五、秋雨
 その日は朝からしとしとと秋雨が降っていた。雨の日は一人心が重く沈んで「巷に雨の降る如く我が心にぞ雨の降る。」ヴェルレーヌの詩の一節が登勢の心を悲しく震わせるのだった。
けれども彼女は子供達の為に強いて明るく振舞っていた。「罐詰の牛肉を利用して、皆でお昼は餃子を作ろうね。」登勢がメリケン粉で皮を練っていると「バタンバタンバタン」と大きな音がして玄関の扉が押し開かれモートル銃をかまえた二、三人のソ連兵が靴ばきのまま上って来るのがガラス戸に写った。「はっ」として側にいた敏夫の手を取ると勝手口から逃れ出た。登勢はお座敷で佐々木と遊んでいる留里の事を気にかけながらはだしで防空壕の待避口から道路に出て上敷領夫人の所へ駈け込んだ。上敷領夫人はドーナツを作っている最中であった。「まあ!!びしょぬれで!」「そんなにビクビクしなくても。ドーナツでも召し上れ。」「え、ありがとう。」敏夫がドーナツを御馳走になっている間に上敷領夫人の家の小吉(元上等兵)が状勢を見に行って、「もう大丈夫です。」というので、登勢は自分の官舎へ帰った。帰ると佐々木が留里を抱いて玄関に立っていた。「治安隊員がねソ連兵をつれて来ましてな。『時計を出しなさい。お金を出しなさい』とか云って自分たちがほしいもんだっさかいなあ。無いといいましたら、ぶつぶついうものをソ連兵がなだめてうながして出て行きよりました。」登勢と敏夫は佐々木の話を聞きながら安堵して家へ入った。
 久し振りに落ちついた昼食を終えて食器を片づけていると「小母さん開けて頂戴!」山中副官のお嬢ちゃんだった。全身ずぶぬれで彼女はかけこんで来た。
「今ねえ、来たの、来たのよ。大きなソ連兵が二人でーお母さん逃られたかしら?谷口さんが何だかだ云っている間に私逃げて来たのよ。あ、恐ろしかった。」そういうと後を振りかえって恐ろしそうに肩をすぼめた。間もなく山中夫人がとびこんで来た。その後から暫くして谷口(元上等兵で召集解除になって山中家に同居)が駈け込んで来た。
「うちのお嬢さんや奥さんはおられるかね?ああ来て居られて好かったです。今二人のソ連兵が靴履きのまま入って来てね。時計を出せ出せ云ってあたりをかき廻して壁の水筒をはずして奪ってしまい、俺に銃を突きつけてからにあれ出せ(ダワイ)かに出せ(ダワイ)と云って机の引出しを掻き探している隙にわっしも逃げて来ましただ。服装と云えば日本軍の軍服を身にまとい日本軍の外被を上から着て居るのですよ。古いモートル銃なんだけど銃をもっているもんだから処置無いですわ。」谷口は反歯の口を尖らせて怒っていた。
 登勢は雨樋の無い軒端からぼたぼたと流れ落ちる雨をまるで涙の雫を見る思いで眺めながら谷口の話を聞いていた。その横で佐々木が「もう物質の事は仕方がおまへんさかい奥さん達に逃げられるだけ逃げて貰うより方法がおまへんなー」とあきらめた様に云って思案げな様子できせるの煙草に火をつけた。
(佐々木兵長は隊に居た頃から親爺さんに貰ったという古いきせるで煙草を吸っていた)
 次の日はからりと晴れた秋日和であった。登勢と柳沢夫人はオンドルの部屋の南側の窓下に立ってソ連兵の来ない暫時の安逸を貪っていた。 オンドル(註=土の床の下を燃やして暖房する)
 昨日一日中降り続いた雨に空気中の埃をすっかり洗い流して空はあくまで澄み渡り爽やかな日差しは夫人達にさんさんと降り注いでいた。
「今日の様なお天気はお布団が干したいけど、うっかり干せないし」「何でもすぐ盗られちゃうから嫌になっちゃうね」「本当にね、それにロスキーに捕まらぬ様にせんとねー」「でも本当に良い天気ね」柳沢夫人が大きく呼吸して云った。そこへ「佐々木君居ますか?」谷口が尋ねて来た。「ここじゃ!ええ天気どすな!」背のびをする様にして佐々木は云った。けれども晴れ渡った空とは反対に夫人達の心は晴れなかった。
