腔の読み その1 腔の読みには二つ有る
私の専門は口腔外科です。口腔(こうくう)(こうこう)、鼻腔(びくう)(びこう)、胸腔(きょうくう)(きょうこう)、腹腔(ふくくう、ふっくう)(ふっこう)、関節腔(かんせつくう)(かんせつこう)、くも膜下腔(くもまくかくう)(くもまくかこう)その他色々の腔(くう)(こう)が体には有りますが、皆さんはどちらの読みがしっくりと馴染めますか?。これらの言葉は総て前の方の読みが医学用語として定着しております。これらの言葉を一般的な言葉に置き換えますと、口腔→口の中、鼻腔→鼻の中、胸腔…これは適当な言葉が有りません。胸の内というと愛の告白とか、振られた恨み辛みとか、”胸腔”なんぞは普通の人は使いません。でも医者は胸腔穿刺、胸腔内注射というように使います。要するに肋骨の内側の肺臓や心臓を納めている空間のことです。ココに液が溜まるのを胸水と言います。腹腔、これはそのものズバリ”おなか”でしょう。関節腔、くも膜下腔も胸腔と同様一般の人が日常的に使う言葉では有りません。使うのは医者から病状の説明や、検査内容の説明を聴き、それを他の家族や知人に伝える場合でしょう。しかし、関節腔(かんせつくう)と聴くと!ああ、関節の骨と骨の間の隙間、空間のことだなあ!と容易に理解できるでしょう。これを、もし(かんせつこう)と言われると、関節に穴があいてるの?関節に溝があるの?なんか難しそう?。又、鼻腔を(びこう)と言われると、鼻孔と勘違いをして、鼻の穴だけなのだ!、鼻の中の方は問題ないのだ!、と思うかもしれません。口腔も(こうこう)と言うと、病膏肓に入る(やまいこうこうにいる、最近はやまいこうもうにいるとも言う…病気が重くなって助からない状態)という語句を思い、次の話を聞く前に重症と思いこむかも知れません。病院で口の中の病気の話をしていて(こうくう)を航空と勘違いするような人は極めて不思議な想像力豊かな人だけでしょう。しかし、その様な人でも数秒後にはおかしいと気が付いて(こうくう)とは口の中のことだと理解するでしょう。では、何故「腔」に(くう)と(こう)の二通りの読みが有るのでしょう?以下は暇を作ってこの問題について調べた結果です。

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腔の読み その2 腔の読みを調べるようになった経緯
私の同僚の I 先生が一般の人を対象に口腔外科の講義を頼まれました。このI 先生は口腔外科の臨床も豊富で、話術も巧、難しい口の中の病気とその治療法について分かり易く講演するので好評です。ある講演の後の質問で、一人の高齢者が質問されました。「私は戦時中に陸軍の衛生兵をしていましたが、当時は(こうこうげか)と言っていました。何時から(こうくうげか)と言うようになったのですか?」 I 先生は戦後もずーと後の生まれです。一瞬たじろぎましたが、直ぐ気を取り直し、「私は大学に入学してからズート(こうくうげか)としか習っていません。戦時中に(こうこうげか)と言っていたのなら、(こうくうげか)と言うようになったのは、戦後じゃないでしょうか?不勉強で申し訳有りません。後で調べてお返事致します」とその場は繕ったそうです。医局でこの問題を I 先生から質問された私は、心当たりが有ったので書棚を探し「ああ!それは戦時中に文部省の要請を受けて医学会の用語委員会で(こうくう)と言うことに決めたのだよ。この本にその経緯が書かれている」と、小川鼎三氏の「医学用語の起こり」の51章を示しました。この本の51章は昭和51年頃に書かれたもので、小川氏は「“こう”と読む漢字があまりにも多く紛らわしいので、耳で聞いてすぐ分かるように、医者は漢字を知らないと謗られても“くう”と読むことに40年前に決めた」いう内容が書かれており、 I 先生はこの部分をコピーして質問者に送り、1件落着、目出度し!目出度しとなりました。
でも、文部省の肝煎りで決定した学術用語の読みが今尚混乱しているのはなぜでしょう?少し調べてみる気になりました。
参考文献:「医学用語の起こり:51章・口の奥、のどの二構造…口蓋垂と喉頭蓋」初出:「クレアータ」 昭和51年秋季号、草土社、 合本:「医学用語の起こり」東京書籍、昭和58年1月、 再刊:東書選書「医学用語の起こり」東京書籍、平成2年10月

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腔の読み その3 腔の読みの現状
 口腔を始め腔を含むこれらの言葉は医学用語として完全に定着し、医者と患者・家族との意志の疎通、情報伝達に不可欠な用語です。しかし、手元の国語辞典のたぐいを見ますと妙な記述に気づかれると思います。例えば“口腔 こうくう”を曳きますと大半の辞書は、・“こうこう”として、“こうこう”を見るようにしています。“こうこう”では腔の読みを“くう”は慣用読みであるとか、誤読であるとか、医学では“くう”だが一般には“こう”が正しいとか、あの有名?な明解国語辞典では医者仲間では“くう”と云うが誤りとかいう記述がされています。これでは“くう”は刑事が使う“ころし”“たたき”、飲み屋が使う“一見”“裏”その他商人が其の業界のみの符丁と同じ業界用語扱いです。甚だしきに至っては、“くう”は医者の談合読みと書かれた用語集も見られます。現在、腔を含む熟語の大半は医学用語で、本来の腔は殆ど死語に成りつつあります。“腔調(こうちょう)”あるいは“秦腔(しんこう)”という言葉とその意味を具体的にを知っている日本人が現在どれほどいるか? 例え、居ても実際に使う人は皆無に等しいと想像します(宮内庁の雅楽や舞楽を演奏する人?)。あと一つ“満腔(まんこう)”、これは、戦前のもったいぶった礼状や謝辞等に散見されますが、最近では殆ど使われていないようです。特に、語感が関東地方の人には何故か抵抗が有るようです。ーと、思っていましたが、インターネットのgooで満腔をキーワードにして検索しましたら、なんと60件近くヒットして驚きました。その5割は法曹関係で大半はオウム関連、それ以外も裁判の内容を抗議するもので内容は殆ど同じです。3割は、企業や自治体の行事のえらいさんの挨拶文がそのまま掲載されたモノです。“満腔”の代わりに、“衷心より”や“心より”などをキーワードにして検索すればパソコンが壊れるほど(2万件以上)ヒットするることから60件は極めて少ない数字です。少なくとも戦後生まれの私は、謝辞などでこの言葉を聴いた記憶は御座いません。2割はなんとアダルトサイト。更にもう一つ“腔腸動物(こうちょうどうぶつ)”という言葉がありますが、これについては後述致します。
 ご承知のように腔という漢字は、肉体と関係のある月と空間を現わす空(くう)との形声です。しかし、腔を“くう”とは発音せず日本では“こう”と読むのが正しいとされています。上記した“腔調”、“秦腔”、“満腔”は“こうちょう”、“しんこう”、“まんこう”と読むのが正しいことは否定できません。しかし、最初に挙げた“口腔”、“鼻腔”、“胸腔”等は“くう”と読むのが正しいのです。決して医学用語では“くう”だが一般には“こう”では無いのです。一般でも。“口腔”は“こうくう”が正しいのです。では、何故混乱したのでしょう?

