九、凍土
 秋乙に住む日本人の男達も女達も、切ない迄に内地帰還を望み、今日か?明日か?。と来る日来る日に期待をかけていた。しかし、帰国日は沓として知れず、不安焦燥のうちに、月日は流れて十一月も半ばになっていた。
 東北よりに山を背負った秋乙にゆっくりと朝日が昇り、赤土の凍土の表面が少しずつ溶けて幾分か気温が柔ぐと、女達は床に敷いている毛布をあげて、埃をはたいたり床板を上げて(畳の台のない場所)ごみ屑を床下に掃き落としたり、と言う様な風変りな朝の掃除をしながら、寒さに向かう不安を冗談にまぎらせていた。「丸で乞食の掃除みたいよね」こんなどん底生活をしていると、磨きをかける床もないし、違い棚もないし、何も飾りが無いのだから、お掃除も簡単ね。水屋は空の石炭箱だしね。一つの空箱が食糧貯蔵庫にもなるし食卓にもなるし水屋にもなるし。」「家財道具は無い方が生活が簡単ね。」「でもそれも程度の問題よ。寒さが酷しくなると大変だわよ。お野菜が無くなるしね」「昨年の今頃は沢山の冬野菜(白菜や大根、牛蒡、人参)を買い込んでいたものねえ。」「寒くなると困るわ。」「寒いのは厭ねえ。」「余り寒くならない間に帰りたいわー。でも一体何時頃に帰れるのでしようねえ。」「帰りたいわ-」。話の合間に不安な本心が顔を覗かせてくるのだった。
「今年は昨年に比べて気候が暖かいから助かるわねえ」「でもこんな位の寒さでは済まないから」「物置に残っている燃料も後一週間で失くなると言う事だし。」「石炭もなくなるし、帰国の目標は全然つかないし、全く困っちゃうね。」柳沢夫人の言葉に皆同感の思いであった。
 一瞬!!。誰もが黙り込んでしまった。△△△△△△
 その時坂元の坊やと佐田が「向い側のソ連兵の官舎で〃練炭や屑炭や粉炭はニナーダ〃、(不要ぬ)と言っているよ。」と言って駈けこんで来た。早く。気の変らぬうちに貰いに行こうと言う事になって、居合せた全員が総出でバケツを持ち出して粉炭を運んだ。そして汚れついでに粘土質の赤土と混ぜて「たどん」を作る事となった。
 珍らしく小春日和で風は冷たいが日射しは柔らかく人々を包み、澄んだ空には爆音高くヒコーキが飛んでいた。「ロスキーサマリョ−。エタアメリカン(アメリカ製)。」誇らしげにミッシャーが手を上げた。大声で再びミッシャーは叫んだ。「ロスキーサマリョー。ハラシヨー。」余り無邪気で嬉しそうなので、登勢も思わず「ダーダ。」と相槌を打ったものの馬鹿らしくなって、忙がしそうに「たどん製造」に取り組んだ。佐田が粉炭に赤土を混ぜると、坂元の兄ちゃんの坊や(保)がそれを掬った。樗木と小吉(元上等兵)と舟元(元上等兵)はソ連軍の洗濯場へ、使役に行って留守であった。(使役は洗濯場だったり、炭坑だったりした。)夫人達は、まるで幼児が泥んこで土饅頭を作る様にして皆で丸めた。粉炭と赤土の凍土はお湯を沸して混ぜ合したにも関わらず、凍てっきそうに冷えきって丸めている指の先が、痛い程であった。けれども何故か心は弾んで、〃窮すれば通ず〃と叫んでいる様に誰もが明るい顔になっていた。
 ぼろ官舎は忽ち「たどん屋」に変貌して、真黒な粉が散らばり、官舎の南側の窓下や「おんどる」の横には、〃墨を彩ったテニスボール〃の様なたどんが一杯に並んだ。手も顔も鼻の穴まで、真黒になった顔を見合せて、相手の墨のついた顔を笑い合いながら、お昼過ぎには「たどん製造」がすっかり終った。