〃どんな事があってもソ連兵士から逃げなければ!〃二人共黙ってその様な思いに支配されていた。その時「ありゃ?」谷口が大きな声を出した。そして佐々木が云った。「今日はえらい来まへんと思うとりましたらあんな処へ行っとりまっさ!。」
登勢達の官舎からかなり急な勾配の道を南に下りた庭を東西に通っている二拾米巾の道路があった。その道路を距ててて、小高い丘があった。丘は美しく切り石で造成されて住宅地となっていた。その辺りには保給廠の軍人軍属の家族官舎が建ち並んでいて登勢の官舎の向う側に高く聳えた位置にあった。
佐々木の言葉にふと頭を上げて遥か保給廠の官舎を見上げた登勢等は「あっ!」と声を出した。ソ連兵士が七・八人いやもっと多く十人位だったろうか。若い二十二、三才と見える女性一人を取りかこんで話をしている様子である。
そのうち多くの兵士達は見えなくなって一人の兵士と女性が官舎へ入って行った。どうもうな野犬の群にかこまれた幼児を見る思いであった。「あ、駄目ね!逃げられないかしら?」「何とか出来ぬかしら」思いは空しく助ける術とでは無かった。登勢と柳沢夫人がいる所へ谷口と佐々木も近寄って来た。「あんな姿(女らしい服装)をしているとよけい危いものだ」「あれは逃げられまへんなー。」等々云いながら官舎を見上げている。三十分程もすると先程のソ連兵士だけが出て来た。すると他の兵士が何処からか一人現われたと思うと官舎の内へ入って行った。どうやら輪姦が始まったらしい。
柳沢夫人と登勢は心が暗く閉ざされる思いで銘々の家の中へと入った。召集以前は但馬の山奥で百姓をしていたという谷口上等兵は農閑期には売薬の行商をしていたとかで田舎者らしい好奇心で「一人」二人」と数をよみながら保給廠の官舎をにらんで立っていた。
 登勢は思った。〃「何時誰が先程の保給廠の女性と同じ運命に陥らないと保証出来るであろうか?。それ程事態は緊迫している。その行動や行為は精神や意志や感情に何の関連もなくむしろ災害的に引起される事柄なのだ。と云って野良犬に咬まれたと超然と割り切る事が出来るであろうか?」〃
 以前から思案していた事であるが、この際登勢は頭髪を切って男装をしようと思った。彼女にはあの薄汚ないボロボロの様なソ連兵士達から女性としてあつかわれることは耐えられない死に値する事なのだ。
男装する事によって幾らかでも災難を脱する事が出来れぱいいではないか!。
彼女は鋏を裁縫箔から持ち出して云った。
「佐々木さんすみませんが髪を切って下さいな。」「へえ!?」「散髪して頂戴!」「奥さん!本当に切るのですか?昔から日本女性の命と云われた黒髪を!」「ええ。切って下さい。」
 断髪に最初は半信半疑であった佐々木も先刻の出来事が一人でも多く日本女性をソ連兵士の毒牙から守る為には、最善の方法の様に思われて鋏を取り上げた。
「奥さん切りますよ。よろしうおますな。この辺からでっか?。」「いいえ、もっと短く刈込んで坊主にして下さい。」「よろしゅうおます。」思い切った様に佐々木は鋏を入れ始めた。ザクザク。ザクザクと冷たい鋏の感触が彼女に女性との訣別をうながしていた。 登勢達はそれからも毎日毎日逃げるばかりに明け暮れた。頭髪を切り、その上に戦闘帽をかぶり、軍のカーキ色の作業衣を着てズボンも作業用の裾が脚絆型になった短股をはいてすっかり男装したとは云え、見さかいのなくなっている女に飢えたソ連兵から難を逃れる為には、若し見破られた場合を思うと、姿を隠すのが最善と思われた。今日一日が無事に暮れたと云うだけがやっとの思いであった。何時も逃げ廻って家の主人達が居ないのを幸に、チヨコマン(子供)やオモニー(婦人)のこそ泥が窓や勝手口からこそこそと忍び込んで目ぼしい物を持って行く、ソ連兵は靴ばきのままで家中を掻きまわして行くのだった。その間を縫って地元の治安隊員だとか保安隊員だと云う人が厳めしく腕章をして、四、五人で来てはおどかして食物や衣料品や家財道具を持って行ってしまうのだった。