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腔の読み その4 腔の読みが混乱した原因
 腔は解剖学用語 Cavum の訳です。前野良澤と杉田玄白が翻訳した解体新書には腔の字が見あたらないので、明治時代に腔の字を Cavum に当てました(と私は推測しています)。Cavum に関連する語はいくつか有ります。口腔、鼻腔、腹腔、くも膜下腔、関節腔、胸腔、等であります。更に Spatium も腔と訳していました(これは後に“隙”の字を当て、腔より境界のより不明瞭な空間を意味しています)。
 一方、“こう”の音を含む解剖名や医学用語も非常にたくさん有ります。即ち、口、咬、胱、高、孔、後、甲、溝、紅、肛、厚、抗、鈎等です。更に医学用語に限定しなければ“こう”の字はもっと増えます。漢和辞典で“こう”と読む漢字はゆうに300を越えます。しかし、“くう”と音読みするのは“空”だけです。口腔も“くう”と読めば同じ読みは“航空”だけですが、“こう”と読めば、手持ちの国語辞典だけでも、膏肓(病膏肓に入る)、硬膏(硬い膏薬、主として口内炎に用いる…柔らかいと唾液に溶けて流れてしまうから)、高校、孝行、航行、後攻、工高、坑口、港口、硬鋼、煌々、後項、皎々等が挙げられています。
 学術用語は字を見なくても耳で聞いて誤りが無いことが優先されます。19世紀後半に国際的な解剖用語の制定が有りましたが(これをBNAと言います)、1920年代に改訂があり(これをJNAといいます)、日本解剖学会は昭和5年から8年にかけてこれに対応する日本語訳の改訂作業を行なっています。このときは国際的な改訂に合わせるだけでしたが、学会内部で日本語として臨床の場でも聴き誤りの無いことが求められたため、当時の文部省、日本医学会からの要請と協力・連携の基、昭和15年に再度、日本解剖学会に用語委員会が作られ、検討されました。腔が正しい読みは“こう”で有るが、あえて“くう”と読むことにしようと決められたのはこの時期です。最終的に昭和18年に漸く委員会の決定をみ、藁半紙の印刷物が解剖学会の会員に配布され、19年には医学会・文部省にも通知されたそうです。この用語委員会の決定は戦後の昭和22年に丸善書店から解剖学用語集として日の目をみることになりました。
 ちなみに、昭和13年に出された「辞書式 新旧対象 解剖学名集覧 高木・尾持 編」では腔を“こう”として“くう”は誤読とわざわざ明記しています。これは、戦前の多くの医師は腔を“こう”と読んでいたこと、一般人は“くう”と読むかもしれないがそれは誤読だ!といい、医学界の大半は“こう”が当然で要するに、腔を“こう”と読まずに“くう”と読むようにしたのは用語選定に際しての文部省の基本方針! 学問上の誤りを避ける、耳で聞いただけで理解できる、学問・臨床現場で不要な勘違いを無くす! ということが優先された結果で、それ以前から医師が漢字を知らずに慣用的に“くう”と云っていたとか、医者仲間だけに通用する業界用語として使用していたのではありません。
 以上が腔を“こう”と読まず“くう”と読むことにしたいきさつです。医者と文部省だけで勝手に決めて言語学者に相談がないのはけしからん。これぞ談合だと言われればそれまでですが、文部省が後押しをしているからには、それなりの調整が為されたと想像されます。
 前述した様に、用語委員の一人であった当時東京帝国大学医学部解剖学講師・小川鼎三氏(東京大学教授を停年退官後、順天堂大学医学部医学史・教授、昭和59年没)が昭和51年頃に書かれた医学用語の解説文に腔についてのこの間のいきさつが述べられています。(余談ながら小川氏は日本の古文書、漢籍、ラテン語、ギリシャ語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語に精通し、博覧強記は群を抜き、当時の帝国大学医学部はもとより文学部の古参教授連が一目置いていたと推察されます)。またこの時に改訂された他の主要な解剖学用語について東大教授の藤田恒太郎氏が戦後の昭和24年に日本医師会雑誌23巻に7回の連載で詳述されています。(藤田氏は解剖学会の用語委員ではありませんが幹事のような役割をされ、他の医学用語の分科会との調整や、解剖学会内部でも書記・調整役をされ、用語選定に重要な役割を果たされたのであろう。)
 さて、昭和22年に解剖学用語集は丸善より刊行され、腔を“くう”と読むことはその後徐々に医学界には定着してきましたが、一般の国語教育に関しては国語審議会等が新たな、且つ大幅な国語教育の変換を行なって参りました。日本解剖学会を含め、日本医学会の各分科会もこの国語審議会の動向を見極めるべく静観していたのが戦後の実状と推察いたします。更に医学会は分科会が多く、全体として用語の統一は極めて困難な状態であります。
 一方、私の属する歯科学は、歯科用語では解剖学会と同様、昭和15年に日本医学会の要請により選定を始め、昭和18年に一応の結果を報告していますが、充分日の目をみて居ません。戦後、日本医学会、文部省、国語審議会等と協力して徐々に体制を作り、用語の選定が軌道に乗りかけたのは昭和35年以降のことです。その後、文部省の学術用語関係の審議会の改変や国際歯科連盟の用語改正があり、用語の選定は紆余曲折し、最終的な原案は昭和47年に出されています。しかし、これは文部省の学術審議会学術用語分科会を通過したものの、翌48年の国語審議会に於いて口腔の読みを“こうくう”に採択した点が審議され、既に動物学会から昭和29年制定の「学術用語集動物編」に“腔腸動物”を“こうちょうどうぶつ”、口腔の読みを“こうこう”と記載されていることから今後の検討事項とされ今日に至っています。これは戦時中の解剖学会、医学会での「くう」と読む決定が動物学会には、ほとんど伝わらなかったこと、動物学会が語句の検討を怠ったこと、歯科の用語委員に腔を“くう”と読むに至った経緯を知る人が居なかったこと等が重複したためと推察されます。
 文化庁はこの時の国語審議会の内容を、昭和51年「ことばシリーズ5、言葉に関する問答集2」の6頁に要約し、一般には“こう”が正しいが医学用語では“くう”が正式用語と結論づけています。
 即ち、国語辞典や漢和辞典の編者の多くはこの「ことばシリーズ5、言葉に関する問答集2」の6頁に要約されている、一般には“こう”が正しいが医学用語では“くう”とするという記述に基づいていると推察され、これが混乱の原因でしょう。

