”荒ブル神の正体” 播磨風土記を始め、逸文の多くに荒ブル神が登場する。即ち、往来の人の半分を殺す神である。半数の人を殺すとはただごとではない。ところが、風土記を始め記紀の研究書に、この荒ブル神の正体を明確に記したものを、私は私の不勉強の故か知らない。そこで門外漢の強みでアバウトな仮説を立てました。
(アバウトな仮説、その1) 播磨風土記に限定すれば、荒ブル神は出雲支配圏から播磨の国境の重要路に位置し、出雲の国人が播磨に入るのを阻止する役割をしている。それが最も明瞭に描かれているのは、揖保郡佐比岡条であろう。「佐比岡。佐比と号くる故は、出雲の大神、神尾山に在しき。此の神、出雲の国人の此処を経過ぐる者は、十人の中、五人を留め、五人の中、三人を留めき。」この留めは殺しと同義と考えられています。要するに、国外に出したくないと言うことでしょう。見せしめに半数を殺し、残りを帰したと解釈します。
(アバウトな仮説、その2) つい、先頃、出雲大社が高さ48メートルを越す巨大神殿であったことを実証する3本柱の遺跡が発掘された。10年ほど前に大林組のプロジェクトチームの本を読み、これは絶対48メートル超の巨大神殿、更に神話の96メートル超の超巨大神殿の遺跡も期待出来そう。で、48メートルの巨大神殿の造営には延べ150万人以上の人間と財力が必要。ヤマト政権に負けて国譲りをした出雲にとっては過酷な建造物、加えて、古墳と異なり百年ごとに建て替える必要がある(48メートル級なら風速30メートルに耐えるとのことであるが、30メートル以上では倒れる可能性もある)。もし、当初の出雲大社が96メートルの超巨大神殿を造ろうとしたら、単純計算で延べ1200万人、これは仁徳天皇陵(大山陵)の2倍。加えて冬季は仕事にならない。で、逃げる者も居ただろう。これを取り締まるのが荒ブル神、出雲と播磨の国境のみならず、ヤマト政権の国境である賀古郡にも目を光らしていた。
大和政権に対抗した出雲に何故巨大古墳が無いのか?前方後円墳が大和政権の象徴・許可物であるなら、出雲の古墳の典型的な四隅張り出し方形古墳で100メートルを超えるモノが無いのは何故?古墳より巨大神殿の造営に人力を投入したとは考えられないだろうか?
(アバウトな仮説、その3)ヤマト政権の原型ともいえる集団が、韓国から北九州、瀬戸内海を経て鉄器の確保に努力したことは多くの研究者が述べています。しかし、出雲経由の鉄の流通に関する記載は殆ど有りません。韓国と出雲は一衣帯水、容易に交易が出来る地域です。加えて、出雲は良質の砂鉄を産した国、出雲が一時期ヤマト政権と拮抗できたのは鉄が有ればこそ、鉄を持ち出す者は即・死罪。そのため、国境には関を設け厳重に鉄の持ち出しを監視した。司祭的な意味合いの強い銅剣を300本まとめて埋葬し、一方で実用的な鉄剣を作っていたのでは?。最近、徳島大学構内の庄町遺跡から3世紀前半・卑弥呼の時代の鍛鉄遺跡が出土。当時は、鉄の材料を朝鮮から輸入し、精錬・鍛鉄していたとされるが、出雲や播磨で砂鉄から精錬していた可能性もあるのでは?
(アバウトの続き)邪馬台国と言うのは、考古学者、記紀学者、歴史学者の目の上のたんこぶ、腫れ物、腐れ物、だそうな。どうとでも解釈できる。と言うより好きなように解釈する「素人」が多いということ。そのうちに邪馬台国はアラスカとかハワイという説も出るだろう。専門に研究している人には!またか!。その分、風土記は神話と、伝承と、昔話が微妙に(意図的に)配置されているようです。風土記にこそ「ど素人」の感性がもっと参加すれば良いのに!。
まず、風土記を読みましょう。
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