腔の読み 番外その4 南腔北調集 
魯迅が1932年から亡くなる直前までに書いた、その時々の随想集が「南腔北調集」です。随想というのは当たらないかも知れません。何分、魯迅は文学者であると同時に、それ以上革命家、思想家であった訳で、今の日本の随筆の範疇に入れるのはためらわれます。しかし、この「南腔北調」と言う言葉そのものは非常に明解です。それは魯迅自身が題記として「南腔北調集」の最初に何故「南腔北調集」と名付けたかを書いているからです。即ち、魯迅は中国の各地で活動し、そのために話す言葉が各地の発音、方言が入り交じり、人から魯迅の演説は「南腔北調だ」と言われたことによります。南腔は主として上海近辺の発音、方言であり、北調は北京での発音、方言です。演説に限らず、書く文章も南腔北調になった。中国全土、或いは種々の話題を取り上げた文章を集めたモノ、というのが題名の起こりです。このように中国では「腔」は声の節回しを意味するのが普通です。京劇の音曲にも腔のつくものがいくつか有ります。丁度、日本の東京音頭や佐渡おけさや木遣り節等の、音頭、おけさ、節に相当するのが「腔」です。中国では「南腔北調集」をなんと発音しているのかは知りませんが、日本では「なんこうほくちょうしゅう」と読むのが正しいでしょう。
魯迅は若い頃、日本に留学し、仙台で医学を学んでいました。この時のことを書いた作品に「藤野先生」が有ります。藤野先生は、解剖学の教授で魯迅のノートを添削し、親身になって世話をした人です。魯迅は口腔、鼻腔をなんと発音していたのでしょう?。2000年の時点では分りませんでしたが、その後、藤野先生は“こうくう”、“びくう”と発音していたことが分かりました。藤野先生は愛知県立医学校を卒業し、同校で解剖を教えていましたが、郷里の福井に近い官立金沢高等中学医学校の教員を希望しましたが叶わず、生命保険会社の嘱託医の傍ら、東大医学部解剖学講座で研究を続けました。東大の解剖学講座は“くう”の本場ですので、当然“こうくう”、“びくう”です。藤野先生はその後、仙台医学専門学校の教師となり、魯迅が入学する3ヶ月前に教授に昇進します。

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