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腔の読み その5 口腔の読みはいつから“こうくう”?
 ここまで調べて一つの疑問が残りました。それは前述の小川氏が「“くう”と読むことに決めたのは40年ほど前だ」と昭和51年に書かれたことです。その40年前と言えば昭和11年頃、昭和18年の解剖学会の決定より少なくとも7年も前です。昭和18年とすれば、その頃医療現場、特に診療科名に口腔の付く口腔外科では些かの混乱が有ったのでは? 昨日まで“こうこうげか”と言っていたのが、今日からは“こうくうげか”、誰でも戸惑うでしょう!、私の恩師である宮崎 正 大阪大学名誉教授に手紙でこのことを尋ねました。宮崎先生は昭和19年に大阪歯科医学専門学校卒業、大阪帝国大学医学部歯科専科入局で、私の疑問は氷解すると考えたのです。数日後、電話を頂きご無沙汰と早速の電話に恐縮しながら聞いたのは、やや意外なことでした。それは、学生時代から“こうくう”と言い慣わしており、医科は知らず、歯科では“こうこう”なんぞという言い方はしなかったということです。何となく釈然としないながら、“くう”と読むことに決めたのはもしかしたら昭和5年の解剖学会の用語委員会かな? もしそうならこれを調べるきっかけになった衛生兵の話や、尾持・高木の用語辞書の記載と矛盾するし、一体どうなっているんだろう? これは当時のことを知っている人に聞くしかないと考え、一面識も有りませんでしたが大学の大先輩に当たる大阪帝国大学医学部歯科専科に昭和11年に入局された日比野先生に手紙を出しました。日比野先生の返事は、昭和8年に歯科医学専門学校に入学して以来一貫して“こうくう”と言い、“こうこう”と言ったことは一度も無いとのことです。このお返事を頂いて私の疑問は更に増幅しました。ひょっとすると医科では“こうこう”と言い、歯科では“こうくう”と2通りの言い方をしていたのではと考えるようになりました。でもそれを裏付けるものを見つけることは出来ません。歯科の重要な分野である“口腔衛生学”や“口腔外科学”は明治30年頃から、当時の歯科医学専門学校の講義科目や今の国家試験に相当する歯科医術開業試験科目として記録が残っていますが、当時の教科書等を見ましても、読み迄は分かりません。私の所属する徳島大学では、医学部は戦時中の医学専門学校から、歯学部の創設は昭和53年、従って大学の付属図書館には明治・大正・昭和初期の蔵書は極わづかです。仕事の無い土曜日に暇を作って図書館の古い蔵書を探しました。そんなある日、昭和3年に口腔を“こうくう”と言っていた確実な証拠を見つけました。それは、口腔病学会誌です。昭和3年に当時の文部省は、歯科医術開業試験を行なう直轄の試験機関を昇格し、東京高等歯科医学専門学校(現:東京医科歯科大学歯学部)を設立しましたが、その前年にこの機関の教育者・研究者が設立した口腔病学会の機関誌にはローマ字でKokubyugwakaizattsiと記載されており、“口腔”を“こうくう”と読むことは歯科では極めて普通のことで、文部省も周知公認であったと考えられます。即ち、歯科(文部省)では昭和3年以前より“くう”と読んでいたことが確認できたのです。ですから、昭和48年7月の第85回国語審議会において、歯学用語専門委員会主査の杉山不二氏が、学術用語集動物学編の口腔“こうこう”に対し、歯科医学では“こうくう”を慣用していたという根拠が示されたわけです。

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腔の読み その6 手詰まり 家庭医学書のルビが頼り
 なんとか昭和3年まで歯科では口腔を“こうくう”と読み、当時の文部省もそれを当然としていたことが確認されました。しかし、それ以前はどうなのだろう?疑問は更に膨らみます。もう手詰まりでしたが、丁度学生は夏休み期間で、この期間には講義も実習もないので、臨床・研究の合間に息抜きのつもりで図書館の書庫へ行くことが多くなりました。阿波踊りのよしこのの伴奏が大学の構内でも聞かれるある日、専門書を調べても漢字の読みは解らない、一般向けの本ならルビ(ふりかな)が有るかも知れないと考え、それを捜すことにしました。
捜せば有るもので、まず昭和5年大阪毎日新聞社発行、毎日年鑑付録「家庭医典」、これは、読者の葉書による医学相談に回答者が答える形式で、回答者には当時の大阪帝国大学医学部の教授や大病院の院長クラスが選ばれています。大阪大学歯学部の祖であり、当時歯科学教室主任教授の弓倉繁家先生も回答者として写真入りで紹介されています。但し、この本では口腔は総て“こうこう”とルビがあり、私の期待と反する結果でした。回答の文章に非常にくだけた表現があり、新聞社の編集員がかなり手を入れたことが想像されますが、それでも一般には“こうこう”が普通で、医科もこの時期には“こうこう”であった可能性が高いと推察されます。次に見つけましたのは、明治40年大阪明昇堂発行、藤谷祟文館発売、京都鴨川病院院長 大河原正保著、「家庭衛生顧問」、これには口腔は“かうくう”と“こうくう”の両方のルビが混在して振ってあり、ひょっとして医科も明治時代には“こうくう”と言っていたのでは、思うようになりましたが、確証はありません。
あと、いくら捜しても徳島大学の図書館では、ルビ付きの明治・大正期の医学書は見つかりませんでした。

