十五、雨風
「皆様お早うございます。扉を全部開けて朝の新鮮な空気を入れて下さい。」
登勢達16班のいる倉庫では、毎朝古角上等兵によって朝の挨拶がなされた。
 彼のきびきびとした動作と共に、明るいよく透る声は、皆の沈みきった気持を引きたたせるのに不思議に力があった。ボール紙のメガホンしかないのに、彼の声はよく隅々に透って行った。
 秋乙日本人会の小林会長は、鎮南浦に来てからも敗戦後の日本人の、生命の保証もない窮状を感じるにつけ、一日も早く引揚を促進する為の交渉に心血を注いでいた。
 地元北鮮との交渉もあった。ソ連側とのかけ引きもあった。北鮮側は日本の戦争のおかげで疲弊した国土建て直しの為にも、日本人は高級衣類、純毛の物、時計、宝石・皮靴、等総べて残して無一物で帰るべきである。と云う意見であった。
 ソ連側は「貴国は負けて無条件降伏をしたのだから、まだまだ帰るのは早い。」と云うのであった。日本人は一人でも労働力としての資源であったから、逃亡者は銃殺すると云っていた。ソ連側の船で日本へ送り還す事などもってのほか、日本人を終戦と同時に送り還す意志はみじんもなかった。捕虜は働かせる為の家畜と余り違わぬ存在なのだ。
 小林会長の寝食を忘れた努力も、帰す意志のないソ連側との会談では、少しも進展しなかった。小林会長の苦慮の中に月日は過ぎて行った。秋乙を出てから一ケ月半にもなるのに帰還のめどはどうしても立たなかった。
 鎮南浦の倉庫の生活が長びくにつれ、倉庫の住民の生活は苦しく、倉費の割当すら払えない人が増えて来た。売り食いとわずかな貯えに支えられた生活は、心細い限りであった。
 登勢は〃秀坊の分もお粥の配給はある筈なのに、どうも配給が少ない〃。と思っていた。足りない分を卵やりんごを買って補っても食事は充分でなかった。
 或る日、登勢は思い切って、配給係の村上元一等兵に申し出た。皆の目前で飯盆にお粥を入れていた村上さんは、
「岡田さんところは三人でしょう。」
「いえ、四人です。四人分の支払いをしています。」「四人?。」
村上は自分の思い違いを悟ったが、
「四人でも一人前に使役に出る者も居ないで、四人だと大きな口を利くな!。」
男手のない登勢は、使役の事を言われると弱かった。
「すみません。」
悲しくなって下を向いた。
横から岸本元上等兵が、
「誰でも思い違いはあるよ。いいから今からでも四人分配給すればいいじゃないか?。」と助言をしたので、それから少しだけお粥の配給量がふえた。
 生活が苦しくなるにつれ、いざこざは食事だけでなく盗難も増えて来た。登勢達の席は通路の横なので度々被害にあった。或朝目を覚ますと枕元に置いた筈の純毛の手編の敏夫のセーターが無くなっていた。それは昭和十九年に渡鮮する時、妹の紀代が純白の地に茶色の犬を編み込んで可愛く編んでくれた物だった。誰もかもが売り食いの毎日なのである。毛糸の純毛物は高く値がついたので盗難の対象となりやすかった。登勢は盗難の用心もしなければならなくなって、脱いだ衣類もいちいち袋に仕舞う様にした。
 盗難ばかりでなく四月も半ばを過ぎてくると、暖かくなった為もあって、虱がごそごそと肌着につき始めた。洗濯した秀坊のガーゼの肌着の二枚袷の間に、どうして入り込んだのかはさまってそのまま洗濯されていたりする事もあった。
登勢は思った。
〃早く帰らないと虱からチブスが流行するのではないだろうか?。私がチブスに罹ったら万事休すだ。一日も早く元気な間に母の処へ帰らねばならぬ〃。
優しい色白の母の顔が登勢の瞼に浮んで、ぼーと霞んで泪の雫となった。〃故里の母〃
それは彼女の心のともしびであった。登勢が女学生の頃、流行していた〃谷間の灯〃と云う流行歌に「我が子帰る日祈る老いし母の姿、谷間灯ともし頃……」と云う歌詞があった。
〃母が待って呉れている〃それは彼女の大きな支えであった。
一日千秋の思いで、帰国の日を待つ日本人の期待を一身に荷なって、小林会長は愈々最後の決断を下す時期が来ている事を悟った。