 産後風邪を引いて、おんどるの部屋に臥っていた上敷領夫人が、部屋の窓際まで出て来て橋口夫人に、鹿児島弁で、橋口夫人の顔についている炭を指さして何か言っているのが、柳沢夫人や河島夫人や登勢達には何も判らず、異人のたわ言を聞いている様で可笑しな言葉だと、にやにやしながら聞いていると、橋口夫人が「貴女達には判らんでしょう。」と言って通訳をした。上敷領夫人が「皆さん顔まで真黒になって働いていらっしゃるのに、私独り白い顔をして寝ていて済みません。」と言ったら橋口夫人が「遠慮しなくても貴女は寝ていて乳牛の様にお乳を製造すればいいので、私の顔は洗えば生れつきの白い顔にすぐ戻るから」と言ったのだそうだ。余り色白とは言えない二人の夫人の言葉のやりとりに、一層可笑しく改めて皆が笑った。笑い声は凍てた赤土の上を、からからと空虚に響いて転んでいった。
 コーリャの時計の事件があってからも、それとは関係なくサーシャとミッシャはよく遊びに来た。そしてハッとかけ声と共に、見事な倒立(逆立ち)をして見せた。登勢達が拍手をすると、何度も倒立を繰返したり、少年達と腕角力をしたりして、他意なく遊んで帰って行くのであった。ロシヤの黒パンを時々持って来て皆に配って呉れたりもしてシンプルツェン(単細胞)とも言うべきお人好し振りであった。一ケ月程前ミッシャに黒パンを貰って最初口にした時には、夫人達はその酢っぱい味にへき易した。一口食べて「わあー。すえている。」と言って吐き出したものだった。けれどその酢っぱい臭のする味にもだんだん馴れてきたというより、飢えと寒さが近づいて来て、その一片の黒パンもあだや疎そかに出来ぬと言う事でもあった。
 寒さが段々厳しくなって来るにつれて、サーシャもミッシャも他の下士官連中(時々来て気楽に話して帰っていた。)も来なくなった。
燃料の節約で夜しかペチカもおんどるも燃やさなかったので、ぼろ官舎は一層寒々として十二月を迎えようとしていた。
 選挙で冬を迎えた平壌の市内では、到る所にポスターが貼られていた。寺洞や美林に通じる道路側の塀にもペタペタと朝鮮文字のポスターが貼られていた。登勢に判るのは「金日成」という文字だけであった。足りなくなった食糧の買い出しに、寺洞の市場へ出かけた登勢は、始めて選挙があった事を知ったのであった。「金日成」の勝利で、選挙は終り、「北朝鮮人民共和国」と言う人民政府誕生の準備が始まろうとしていた。しかし秋乙は、ソ連軍と元日本軍の家族や、軍属とその家族達の治外法権的な状態にあったので、秋乙の住民の生活には余り関係なく、政権は動いていた。
 新聞もなく、ラジオも無く、人伝えに聞く噂だけが、僅かに社会の動きを知らせて呉れるのだった。事情が何一つ判らぬだけに、占いめいた事やら、「こっくりさん」等がよく流行して、帰国の時期を定めたり、臆測で取沙汰をしたりしている間に、月は師走に変っていた。
 登勢のお腹も、黒い上っぱりで、幾らかは隠せても、隠し切れぬ程に嵩を増して、妊娠八カ月の貫禄を充分に示す様になっていた。登勢はもう後一ケ月足らずでお正月が来ると思うと、あせりをおびた気持で、出産予定日の二月中旬迄には、内地へ帰りたいと思った。