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腔の読み その7 腔が医学用語として使われたのは何時から?
 医学用語、特に解剖学用語のいくつかは、前野良澤・杉田玄白の解体新書にその起源を有します。解体新書には腔の字はみられませんが、上顎洞を骨空と表現しています(講談社学術文庫・酒井シズ「解体新書」全現代語訳では骨腔としていますが、残念なことに“こつこう”とルビがされています)。解体新書より約20年後に出た宇田川玄真の和蘭内景医範提綱(1805年、文化2年)に腔の字はみられますが、上腔、中腔、下腔をそれぞれ頭部、胸部、腹部とし今日の腔の概念と大きく異なっています。あたかも仏教での上品、中品、下品や神農本草経の分類の様に思え、中医・漢方での分類かも知れないと考え、インターネットで検索し、その専門の村上氏(村上養生堂:)にお尋ねしましたが、宇田川玄真の造語のようです。更に20年後の大槻玄沢の重訂解体新書(1826年)でも腔は無く、解体新書と同様に上顎洞を骨空と表現しています。現在の腔に近い概念で使われているのは1827年、阿波・徳島の高良斎の翻訳書「耳詳説」に中耳を鼓腔と訳したのが最初と考えられます。あるいはそれ以前にもあるかもしれません。明治になり“腔”の字は医学用語として次第に定着し、特にcavum, cavity,  spatiumの訳語として広まったようです。明治5年に大野九十九の官選「解体学語箋」に心耳腔(心房のこと)等、いくつか腔を含む術語が記載されているようです(実物を見ていないので解りません)。つい先日、明治12年の内務省衛生局発行「医学七科問答」を図書館の書庫で見つけました。これは、第1回の医術開業試験用に解剖学書を始め内科、外科等の試験科目毎に7冊の参考書を内務省が出版したものです。この解剖学編に「口腔」の表題で3頁にわたり問題と回答が記載されています。勿論ルビは有りませんが、現在の厚生省の性格の内務省が官撰の書籍で「口腔」を使用した最初と考えられます。明治初期の解剖学をリードしたのは、東京大学の初代の解剖学教授であった田口和美で、明治12年に著した「解剖撹要」はその後20年以上売れ続け、明治20年には、田口はこの印税でドイツに留学したとのことです。ちなみに田口和美は明治36年に第1回の日本医学会総会の会長を勤めています。、現在使われている解剖学用語の多くはこの時代に考案され、整理され、1895年の国際的な解剖用語の制定(BNA)に合わせた明治38年の「解剖学名集」で確定したと考えられます。
 明治初〜中期の解剖学会は、解剖学のみならず医学全般、動物学、人類学、民俗学をも含めた極めてグローバルな学会で、鼻腔、口腔、腹腔、胸腔等の医学用語はそのまま動物学用語としても使用され、明治中期から後期・大正と徐々に動物学が医学と離れてもそのまま使用されることになりました。戦時中の医学会の用語の改訂が動物学会に充分伝わらなかったのは頗る残念な事ですが、当時の状況を考えればやむを得ないと思います。

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腔の読み その8 腔の読みはくう?
 昭和初期から20年頃まで、腔は医科が“こう”、歯科が“くう”と読んでいたことは解っていただけたと思います。では、大正期は? 明治時代は? となると全く解りません。腔の読み その6で、医科の人も明治40年には“くう”と読んでいた例を示しましたが、或いは腔は医学用語として使われだした頃、即ち幕末から明治を通して“くう”と読んでいたのではないかという思いがして参りました。例えば、解体新書では今の上顎洞を骨空と表現しています。これは当然“こつくう”と読んだでしょう。ただ、空では何とも納まりが悪い、体を意味する肉づき、即ち月を付ければそれだけで体の中の空なる部分を現すことが出来る、と考えたのでは無いでしょうか? 漢字の腔の本来の意味は楽器の音や声の調子を意味しています。現在の漢和辞典で体一杯と解説されている満腔も、昔の漢字辞書の説文新附では惻隠の情とし、体より心・精神的なものを意味しています。ですから満腔は体一杯ではなく、心一杯であり、体の中の空洞を意味する語では無いと考えます。中国の辞書の一つである康煕字典には説文新附の説明として内空也、从肉从空、空亦聲と説明され、今の腔に近い概念が示されていますが、具体的な用例は挙げられていません。口腔や腹腔の用例が見えるのは中華民国建国後のことで日本からの逆輸入と考えられますが、何分漢文の素養がありませんので、推測・独断の域を出ません。
 医学用語で使われる腔は体の個々の解剖的な空洞を意味するために、幕末から明治にかけて解剖学の必要上から体を表す月と空洞を現す空より作られた【国字】?であって、偶然昔から存在した漢字の腔と同じであったと考えられないでしょうか? この様な想像をするのにはそれなりの前例があります。既述している小川鼎三氏の「医学用語の起こり」には杉田玄白が解体新書を訳す際に、女性性器を現すワギナ・シャイデを月と室とで腟を造語し、”しつ”と読ませようとしたが、形の似ていた膣(肉が生じる)の字が既にあり、読みもチツになったことが記されています。医学用語では腟で、読みは”チツ”ですが、国語辞典、漢和辞典では膣を正字、腟を異体字としています。解体新書以来明治中期までには、欧米の学問の移入に際して多くの新造語、術語が考案され、あるいは新たな意味を持たせたり、読みを変えたことは周知の通りです。膵臓の膵や唾液腺の腺はこの時期に作られた国字です。腔が訳語に採用される以前の解剖学名には”空”が散見されます。空では何か空しい。そうだ! “にくづき”を付ければ解剖用語に最もふさわしい! 腔の字もこの様に月と空を合わせ形声文字として“くう”と読んでいたのが、元々漢字に同じ字の腔があるのに気づいた言語学者が、明治の中頃からこれは“こう”と読むのだ! 医者、歯医者は漢字を知らん! というわけで、医科は徐々に腔を“こう”と読むようになったが、歯科の方は「口腔衛生学」、「口腔生理学」、「口腔外科学」等が講義科目名や内務省の試験科目としていずれも“こうくう”で完全に定着しており、戦前の文部省も“こうこう”なんぞとは言わず、戦後の文部省の大学令による歯科大学の講義科目や厚生省の歯科医師国家試験科目も、ずーっと、“こうくう”で、一度も“こうこう”と読むことなく、昭和48年の国語審議会で始めて“こうこう”と言われて、?ハテナのまま現在に至ったのでは無いかと推察しています。もうそろそろ国語辞書は腔の読みを“くう”に統一し、腔調、秦腔は古語として(日本では使う人は居ないと想像しますが)、こうちょう、しんこうと本来の読みを残すのが適切なのではないでしょうか? 満腔、これはどうしましょう? 私は“まんくう”の方が言いやすいと思うのですが! オウム(アレフ)の人はどう読んでいるのでしょう?

