いて、夫の岡田軍医が官舎のすぐ裏手の畑からみずみずしいトマトをもいできた。
留里ちゃんを抱いて、毎朝菜園や兎小屋を廻るのが、彼の楽しみのひとつとなっていたが、もう愈々最後であった。その朝は静かに水盃がかわされた。
「では往々木君、後をたのみます。行って来るぞ。」言葉少なに言って出て行く父親の後を追って、敏夫がはしゃぎながら、佐々木さんが行李を持って、その後から登勢も留里を抱いて外に出た。トラックが部隊長官舎前に来ていて、あちこちの官舎から将校の姿が現われた。不安そうに顔を曇らせた婦人達の姿も見えた。
門口に立ったまま、登勢は留里と一緒に、夫の姿が見えなくなるまで手を振っていた。「奥さん、トラックまで送って行かれないのですか?。」ふり返ると、柳沢主計大尉であった。「ええ、もうこれでー。」登勢は会釈しながら答えて、裏の畑の方へと廻った。同じ別れとても、晴れの出動なら見送る元気も出るものを、捕虜収容所へと行く夫を送って行く勇気が、とでもなかった。彼女自身、虚脱した様な体を〃しっかりしろ!しっかりしろ!〃と、心に言い聞かせつつ支えているのがやっとの思いであった。
 登勢が結婚したのは日華事変のさなか、昭和十三年五月であった。
半年経つか経たぬかで、主人は姫路の部隊に入営した。
姫路へ主人の入隊を見送って帰って来てから二階の自分の部屋に座した時には、急に怒涛の様に淋しさが押し寄せて来た。立って見ても、坐って見ても、部屋に穴があいた様で、六畳の部屋にガランと主の居ない机が一つ所在なさげに置いてあるのさえ佗しく、孤独な自己を見つめる思いで、人目のない気のゆるみから、涙がどっと溢れ出たものだ。けれどもあの当時は、未だ子供がなかった。独り、がまんすれぱよかった。夢中で働く事で毎日が暮れて行った。爾来七年の間に、夫は再度出征して関東に、仏印にと、転戦し、殆んど留守であった。
しかし「お国の為に一億一心」と、全国民が困難に耐えて働いている時代であった。留守中何かと登勢をかばってくれた主人の父も健在であった。そして、心の優しい姑も同居していて、登勢や敏夫達は扶養され庇護されていた。
けれども、今は全ての事情が違うのだ。海を越えて遠く離れた北鮮の地!二人の子供。そして今体内で息づいている小さな生命を思う時、不安が波紋の様に広がって来るのだった。紺碧に冷たく澄み渡った青空の下、山々が迫力を持って接近して来る様で、露おいたトマトの下葉の蔭では、虫の音が淋しく世をかこっているのだった。「もう秋だわ。」
登勢の心を秋風が冷たく吹き抜けて行くのだった。
そこへ佐々木さんが帰って来た。「トラックが出発しました。」「お父ちゃんを送ってきたよ。」元気な敏夫の声もした。目の前では、唐もろこしの葉が秋風にざわざわと鳴っていた。
 将校も下士官も兵隊も凡そ軍人と名のつく者は、全部秋乙から姿を消した。北鮮平壌附近一帯の軍人の殆んどは、三合軍廠舎に収容されてしまったのだ。平素演習場としてせいぜい五百人程度の人員をわずかに収容するに足りぬ小さな廠舎は三万人という軍人に、満員どころの騒ぎではなかったろう。