 夫の岡田軍医の生家の、二百米程南の「七種橋」のたもとには、大きな公孫樹の樹があって、秋も十月の半ばを過ぎると、沢山の銀杏(ぎんなん)が風に吹かれて、音を立てて落ちるのだった。子供のくせに敏夫は、銀杏の炒ったのが好きでよく食べた。登勢はその大きな公孫樹が黄色に色づいて、夕陽に輝いているのを見るのが好きだった。十一月になると、黄色が段々と濃くなってそのうち一杯に黄色の落葉を散り敷きながら、晶子の歌の様に、金色(こんじき)の小さな鳥を舞わす銀杏の木!。もう師走の声を聞げば、金色の小鳥も残り少なくなって、数える程が梢に震えている事であろう。銀杏の葉が全部散った後も、高く天に手を伸した様にして、梢は彼女を招いてくれるのだ。どんな困難をも乗り越えて、子供達と共に、帰国せねばならないと、登勢は思った。それは祈りにも似た切ない迄の決意でもあった。
 樗木は元北鮮の電機会社に勤めていた関係で、電気に委しかった。使役に行かない日はソ連兵の当番がアイロンとかラジオの修理を頼みに来て、呼ばれて出かける事が多かった。そんな時は、不要になった電気工事用の部品を、貰い受けて帰って来た。そして廃品を使って鉄片に、丹念にコイルを巻き、お風呂に漬けるだけでお湯が沸せる道具を作った。官舎の電気代は無料で使いほうだいであった。幾ら使っても誰も検針に来る事もなく、電気風呂沸し器は、寒さに向って大変役に立った。丁度。パーコレーターのコーヒー沸しや、電気ポットを大きくした様な物であった。唯難儀な事には、アースが炊事場の水道の蛇口に取り付けてあるのだった。何げなく水を出そうとして、蛇口をひねると、いきなり「ピリピリピリ」と全身に電気が来て、肩の辺りの骨が「ガクッ」と鳴った。登勢達はアッ!」と声をあげて飛び上ったものだった。最初の間は水道に手を触れるのが恐ろしくその都度、電気を切って水を使っていたが、段々と要領も判って来て、「ピリピリ」にも馴れて、感電の心配もしなくなり非常に調法した。お風呂の燃料の問題はこれで解消したものの、引揚の時期が遅れた為、終戦時に糧秣から直接分配を受けた食糧も、三ケ月半の徒食に加えて盗難に逢ったりして、残り少なくなっていた。手持の米を持たない家族の為に御飯だけは共同炊飯にしたが、使役に行く男達の働きだけに依存する訳にもゆかなくなっていた。窓の外では坂元の清と敏夫が空缶を蹴って、遊んでいた。玩具の無い子供にとっては、何でもが玩具に変った。空缶はかん高い音を辛て、凍土の上を転がっていた。その音を聞きながら、明日から働きに行こうと登勢は決心するのだった。
 翌朝は粉雪が朝から降ったり止んだりしていた。
柳沢夫人に留里と敏夫を頼んで、九時頃に上敷領夫人と登勢は、仕事を探しに出かけた。すぐ北の一段上の官舎へ上敷領夫人が行く事にして、その次の段の北側の上の官舎へは登勢が行った。「スドラァスヴイチェ」(今日は)「アラボートイエスチ?」(お仕事があるでしょうか)。」ノックに応じてマダムが出て来た。