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腔の読み その9
腔の読みをホームページに載せようとHTMLを勉強しましたが、なかなかうまくいきません。その内に明治の始めから腔を“くう”と読んでいたもう少し確実な資料が必要と考えるようになりました。そこで、明治時代の家庭向け、一般向けの医学書・衛生書をもう少し探そうと考えました。インターネットで全国の図書館の文献検索を公開しているOPACで検索しましたが、大半の図書館は1960年以降、一部は極最近の蔵書しか登録されていませんでした。99年もおわりの12月に入り県立図書館で、ふと国立国会図書館ならあるはずと思い、国会図書館の文献目録を捜し家庭医学、家庭衛生の項目をコピーして出ていそうな本を題名から20冊ばかり選びました。国会図書館は一般には本を貸し出してくれないので、この20冊前後の題名で、再度OPACで検索しましたら、明治末から大正期の4冊が日本女子大の図書館にあることが解りました。意を決して、徳島大学図書館より相互貸借制度で貸し出しを依頼したのは年末の27日です。更に残りの本もどこかの大学に無いか調べてくれるように頼みました。調べて頂いたのは
家庭衛生論 山本与一郎編 東京 以仁堂 明21.6
家庭衛生法 緒方太郎著 大阪 梅原亀七、松村久兵衛 明23.7
家庭衛生(家庭叢書第6巻) 東京 民友社 明27.11
家事衛生(女学叢書第2巻) 三宅秀述、浜武亀代子等記 東京 大日本女学会 明34.2
家庭衛生講話 2冊 糸左近著 東京 金刺芳流堂 明36、40
家庭衛生叢書 6冊(12編合本) 中川恭次郎編 井上通泰監修 博文館 明37−40
家庭衛生及看護法 山田謙次著 東京 半田屋医籍 明38.12
衣食住 家庭衛生 慶松勝左衛門著 東京 育成会 明38.7
家庭衛生談 十大医学博士 天野馨編 東京 新橋堂 明38.7
家事衛生 三宅秀述 校吉鶴等記 東京 三宅秀 明38.8
家庭衛生のしるべ 大北準一郎著、浅江鉄二訂 大阪 積善館 明40.8
家庭医学 坂本稿三郎著 東京 博報堂 明42.9
家庭医書増補4版 半谷秀高著 東京 半谷秀高 明44.1
家庭衛生顧間 斎藤政一、村田天籟著 東京 大学館 明44.3
家庭医学 糸左近著 東京 金刺芳流堂 明44.7
家庭諸病治療全書 森重敏編 東京 破凡病寮 明45.6
活ける家 家庭医学 渡辺房吉著 東京 大日本私立婦人衛生会 明45.2
です。
年が明けてこのうち5冊が各地の大学図書館にあると知らされ、それの貸し出しもお願いいたしました。更に上記した本のいくつかは1992年に「近代日本養生論・衛生論集成」全21巻として瀧澤利行氏監修で大空社よりそのまま写真復刻されて徳島大学総合科学学部の中安研究室が所有しているとのことで、是には驚きました。丁度、その日は予定された手術が中止になり、他に予定も無かったため、チャリンコをこいで5キロ離れた常三島キャンパスに行き、全書の閲覧をお願いしましたところ、快く承諾され数時間「腔」の字を探しました。この全集はその名の通り、養生、衛生が中心で、食事、住居、睡眠、衣類等の記事が主で、特に養生関係の本には腔の字は見あたりませんでした。全集の内容は
:第1巻) 民家日用養生新論. 江守敬寿, 大川渉吉纂輯. 明治7年刊、蟠竜堂 、他
:第2巻) 民間四季養生心得. 太田雄寧著. 明治10年刊、他
:第3巻) 衛生汎論. チーゲル著 大井玄洞訳. 明治13年刊、
:第4巻) 養生談. 松山惟忠纂述. 明治13年刊、他
:第5巻) 衛生手引草. 中金正衡述. 明治13年刊、他
:第6巻) 新編養生訓. 鈴木玄龍著 近藤清龍誌. 明治19年刊、他
:第7巻) 衛生要談. 江守敬寿編纂 明治22年刊
:第8巻) 衛生制度論. 後藤新平講述. 明治23年刊
:第9巻) 国家衛生原理. 後藤新平著.他 明治22年刊〜明治30年刊
:第10巻) 新養生訓. 宮入慶之助著. 明治39年刊 、他
:第11巻) 衛生攬要. 渡辺定, 武昌吉編輯. 明治13年刊、他
:第12巻) 食物養生法. 石左玄著. 明治31年刊、他
:第13巻) 子育草養生論. 岡田良策著. 明治18年刊、他
:第14巻) 医学的教育的小児衛生学. 澤木伊重纂著. 明治35年刊、他
:第15巻) 家庭衛生論. 山本与一郎編纂. 明治21年刊、他
:第16巻) 通俗家庭衛生学. 森田忠諒著. 明治38年刊、他
:第17巻) 児童教育家庭衛生. 川瀬元九郎著. 明治41年刊、他
:第18巻) 新編家庭衛生. 石原喜久太郎著. 明治41年刊、他
:第19巻) 長生法. 石黒忠悳述. 明治6年間、他
:第20巻) 衛生手函. 岸田吟香編輯. 明治23年刊、他
で別巻として瀧澤利行氏の論評があります。
「腔」の字が見られたのは
第7巻) 衛生要談. 江守敬寿編纂 明治22年刊に口腔“くち”、胸腔内“むねのうち、きょうかうない”、口腔“こうかう”、
第14巻) 通俗小児衛生学、小林信義著、明治36年刊に口腔炎”したした”、口腔内”くちのなか”、
第16巻) 女子の衛生、下田歌子著、明治39年刊に体腔”たいくう”、胸腔“きょうくう”、腹腔“ふくくう”とこれは総て“くう”、
第17巻) 婦人の家庭衛生、緒方正清著、明治42年刊に子宮腔“しきゅうこう”、
第18巻) 新編家庭衛生. 石原喜久太郎著. 明治41年刊に鼻腔“びくう”、口腔“こうくう”と是はほとんど“くう”、但し1ヶ所“かう”、
第20巻) 衛生手函. 岸田吟香編輯. 明治23年刊では総て腔“かう”です。岸田吟香はご存じの方も多いと思いますが、新聞社を経営し自ら記事を書き、製薬会社も経営した人物です。
16巻の下田歌子は歌人にして教育者、女性で初のアメリカ留学の3人の内の一人で、実践女学校創設、学習院女子部校長、当時の日本の女性で最高の教育環境で育ち、それを次代に伝え、発展させた人物です。
 この全集では「腔」の字は全部で20箇所ほど、“くう”と“かう”のいずれも使われていたことが示され、私に取ってはやや不本意な結果となりました。