最後の非常手段として38度線の越境であった。ソ連側には「食べるに困る者や、老人を抱えた家族を南鮮へ移住させるのを許可してほしい。夜、目立たない様にして38度線を越えるから逃亡者として射撃しないでほしい。ソ連兵には日本婦人ダワイを取締って貰いたい。」と申し入れた。最初秋乙の全員の引揚げであったのが、表向きは女、子供、老人を先に帰すと云う事にして健康な若者は秋迄残留と云う条件付で、やっと許可と云う事になった。許可は許可でも表面に出せない許可で黙認であった。
登勢達の倉庫で、その日小林会長の報告会が行われた。登勢等は皆国粋主義的な思想に培かわれ、多かれ少なかれ、その思想の持ち主であった。一米六十糎に達しない小柄な小林会長の前に全員が集まって会長の話を一言も聞き洩すまいと耳をかたむけた。
「これ迄におこなった引揚に関しての経過報告で御存知とは思いますが、ソ連側から送って貰う事は早急に参りませんので南鮮へ移住する事を黙認して貰う事になりました。
鎮南浦へ来てからも種々と交渉にあたって来ましたが引揚は実現せず、その間にも三才以下の四百人近い幼児が死んで逝きました。
一日も早く内地へ帰らないと、疾病の為、あたら稚い命を落す事になるでしょう。幼児はかりでなく、大人もじっと死を待つより、一日も早く元気で内地へ帰るべきです。
敗戦の焦土と化した日本の復興は我々と次代を担う若い肩にかかっています。
一人でも多くの若い命を持って日本へ帰りましょう。それには自力で38度線を越えるしかないのです。南鮮へ行けば、米軍によって内地への送還がされていますが、38度線緯北の北鮮、満州は終戦と同時に音信を絶って、日本内地では皆が心配しています。」
そこで小林会長は姿勢を改めて、
「畏くも上御一人には、音信を絶った寒さ厳しき明け暮れの、異国に暮す民草を御案じ給い、引揚促進を申し出て下さっています由です。」と云って、〃寒き異国の民をおもう〃と云う意味の御製を不動の姿勢で朗詠した。
小林会長の朗詠を聞いて多くの人は感泣した。
「交渉にはお金が入要です。地元の了解を得る為にも。船や乗物も入要です。帰国する人と、残留する人とのより分けは各班で話合って定めて下さい。皆で力を合せて協力して、全員が命を内地へ持って帰りましょう。そして祖国再興に努めましょう。お金のある人は供出して下さい。
帰国する人は赤ん坊の負担金はいりませんが、幼児も大人も分担金一人二百五拾円です。持てない品物は残留する人の為に置いて行って下さい。こまかい事は各班で班長の取り仕切りに一任します。協力して皆無事で帰国教しましょう。これでお話は終ります。」
普通の帰国ではない。移住と名を借りた脱走なのだ。越境と云う事柄の別名なのだ。
 緊張と昂奮の静かなざわめきの中を席に戻った人々は、皆それぞれの惟いの中に、かたい決意と共に明るい希望の灯をともした。
 古角元上等兵は登勢と同県であった。岡田軍医の生家は代々(十六代)医業の家で宍粟郡から移り住んだ祖々父が病院を開いた神崎郡と古角の故郷とは隣合せであった。16班で幼児を三人も抱えているのは登勢だけであった。16班全体の責任として誰が38度線越えに留里を背負う事に話が定まった時、古角は申し出た。
誰も異存はなかったが、大山部隊長夫人の荷物を持つ責任が古角にはあった。古角は留里を大山夫人の荷物の上に背負う事を希望した。以前少年の頃肋膜炎を患らった既往症を主張して残留は無理と云う事に話が定まった時、残留組への手前もあって、登勢を援けねばと思った。大山夫人も心よく承諾して話は定まった。登勢は感謝で一杯であった。せめて分担金だけでも支払う事を大山夫人に申し入れた。皆の親切が身に沁みた登勢は最後迄持っていた黒地に梅とたちはなを染めぬいた綸子の羽織と薄茶の地にコバルト色の霞のたなびく中に満開の桜花と花弁の舞う春燗漫の山繭の着物、純毛の手編みハーフコート。綸子絞りのねんねこ伴天等々を全部日本人会や残留組に寄附をした。登勢の負担金(千円)の余分に持っていた二千円は萩原夫人に借した。