 「ダー。ダー。セラチイエスチ。(ええ、洗濯があります。)イジ−スダ−ダ-。(此方へ来なさい。)すぐに浴場へ案内された登勢は、浴場に自堕落に投げ出された洗濯物の山を見た。排泄物にまみれたおしめ。マダムの月の生理に汚れた下着や肌着類。日本人ならば自分で処理するであろう様な汚れ物の山に、登勢は吐気をもよおした。けれど仕事を与えられた事を、喜ばねばならぬと、思いなおした。幾ら思い直しても涙が溢れて、はらはらと洗濯物の上にこぼれた。敗戦の屈辱感が、悲しく彼女の心を苛なむのだった。登勢は何も考えずに一心に、洗う事に専念した。洗っている間に汗が流れ出て来た。その汗は涙を払った。洗濯が気分のわだかまりも一緒に濯いで呉れた。洗い終った頃には涙も乾いていた。汚れのひどいのは二度洗いをしたので、洗濯は割合時間がかかった。全部干し終ったのは十一時前であった。彼女が一生懸命に丁寧に洗ったのに、報酬は安かった。帰る時ロシアマダムは五円しか呉れなかった。マダムも生活が苦しいのか、それとも吝嗇なのか、登勢には判断がつかなかった。
 重い気分で外に出た登勢は、薪にする為すっかり壊した食堂舎跡の一枚残らず葉を落した枯木の様な姿の桐の裸木の下に立って、地肌をむき出した山を眺めていた。
 登勢の生れは播州宍粟の山崎町であ.った。林業が産業の一番に数えられる山国に育った彼女は、山には樹木が、沢山茂って生えているものだと、概念づけられていた。
 けれど眼の前の山は、何とも殺伐としたものであった。赤土の山肌に潅木がみすぼらしく枯れ葉が風に揺れていた。登勢は無闇に故郷の山が、懐かしく恋しかった。〃播州宍粟は山の国〃と民謡にまでも歌われ、整然と生えて並んだ桧や杉。それに音水(おんすい)や赤面(あかさ)は紅葉の名所としても知られていた。朝は朝霧の中から桧や杉の青さが現われ、谷川のせせらぎは澄みきっていた。山の清明な空気と水、それこそ人間の母胎の様な、本来の自然の姿ではなかろうか!。
 山崎町の最上山の紅葉山も、ハイキングコースとして自然公園になっていた。十一月になると美しく紅葉した沢山の楓が見事であった。娘の頃は美しく紅葉した楓の下で野点てのお茶会を楽しんだ事もあった。恵まれて育った娘時代、山が何時もそこにあった。〃故郷の山の懐しきかな。〃登勢の口から〃ふう〃と溜息が洩れた。〃あーあ-帰りたい!。涙が一条二条と頬を伝っていた。その時靴音を響かせて、後から声がした。「スドラァスヴイチェ(今日は)ドクトルマダム岡田奥さん」振りかえると少年ソ連兵ボーリャだった。目ざとく涙を見つけて「チオシトヴイグルウスナ?(どうしたの何が悲しいのか?)ムツシィナニエト?(夫が居ないからか?)」「ニエト、ヤホチュウ、ダモイヤポン(いいえ。私は日本へ帰りたいの。」それは秋乙の日本人全部の心の叫びでもあった。「アバンダーダー(そうですか成程)。」と云ってボーリャは一寸首を右へ傾け、手を振りながら南へ下りて行った。怪しげな雲ゆきの空からそのボーリャの背にも、登勢の肩にも、ふわふわと粉雪が散りかかっては消えた。
 登勢がボーリャと知り会ったのは、ぼろ官舎へ移ってまだ間も無い頃であった。萩原大尉の夫人の処に居た藤沢伍長が、足の膿瘍を腫らして困っているボーリャを連れて登勢の所に来たのだった。その頃登勢は、早晩ソ連軍より通達があって十月中には内地へ帰国出来ると信じていたのであった。それでびっこ跛を引いているボーリャに、惜しげもなく手持ちのアクチゾール(赤い色をした初期のサルファ剤)2・の注射をしてやったのだった。その筋肉注射一本が、生まれてから注射等打った事のないボーリャの体にどんな特効薬的な効能を現わした事か!