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腔の読み その10 これで決まり?
 2000年のセンター試験の監督で疲れた翌日、日本女子大図書館に依頼していた「家庭衛生叢書」4冊と他の2冊が届いたと図書館から連絡があり、頂いてきました。1冊は前述の家庭衛生論. 山本与一郎編纂でこれには腔は無し。もう1冊は糸 左近著「家庭医学」これは1200頁を越える大著で、明治44年、東京金刺芳流堂刊、内容は内科、外科、産科、小児科、眼科、耳鼻科、薬剤、衛生等多岐に渉り、所謂通俗医書の見本のような本です。それにしてもこの著者・糸左近氏は奥付の後に多数の著書の広告があり、当時の医学ジャーナリストとして出版社には重宝な存在であろうと思われる。そこでこの「家庭医学」での腔の読みですが、大半は“こう”一部に“くう”のルビがみられ全体の統一はとれていません。
 「家庭衛生叢書」は明治37年から40年にかけて、12(?)冊の叢書として東京の博文館から発行されたようですが、4冊に製本し直してあり、本来の表紙も奥付もありません。編集者は中川恭次郎、監修は医学博士 井上通泰、執筆者は、中川恭次郎、井上通泰も含め、北里柴三郎、長輿祥吉、金杉英五郎、土肥慶蔵、宮本 叔、桐淵鏡次、緒方正規、富士川 游、三輪信太郎、弘田 長、朝倉文三、井上善次郎、岡田和一郎、呉 秀三、三輪徳寛、岡村龍彦、大澤謙二、三島通良、筒井八百珠、遠山椿吉、緒方正清、伊庭秀榮、木村徳衛、瀬川昌者、林 春雄、楠田謙蔵、賀古鶴所、石原 久の33名です。このうち宮本 叔、筒井八百珠、伊庭秀榮、賀古鶴所、石原 久、の5名が医学士、富士川 游がドクトル、残りの27名全員が医学博士です。当時の日本は医学博士がようやく100名を越えた頃で、執筆者の大半が医学博士でそれ以外も医学士、ドクトルで占められています。細菌学の北里柴三郎、皮膚泌尿器科の土肥慶蔵、精神科の呉 秀三、産科学の木下正中、日本消化器病学会の前身である「胃腸病研究会」を創始した長與稱吉、日本耳鼻咽喉科学会の前身である「東京耳鼻咽喉科会」を創始した金杉英五郎、「医史学雑誌」の前身「医談」を主宰し、京大図書館に貴重な医書を残した文学者でもある富士川 游、日本医学会総会の会頭を努めた緒方正規、その準備委員長を努めた岡田和一郎、緒方正清、金杉英五郎等、当時の日本の医学会の中心的な人々が執筆しているところにこの叢書の特徴が有ります。監修者の井上通泰をご存じでしょうか? 姫路藩の儒者で医師、漢学者でもある松岡 操の三男で、歌人としても知られ、大正天皇の歌どころの寄人も努めています。実弟に民俗学者の柳田国男、軍人でありながら「日本古語辞典」の編者の松岡静雄、日本画家の松岡映丘、実兄に千葉県柏地区医師会初代会長の松岡鼎がいます。
「家庭衛生叢書」には、毎回4〜5編、全部で53編の病気、療養に関する専門的な記事と数編の医学に関連した記事が有り、そのうち15編に「腔」の字が有ります。特筆すべきは1つを除いてすべて“くう”です。1つの例外は編集者の中川恭次郎が「口腔」を単に“くち”とルビを付けています。それ以外は、鼻腔、口腔、胸腔、腹腔、肋骨腔、子宮腔、総て“くう”で統一されています。普通このような3年以上掛かって順次出版され、執筆者が多数で有る場合、“こう”の読みも混在してもおかしくないと考えられますし、当時“こう”と読むのが正しいならば当の執筆者は勿論、他の執筆者からも抗議があって当然です。即ち、執筆者全員が“くう”が正しいとしていたことが考えられます。この段の前半で長々と執筆者を列挙しましたが、ドクトル1名を除き全員現在の東京大学医学部の前身の帝国大学・医科大学で教育を受け、且つ医学界の重鎮となっている人です。腔の読みの番外・明治時代の医学教育制度のページを読んで貰えば解りますが、政府はまず帝国大学・医科大学で医学教育をし、その卒業生を各地の高等学校医学部や医学専門学校の教授として派遣する手段を取りました。例えば井上善次郎は卒業後岡山第三高等中学校医学部教授、明治31年3月千葉第一高等学校医学部教授に転任、明治34年4月官制改正により千葉第一高等学校医学部は千葉医学専門学校へと改称し、千葉医科大学を経て現在の千葉大学医学部となるのですが、井上善次郎は大正5年に退官するまで教鞭をとり続けています。一方当時の医師には、正規の医学教育を受けないで、医術開業試験に合格した者、維新前からの医師も居て、その中には漢和辞典と首っ引きで七科問答のような試験問題集を勉強して医師になった人も多いと推察されます。
「腔」の読みの結論として、日本では幕末に解剖学名として「腔」の字を使うまで、漢字伝来以来「新撰字鏡」、「類聚名義抄」等の漢字辞典に載っているものの、朱子學の「近思録・動体編」の講義に儒者が使う程度で、一般庶民に使用された形跡は殆ど無く、解剖学用語として新たに「腔」を使った幕末・明治初年から“くう”が正式であったと考えられます。(ちなみに清朝初期に編纂された康煕字典が日本で刊行されたのが明治7年です)。しかし、正規の医学教育を受けずに医師になった者漢和辞典を頼りに“こう”と読み、また昔ながらの漢方医(多くは儒学も修め儒医と呼ばれていた)が近思録の萬腔を基に“こう”と読み、一部の言語学者がそれの後押しをし、明治末から大正にかけて、医科で徐々に“こう”が広まり、昭和になって医科は殆ど“こう”になったが、歯科はずーと“くう”で、戦後にそれが元の“くう”に統一された。恐らく、動物学の分野でも明治中期頃までは解剖学の1分野の様相を呈していたことから「腔腸」は、“くうちょう”と読むのが正式であったが、動物学は医学の分野より教育年限が少ないことや様々な人(小学校、中学校、高校の理科の先生、農学、獣医学、海洋学に携わる人)が動物学に関わることから、急速に“こう”と読むようになったと推察します(日本解剖学会編纂の文献集には、明治初期・中期にいくつかの動物学関連の文献が解剖学の文献として挙げられています)。以上が、日本では「腔」を平安時代の漢字辞典では読みを“こう”としていたものの実際に腔を使う人なぞ無く、幕末になって肉体の中の空間を表す言葉として「腔」を当て、読みは“くう”が正式な読みとして新たに使うようになり、決して正しい読みを知らない慣習読みや、百姓読みや、業界読みや、談合読みでは無いと個人的には確信するものです。

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腔の読み その11 動物学でも“くう”