夜はソ連兵が何時踏込んで来るかも知れぬと云う不安に夫人達は何時でも起きて逃げられる様に、毎晩着のみ着のまま、ズボンばきでおまけに靴履きのまま寝床に入るのが普通になっていた。
 或る日の午後。突然何処からともなく噂が流れて来た様な感じで将校官舎(4DK)を全部ソ連軍の将校及び下士官に明け渡して、日本人は全員下士官舎(3DK)の荒れ放題の空官舎に移る様にという伝達が来た。そして二、三時間後には柳沢夫人の官舎にも岩田夫人の官舎にも立退きを迫ってソ連兵がどかどかと入り込んで来たのであった。
幸にも登勢の官舎とその西隣には、ソ連兵は来なかったが、登勢は噂の様な伝達が気になったのでトランクを出して来て、ともかく現在直接必要でない衣類を超特大型の薄茶色のなめし皮のトランクに詰める事にした。
主人の大島の袷の羽織と着物、それに登勢が心をこめて縫ったお召の綿入れの丹前、軍服の古い物、登勢の絹綿入りの部屋着等をいれた。大型と中型の淡い青磁色の皮のトランクには何も詰めなかった。この二つのトランクは、結婚する時、嫁入り仕度の道具と共に、母が揃えて買って呉れたもので、戦時中なかなか手に入りにくい高級品であったし、その静かな色合いがとても好きで、登勢は大切にして使っていた品物であった。その落ち着いた淡い青磁色を見ていると、昨年十一月渡鮮する際の事が思い浮かんだ。大型と中型のトランクを登勢は両手にさげて背には留里をおんぶしていた。軍刀長船を腰に、軍服姿で敏夫の手をひいて、さっさと体一杯の大股に歩く主人。その後姿を見失うまいと息を切らせながら寒空に汗をかきかき渡った下関乗船場の長い長い桟橋だった。「今度帰国の時には同じ下関だろうか?」等と思いながら二つのトランクを古い汚い布で包んで外から優雅な色が見えない様にと工夫した。一見して外形からトランクと推測出来る以上ボロ布でかくしても何時か盗られる運命にあるとも知らずに。
 大陸続きの北鮮の秋はあわただしく裏のナツメの木の葉は黄ばんで、玄関前の桐の木は〃ばさり〃〃ばさり〃と葉を落としていた。
何となくせき立てられる様な思いで登勢は三ケのトランクや布団そして身の回りの物を一応南側の空官舎(3DK)へ運んだ。しかしそこはもう一杯であった。旧二百五拾部隊の軍人の家族達と同居している召集解除になった元兵隊さん達者が住むには無理であった。
荷物という程の物は無くとも皆の持物でその置場もなく、うず高く積み上げられた荷物の上に、トランクの包や不急の荷物を置いて、同部隊の方達と一緒であるという安心感でその一夜はそこに泊る事にした。
登勢の住んでいた官舎は、これ迄不思議に一度もソ連兵に深夜踏み込まれた事がなかったので、実に運の良い官舎という事になっていた。そんな運の良い官舎を空虚にする事は無いと云って、柳沢夫人と岩田夫人が一緒にそれぞれの子供を連れて登勢の居た官舎に、その夜から泊る事にした。実際登勢の官舎を除いた殆んどの官舎にはこれ迄度々ソ連兵が「ダワイ」「ダワイ」と侵入していた。道を隔てた東側の二列に並んだ官舎には全部通達後二三時間置いて、ソ連兵が引越して来た様子であったし、北向いの官舎も、南向いも、西側のもその例には洩れていなかった。