ボーリャは注射器を消毒している登勢の手元を珍らしそうに眺めながら、「それは死ぬ時にする物と違うのか?」と言っていたが、怖る怖る打って貰った注射一本の効験の偉力は、何時の間にか登勢をドクトルマダム岡田奥さんに持ち上げていた。無邪気なボーリャの笑顔に幾分気を取り直して、登勢が重く垂れた雪雲のように重い足取りで官舎に帰ると、上敷領夫人はもう先に帰っていて、「奥さんどうでした?、私は小さいりんご(国光)一コ(約六円)もらっただけよ。」と言ってがっかりしていた。「明日も来る様にと言う事だけど、もう行く気がないわ。」と肩を落として溜息をついた。「今日、お仕事にいらっしたの?」河島夫人が部屋に入って来た。「ええ。だけど駄目!。もうすぐお正月が来ると言うのに何と言ううらぶれた年の瀬でしょうね。」上敷領夫人が佗しそうに言った。「内地に居れば少しでもお餅の配給もあるでしょうにねえ。」と河島夫人も新珠美登勢に似た色白の顔に淋しい笑いを浮べて言った。登勢は黙って二人の話を聞きながら餅搗で賑わう生れ故郷の年の瀬を思い出していた。
 宍粟の山崎町には上寺町という部落があって、新旧のお正月には部落全員が餅搗組合を作っていた。五-六人が一組となって、上寺組の揃いの法被(はっぴ)姿も凛々しく、蒸篭(せいろう)や臼や釜、そしてかまどまでも荷なって運んでは町内を戸毎に、お餅を搗いて廻るのだった。三人の杵を持った人が二人と一人で向かいあって、「エッー。」「ハッー。」「エッー。」「ハッー。」と掛け声勇ましくお餅を搗くのだった。「ペッタン。」「ポッタン。」と三本の杵の落ちる間を縫って杵取りが素早くお餅をこねる。まさに名人芸とも言うべき鮮かなお餅搗きだった。登勢の子供の頃は、一軒で拾日以上搗いて貰う家が沢山あって、景気の良い音が町中に響いて年が暮れ、新年の年を迎えるのだった。登勢は妹の紀代や百代や文代(四女)そして周代(五女)達と、どんなにこのお餅搗きを楽しみにして育った事か!!。
 「もういくつねるとお正月:、.」と幼ない歌声迄が杵音と一緒に流れた。十二月から二月の立春迄は、町中が新正月、寒の餅、おかき、旧正月、節分と、江戸時代の本田藩城下町らしい習慣や杵音に賑わうのであった。戦争が段々と苛烈をきわめ、お米(糯)の配給が少なくなって来てからも搗く臼の数は減っていたが田舎町の事とて、近所で持ち寄ったり、農家から工面して貰ったりして餅搗きの風習は続いていたのだった。
「今年は、とてもお餅は食べられないわねえ。お餅どころか、お米(御飯)さえ食べられるかどうか、先が案じられるものねえ。」と上敷領夫人が丸い目をぐるぐる廻すようにして言った。登勢は〃そうだ!今年はお餅が食べられない代りに炊った糯粉のお団子を作ろう!と思った。引越しの際以前の官舎に糯粉を一袋置き去りにして居る事を思った。後に入って住んでいるソ連人には、小麦粉以外は要らないのではなかろうか?引揚げの定まる迄は何でも大切にしなければならない。ともかく、以前の官舎へ行って見ようと考えた。河島夫人達と三人で相談をした結果、当然に自分のものでも、糯粉は早く取りに行った方が良いだろうと言う事になった。
 しかし、クリスマス前後は〃ソ連兵〃が朝からお酒を飲んで遊ぶので、日本人会から、外出を禁じられていたので、二、三日待って出かける事にした。ソ連では、クリスマスに、皆お酒を飲んでマダム相手に、ダンスをしたり、トランプをして遊ぶらしかった。これ迄登勢はトルストイの小説〃アンナ・カレーニナ〃に登場する人物(レーヴィン)や〃戦争と平和〃子供の頃読んだ〃イワンの馬鹿〃に盛り込まれた宗教的な芳りに、ロシア人はクリスチャンが多いと思っていた。しかし、登勢の考えとは反して、ロシア人の中には、無神論者も多く、クリスマスは〃マロース〃というサンタクロースに似た、寒さの爺さんのお祭りだという事だった。クリスマス前後の日は、すぐ上の官舎でも夜遅く迄賑やかな音楽がなり、陽気にダンスが続いて、よく太ったマダムが腰を振り振り踊っているのがガラス戸越しに見えた。登勢達のボロ官舎では、夜は早くから消燈しているので、破れた毛布で間に合わせたカーテンの隙間から、ロシアマダムの踊りが見え、どうも、子供達へ教育上思わしくないと言って、子供達を叱りつけて早く寝させるのに大人達は忙しかった。

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