腔の読みをホームページに載せてから半年以上が経ちました。医学の分野では“くう”が確認出来ましたが、動物学の分野でも有るに違いない。子供向けの動物の解説書は無いかしら?。先日、駅前で古本市があり、行ってみると明治時代の小学校の教科書等が有りました。そうだ!理科の教科書を捜せばいい。そこで師走に入った日曜日に鳴門教育大学付属図書館へ行きました。案のじょう、明治時代の教科書も数多く収集されていて、理科の教科書も10冊程有りました。内容を見て唖然!、ルビが一切附って無いのです。これだ、是が腔を“くう”と読まずに“こう”と読むようになった原因なのだ。生徒は腔の読みが分からなければ先生に聞く。先生は腔の由来を知らないし、医学とは縁がないから腔の正式な読みも知らないため、漢和辞典の“こう”を生徒に教え、そしてそれが広まる。で、教科書を諦め他に何か無いかなあ!と書架の間をうろうろ、!見つけました!。「萬有科學大系・正編、第5巻、動物」大正15年4月発行。昭和6年10月に普及版として定価3円で新光社より再版された本です。普及版とはいえB5判、420頁、製本もしっかりしたものでとても70年近く前の本とは思えません。この本の著者は、理学士・内田亮、理学士・平岩馨邦、農学士・内田恵太郎の3名です。内田亮は、1897年生まれ、執筆時は20代半ば、大正12年に東京帝国大学理学部を卒業、卒業後東大に残り、学位を目指して研究、後進の指導のかたわら執筆したのがこの本です。彼は昭和2年理学博士となり、昭和3年から欧米に留学、昭和5年に帰朝後新設の北海道帝国大学理学部生物学教授、戦後日本動物分類学会の設立メンバーにして長く同会の会長を務められ、1981年に亡くなられています。さて本題、この本の特徴は、萬有科學大系とある様に当時の学問の知識を分野毎に体系的に記述したもので、現在でも大学の教養レベルの参考書として通用する部分が多い点です(勿論、70年間の動物学、生物学の進歩を除外しての話しですが)。恐らく、当時の中学、高校の理科の先生には無くてはならない貴重な1冊に違いありません。そして、嬉しいことに総ルビなのです。早速借り出し、学生の進級試験の監督をしながら腔の字を数えました。腔腸、これは38箇所、151頁の2箇所以外全て“くう”、體腔、11箇所、内9箇所が“くう”、発生学に使う割腔、6箇所全て“くう”、排泄腔、3箇所全て“くう”、鼻腔、2箇所とも“くう”、内腔、圍心腔、各1箇所“くう”、単独の腔、2箇所“くう”、逆に“こう”が多いのは意外にも口腔、11箇所中8箇所が“こう”、外套腔、9箇所中7箇所が“こう”、腹腔、3箇所、胸腔1箇所、鰓腔1箇所、いずれも“こう”。結果は“くう”が65、“こう”が24。動物学で使われることの多い言葉より医学で使われることの多い言葉に“こう”が多いのは、この頃急速に医学界で“こう”が一般化してきた影響でしょうか?。想像するに、内田亮は執筆時迄に東大を離れていません。この時期世間では“こう”が主流となっているのですが、東大動物科では“くう”が正式な読みとして明治の始めから受け継がれて来ていたと考えられます。更にもう一つ、私が調べましたのは初版発行5年後に普及版として出版されたものです。もし“くう”が誤りなら再版時に“こう”に訂正されるのが普通ですが、“くう”が7割を占めています。これで明治、大正期に動物学の分野でも腔は“くう”が正しい読みであったことが示されました。しかし、明治末から大正昭和にかけて“こう”が主流になり、歯科以外ではそれが定着したと考えます。ちなみに明治の生物学をリードしてきた石川千代松の児童向けの「小学生全集・65巻・動物、昭和5年発行」では“こう”となっています。石川先生も時流に逆らえなかったと言うことでしょう。

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腔の読み その12 結論 

腔の字は飛鳥時代には日本に伝えられました。読みは“こう”です。日本に伝わった字義は鹿等の動物の干し肉です。腔の字はその後幕末迄の間日本では使われた形跡がありません。空も伝えられました。読みは“こう”です。空の字はその後日本では“こう”から“くう”と変化し、“くう”が完全に定着し誰も“こう”と読む人はいません(漢学を専門とする人も)(いくつかの漢和辞典には読みは“こう”、“くう”は慣用読みと記載されています)。一方、腔は幕末に欧米の医学書、特に解剖学関係の書を翻訳する過程で体を意味する月と、隙間や何も無いことを意味する空合わせて、体の中の空間を表現する尤も適切な字として見いだされ、本来の中国での「干し肉」、「声の調子」、「惻隠の情」と言った意味に加えて、「体の中の空間」を意味する字義が加わりました。(後漢時代の「説文解字」には体の空なる所の字義がありますが、日本は勿論、本家の中国でも使われた形跡はありません?)読みは空の読みと同じ“くう”としたのです。極めて自然な読みであり、腔の字義も容易に理解と私は考えます。この字義と読みは解剖学書の翻訳とそれに関連する医学、動物學等、学問の拡充に邁進・努力した帝国大学(東京大学)では明治・大正と受け継がれて来ましたが、明治の中頃より清朝の康煕字典や平安時代の類聚名義抄、字鏡集等の研究者や漢和辞典の編纂者が、腔の新たな字義や“くう”と読むことにした経緯も知らずに腔は“こう”の読みしか無いと思いこみ、深く調べる事も無しに漢和辞典や国語字典を編纂し、次第に腔の字の読みで“くう”は否定されました。既に述べましたように、日本では漢字伝来以来、腔の字義には「体の中の空間」の意味はありません。ところが、明治の末、大正には、腔の字が使われるのは大半が医学、生物学用語の「体の中の空間」です。漢和辞典、国語字典の編纂者はこれらも総て“こう”と読み、昭和になると歯科以外では徐々に“こう”が正しいとされ、且つ一般に流布して来ました。医科では、戦時中に“くう”に戻しましたが、動物学の分野では昭和28年に学術用語集に“こう”に統一しました。歯科では歯科学術用語集を昭和47年に編纂し、当然“くう”で国語審議会に検討を委ねましたが、国語審議会の委員に腔の読みについて知る人が居なかったため、一般には“こう”が正しいが医学用語では“くう”が正しいと言う変な結論を出しています。一般の用語で腔“こう”を使う日本語は有りません。満腔も「体一杯」とすれば医学用語・腔“くう”からの派生です。新世紀を迎えましたが、100年前の正しい読み“くう”に戻す時でしょう。

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腔の読み その13 付録(くらげ,ヒドラ,珊瑚類を腔腸動物と名付けたのは誰?)

