播磨風土記の原文は漢文(全部漢字)です。播州弁訳の作成に、小学館1997年発行新編日本古典文学全集5 植垣節也校注・訳の「風土記」を主として、その他、岩波書店発行日本古典文学大系「風土記」、岩波文庫武田祐吉編「風土記」、姫路文庫・谷川健一監修・播磨地名研究会編「古代播磨の地名は語る」等を参考にしました。
赤穂の郡あかほのこおり(?)
赤穂の郡あかほのこおり。なんで赤穂の郡が播磨風土記にあらへんのんか?。現存する播磨風土記は江戸時代末に京都の公家さんの蔵から見つかり、公になったのは明治になってからです。播磨風土記の最初には明石の郡が有ったと考えられていますが、逸文でしか残っていません。赤穂の分は最後で抜け落ちたという説が有力です。しかし、播磨風土記は、東の明石から瀬戸内海を沿って、賀古、印南、飾磨、揖保と西に行き、そこから北に移り讃容、宍禾、神前、託賀、賀毛、美嚢と東に進んで行きます。赤穂は揖保と讃容の間に記述されていたハズです。本の最初(明石)の部分がちぎれて無くなる。最後の部分がちぎれて無くなる。赤穂は最後に書かれていたのか?。それとも、古代には、播磨ではなくて、備前や美作に組み入れていたのか?初対面の人(特に関東の人)に出身はどちら?と聞かれて、私「播州です」。相手「ああ!赤穂ですか?」…… 私「いいえ、赤穂より東の姫路の方です。播州の中心です」…… 相手「……」…… 私「赤穂は播州のはずれですが、播州人の気質が色濃く残っている所です」 相手「……」私「赤穂浪士は、忠臣とか義士とか言われているけど、違うのですよ。実は、播州人というのは調子もん、……この辺から播州弁になる……。言葉は汚いわ、柄は悪いわ!、気も荒いわ!、そやけど、人情に厚うて、楽天的で、調子に乗ったら損得無しや。でも、ただの阿保や無い。それなりに戦略・戦術も考える。赤穂浪士も、いっちょ、吉良をやったろうやないか!。ゆう程のもんでしょう。」
播磨風土記に赤穂は有りません。赤穂の小学校の皆さん。新しい「赤穂・風土記」を発信して下さい。
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