 登勢は登勢の官舎がソ連兵の魔手から難を逃れられるのは、亡くなった舅のお蔭だと思っていた。若くして他界した実父と肝胆相照す仲であったと云う主人の父も登勢が渡鮮するニケ月前に亡くなっていたが、この舅が生前実父の如くに彼女を可愛がって呉れたのだった。又敏夫や留里も非常に慈しんで夫が出征中の彼女を蔭に日向にかぱって呉れたのだった。この事は彼女をどんなに力づけ慰め勇気づけとなったか判らない。彼女は恒に心中で舅を拝んでいた。
敏夫も留里もお腹をこわしたり、肺炎をおこしたりしたが、その度に生命の危機を医師の祖父によって脱したのであった。舅は登勢にとって生前から神佛の様な存在であったのだった。今又舅が死んでも霊となって彼女や孫達を守ってくれていると思えて仕方がなかった。それに加えて姑は熱心なクリスチャンで彼女や敏夫や留里はその祈りに支えられている事も疑う余地はなかった。その夜、登勢の運の良いという官舎には柳沢家の深田元上等兵と岩田家の菊川元上等兵も柳沢夫人達と一緒に引き越して来て泊った。その夜に深田も南川も二人の運命を支配する大きな災難が待ち受けている事は思いも及ばなかった。
 深夜、深田と南川はただならぬ気配に目睡めた。と思うまもなく数人のソ連兵の相鍵?らしいものでの浸入で飛び起きた。柳沢夫人と岩田夫人は眠がる三人の少女を叩き起して窓から逃がれた。坊や(柳沢)と静江(岩田)を連れて出る程の時間的な余裕はなかった。深田と前川が居て呉れる事が僅かに慰めではあったが、もやの様に広がる不安の中を三人の少女を連れた両夫人は近くの空官舎にともかく逃げ込んだ。坊やと四つの静江を残して来たので遠くへも行かれないし、不安な半ときであった。その頃深田と菊川は周囲を剣銃を持ったソ連兵に取り囲まれていた。何の事か判らぬま、、キョトンとしている二人にソ連兵の主だったのが云った。「ダヴァイ。イッチー(行け。)」そしてそのま、二人は連行されて行った。もうソ連兵が引きあげた頃と見計らって重苦しく重なって来る様な不安を胸に両夫人は官舎へと帰って来た。ところが帰ってみると深田も南川も姿が見えない。幼児二人の泣き声がおんおんと官舎一杯に響いているのみであった。「深田さんー。」「南川さんー。」深夜に呼び声がこだまして不安と心細さが、ひしひしと両夫人に襲いかかって来るのだった。この夜を最後にして深田、前川の両氏の姿を見る事は出来ず、ソ連軍に拉致されたのだった。翌朝、静江をお便所に連れて行った岩田夫人は赤い血が。パンツを汚し「痛い!!。」と泣く静江に驚いて秋乙日赤病院に連れて行った。〃会陰破裂〃病院での診察結果を聞いて夫人は唖然としてしまった。〃幼児を犯すなんて鬼畜だ〃岩田夫人の胸の中を悲しみと憤りと恨みが渦巻き逆流した。静江は治療に当分病院へ通う事になった。
 引越し先の空官舎も一杯で、一晩だけの泊りで荷物をおいて元の官舎へ帰って来た登勢は病院の近くへと静江の治療の為移って行く岩田夫人を慰めの言葉もなく暗い気分で見送るしか仕方なかった。登勢は柳沢夫人と元の官舎に住む事にして荷物を取りに行ったがトランクは窓際の荷物の上に乗せた様に置いて居たので布が包んであるにも関わらず「昨日買ったのです」と云って地元民に三ケ共ごっそり持って行かれてしまった後であった。
噂は「お金を全部盗られた」とか「○○○○が殺されたそうだ」とか「○○夫人が強姦された」とか血生臭い風聞ばかりで無秩序と殺伐の気が流れ混乱の中を百鬼が横行していた。

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