幕末から明治にかけて欧米の文物が次々と翻訳され,それにつれて多くの翻訳語が創作されました。この間の事情は柳父 章著「翻訳語成立事情」・岩波新書・1982刊、杉本つとむ著「近代日本語」・紀伊国屋新書・1965刊(1994復刻)等に記載されています。 例えば”nature”の概念はそれまでの日本語には無いため、儒学や仏教語の:自然:“じねん” (持って生まれたあるがままの善心、仏心)に新たに:人工:に対する:自然:を当て、“しぜん”と読むことにしました。では、くらげ,ヒドラ,珊瑚類を意味するCoelenterataを腔腸動物と翻訳したのは誰でしょう?。私の推理では、東京帝国大学理科大学動物学科日本人初代教授の箕作佳吉と東京帝国大学理科大学動物学科一期生の飯島 魁のいずれかと考えます。箕作佳吉は、「和蘭文典」を著した幕末の蘭学者医師で箕作阮甫、その阮甫の二女と結婚し箕作家を継いだ箕作秋坪の三男で1857年生まれ。父の三叉学舎、慶應義塾で洋学を学び、大学南校に移り御雇い教師ハウスの勧めで明治6年(15歳)に米国へ自費留学、ハートフォード高校、トロイ工科大学を経てエール大学で動物学を専攻、エール大学卒業後ジョンズホプキンズ大学で研究、明治14年に英国留学後の明治15年(1882・25歳)に教授に就任している。一方、飯島 魁は、1861年生まれ、明治14年(1881・20歳)に東京帝国大学理科大学動物学科卒業、すぐ準教授になり、箕作佳吉を助けた。飯島魁は明治15年にライプチッヒに留学し、寄生虫の当時の世界的権威であるロイカルトに学び明治18年に帰朝している。当時の大学南校の講義は殆ど原語、そのまま覚えるしかない。ちなみに、明治20年頃にはCoelenterataは、“チレンテラ”(無腸動物)と称していたようである。しかし、徐々に日本語での翻訳が必要になる。箕作佳吉は医家・洋学家(翻訳家)の出、当然、口腔、鼻腔、胸腔、体腔等の医学の翻訳語を知っていたであろうし、必要に応じて医学校でも講義をしたであろう。日本人初代教授として腔腸を使った可能性は大である。又、飯島 魁は帰朝後、箕作佳吉が設立した東京動物学会の実質的な運営者・幹事として特に標準和名の選定・統一に携わっている。飯島 魁は寄生虫の権威として、医学部の教授も兼ねる様になり、当然「腔」は“くう”と読んだでしょう。Coelenterataを腔腸動物と翻訳したのは箕作佳吉か?、飯島 魁か?、二人の共同作業か?、或いは彼らの教え子で小学校や中学校の教科書、一般向けの動物学啓蒙書の著作が多い石川千代松?。この問題は動物学会の有志に委ねるのが適切でしょう。

参考文献:「箕作佳吉とその時代」玉木 存著、三一書房・1998年刊

感想、意見を頂けました幸いに存じます。

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腔の読み その14 付録の付録、再度「満腔」

「腔」の読みを調べ始めた頃に「満腔」なる字句に出会い、その時には場違いな言葉として、重要視はしていませんでした。「腔」の読みが(くう)であることの確証を得て一段落すると、妙に「満腔」が気になってきました。というのは、現在の日本で医学用語以外に「腔」の字が使われているのは「満腔」しか無いからです。そこで「満腔」の原典を当たりますと「近思録」に出会います。「近思録」は、宋の淳煕2年(1176年)に儒学者の呂祖謙が朱熹(朱子)を訪れ、周敦イ、張載、程コウ、程イの4氏の著作から重要な文言を取り上げ、2人で解説、編纂したものです。朱子といえば朱子学、この「近思録」は、朱子学の入門書として明の時代に日本にもたらされ、江戸時代に朱子学が官学になり重要視されます。即ち、江戸時代に朱子学を学んだ人は近思録を声に出して読んでいたのです。「満腔子是惻隠之心」なる文は近思録の最初の道体編の24番目に出てきます。学校の授業に当てはめれば、入学して1学期の中頃、試験問題には持ってこい!。儒学を学んだのは武士だけでは有りません。なかでも医師は儒医と言い、医師の子弟は儒学を学んだ後に医学を修めるのが常でした。これに対し所謂町医者というのは、医師の基で徒弟奉公をしながら医術を覚え、医者を開業した者です(勉強した医者が流行るとは限らない。真面目な医者よりカリスマ医者の方が信頼されることも多い)。要するに、明治になって新しく「腔」を「くう」と読む医学用語が創出されても、「腔」を(こう)と読む儒医及びその子弟・係累が大多数を占めていたと云うことでしょう。

もうひとつ! 「満腔子是惻隠之心」は、満腔子と云うのは惻隠之心だと言う意味ですが、既に述べたように惻隠之心とは苦境にある人に対し何とかしてあげようと言う思いやりの心、儒教で云う「仁」が相当します。惻隠之心は、孟子に見られ、「川で溺れている人がいれば、我が身を省みず飛び込んで助けようとする心が惻隠の心である」としています。そこで気になるのが「近思録」の存養編にある「心要在腔子裏」です。私は、心というものは惻隠の心、持って生まれた(仁)の心の中に無ければならない。その時々の心が仁から離れて名誉利益を追い求めては行けない、と解釈します。ところが、多くの「近思録」の解説書は、「心は常に体の中に無ければならない」としています。これでは、精神病の離人症の解説かと思います。私は「腔子」を「体」と見るようになったのは、幕末・明治に日本で「腔」が体の空間部を指す語として創出され、それが中国に逆輸入された結果では無いかと考えていましたが、そうでは無いようです。前世紀の中国の医書に「黄帝内経」が有ります。「神濃本草経」と共に中国数千年の医学のバイブルとも云うべき書物です。その中に「三焦」、これは所謂五臓六腑の六腑の一つですが、陽気を散布し水液を通調し人体3部位に対応し形は有って無いもの、とまるで「空則是色・色則是空」のように禅問答です。「黄帝内経」が出てから1500年後の明代に、医師の虞天民(1438〜1517年)は三焦は腔子とし、腔子を体の空間として捉えています。虞天民によれば三焦は胃腸が有る場所で、胸中の贏膜(横隔膜か?)上を上焦、贏膜から臍までが中焦、その下を下焦としています。この虞天民の説を江戸時代の日本の医師がどの程度理解していたかは不明です。「腔の読み その7」で宇田川玄真の和蘭内景医範提綱(1805年、文化2年)に上腔、中腔、下腔をそれぞれ頭部、胸部、腹部としたことを述べましたが、恐らく宇田川玄真には虞天民の三焦についての知識が有り、新たに上腔、中腔、下腔なる概念を考えたと思われます。このように、中国でも宋以来、日本では江戸時代後には「腔」を胸中と見なす考えが生まれたと考えます。しかしインターネットで検索すると幕末の志士の漢詩にいくつか「満腔」が見られますが、いずれも胸中に秘めた思いで、明治末から現在のような体一杯の謝辞とか怒りとか多数を相手に表現する言葉では有りません。要するに”誤用”ということでしょう。

9月11日のテロ以後、世界、日本、身の回り、様々の事象が起こっていますが、「惻隠之心」を忘れずに生きていたいモノです。

2002年11月。徳島大学の構内で日本国語学会の開催。関連書店の展示があり、明治期の復刻辞書も展示。その中に大空社の「日本大辞書・山田美妙・明治26年」「日本新辞書・三田村熊之介・明治28年」「帝国大辞典・藤井乙男・草野清民・明治29年」の3冊に「満腔」いずれも”まんくう”。明治時代は「満腔」も”くう”???。