 軍人の居なくなった秋乙へは、早速入れ違いの様に、「朝鮮独立委員会」とか「保安署」とかの名称入りの腕章をつけた人々が、治安の名目で姿を現わす様になった。それでそれ等の人々は、棒切れや拳銃や鉄砲をもっていた。「。パン。パン」「パチン」「プスン」「パン」「ズドン」「パチン」「パーン」空砲とも、実砲とも判別のつかぬ音が昼夜をわかたず聞こえてきて、これ等の不気味な音は、十分おきに又時には五分置きに響いて来るのだった。なかには偽治安委員等もあって、何時強盗に変るやも判らず、あたりは急に戦線の様な不穏さが漂って来た。そのうち、「三合里へは皆荷物を背おって徒歩で行軍だったそうな」「途中は馬がたおれている。荷物がほり出してある。暑さと埃の中で大変な混雑で、そこへ荷物を拾いに朝鮮人が出て来る。ソ連兵がそれを逐い払う。いやもう、徐州行軍よりひとかった」「三合里では将校だけ廠舎で、兵隊は全部露営で、その周囲を、ソ連兵が警戒していて一寸でも外へ出る者があれば、すぐに発砲だ」「毎日宿舎作りの突貫工事だそうだー。」とか、とりどりの噂話がもたらされた。
 平壌の部隊にも、いや秋乙の部隊にも、そのうちソ連軍が入って来た。そして朝鮮側のむやみな発砲に対して警告が出された為、「パン。パン」「ポンポン」という気味の悪い音は、多少減少して来た。騎兵部隊、戦車部隊も見られる様になった。(八月進駐当時はぼろぼろの衣服か又はシャツ一枚に、跣足の汗と脂に汚れた兵隊達であったそうだが日本軍の衣服や靴を着用して、一応身なりはましになっていた)
登勢達の官舎からかなり急な勾配の道を南へ五十米程下った処に平壌市内から美林へ通じる二十米余りの巾の、大道路が、赤土をむき出して東へ向って延びていた。その道の北側(登勢の官舎から下りて来た場所)に、細長く兵古帯を流した形にクローバが生えていた。登勢が留里と敏夫を連れて兎の餌にするクローバーを摘んでいると、西の方から土煙りを舞い上げながら、騎馬隊はみるみる近づいて来た。登勢はその埃にうず汚れた様な兵隊を、見ただけで嘔吐をもよおしそうな嫌悪の情におそわれた。彼女は本能的に二人の子供を、両脇にかかえ込んだ姿勢になって一瞬立ちすくんだ。その目の前を騎馬隊が馬蹄のひびきを轟かせながら、疾風、いや台風の様に馳せて行った。その後から今度は大型の戦車が、「ごうごうごう」「がらがらがら!」「ごうごうがらがら!」という、すごい豪音と地響きを立てて、小さな彼女達を威圧するかの如くキャタピラの跡を残して走り抜けて行くのだった。その間!留里はおびえて泣きながら、敏夫は真っ青になって母親にしがみついていた。登勢は全で風圧におし潰されそう威嚇と恐怖を感じながら、勇気をふりおこし全身で子供の楯になったつもりで立ちはだかっていた。
「お母ちゃん!帰る!。」「お家へ帰ろう。」留里と敏夫が異口同音に言った。
 秋空はどこまでも澄んでちぎれ雲がふんわりと飛んでいた。ああ!。この空の彼方!。
懐かしい故国がある。故郷がある。父はなくとも母が居る。妹弟も居る。親しい友も……。
二人の子供の手を引いて登勢は歩き始めた。敏夫の持った籠からクローバーが、ほろほろとこぼれ落ちた。「夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴くー、思えば遠し故郷の空!」歌声がかすかに聞こえて来た。登勢は空耳かと思ったが、空耳ではなかった。官舎に近づくにつれてはっきりと、歌は聞こえてきた。(幸ちゃんの声だ)「夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く!思えば遠し故郷の空、ああ我が父母いかに在す・……」登勢の胸の中でも〃故郷の空〃の歌が共鳴をしてオルゴールの様に繰返し繰返し高鳴るのであった。
「夕空晴れて秋風吹きー」
 秋乙の野にも三合果廠舎の窓辺にもやがては木枯しに変る秋風が吹いていた。

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