残ったおしめと水筒と飯盒、親子の肌着、それは三人の子を連れて旅をする最低の限界の持物であった。子供の丹前は真綿入りで軽く、かさも低いので敏夫に持たせるリュックに入れる事にした。毛糸編みの子供服を二枚、寒い日の為にリュックに入れた。
 最後迄残るという小林会長。残留組の小吉実利、岸本、藤沢等に陰ながらの別れを告げ、秘かに埠頭を出発したのは四月二十九日の天長節(天皇誕生日)の朝まだきであった。16班の班長は樗木、副班長は古角であった。
 リュックを背負った敏夫を前にして、留里の手を引き、茶色の捧縞にすみれを飛ばしたおめしのモンペの上下に、ズックの運動靴、左右の肩から袋を吊り下げ、(袋にはおしめが入れてある。)その上に水筒を肩にかけ、腰の後には飯盒を結わいつけ、あわしまさん(ほこらを背中におんぶして様々のふだをぶら下げたもの。)という恰好の上に、背に秀坊をおんぶ紐で負い、上から亀の甲結いこを羽織った登勢は、38度線越境のマラソンの決勝戦のスタートに立った様な昂奮を感じながら倉庫を出た。
 倉庫と反対側にある桟橋から登勢達が乗り込んだ船は、小型の汽船であった。二隻の汽船に一杯の人数である。16班は一番最初の出発なのだ。
 貨物船まがいの汽船は、海へ向っていた方向を変えると白い泡をだくだくと吐きながら大同江を逆登り始めた。
登勢達の居た倉庫も建物の蔭で見えない。
夢多い乙女の頃、登勢が好きで寮友と一緒によく歌った歌、滝蓮太郎の「花」が余りにも違う故に、春のすみだ川とは何もかもが違う為にか、登勢の心に蘇った。
 川風は冷たく登勢の心の感傷を吹き過ぎた。緊張感が、帰国への希望と交錯して、前途の多難を思わせた。登勢が船室と云うより船倉と云う方が適している様な船内へ下りると、そこはもう人で一杯であった。荷物を置いてその上に、腰かけるしか場所はなかった。
 そのうち、男達が甲板へ上って行って、少し場所の裕りが出来た。秀坊を背から下して、二、三時間した頃、ドカドカと音がして、男達が下りて来た。
 「雨だ!!。吹き降りだ!。」船内は一層狭くなった。
 せっかく下した秀坊を、今度は、膝に抱き上げねはならなくなった。その上階段の蓋板の間から、雨もりがして、バケツで受けねばならない仕末となった。その日は一晩中、吹き降りがつづいて、次の日は小降りとなったが、水量が増した為、流れに逆らって、進む船は大分遅れた。
 それに何と云ってもボロ船である。遅れて当然だった。
 二日二晩降り続いた雨は、三日目の夜明け前から止んだ。雨が止むのを待ちかねて、男達は甲板へ昇って行ったので、船内は少し余裕がある様になった。半分中腰で、それ迄、三人の児を抱いていた登勢は、肩も腕も腰も痛かった。丸くなって子供を抱えた形にでも、横になるのは久し振りで、登勢は疲れが消えて行く様な気がした。
 船が着いたのは、昼前であった。船から地面へ渡した板梯子の上を、荷物を腰に、秀坊を背に、留里を腕にのせて、渡るとそこは湿地であった。靴が、ずるずるとめり込むので、敏夫が泣き想な顔でしがみついて来た。
「靴に泥がついた位で泣いては駄目!一。」
可愛想でも、甘い顔は出来ない。「泣く児は放って行くからー。」
留里も夢中で、しがみついて来る。
 登勢の腕も抜けそうな程痛かった。そして重かった。僅か五十米余りの距離が百米にもいや、三百米にも思われた。皆に遅れない様にと、やっと平地に着いた時には、汗びっしょりで、全身で息をしていた。
 其処は何という所なのか、何も分らないが、沙里院へ行く駅の近くらしかった。
地元民の世話で、やっと貨車が借りられたと云うので駅迄、歩くのだという事であった。折から空は、時雨はじめて、小さな街に入った頃には、断髪の登勢の頭髪からも、雨が雫となって、落ち始めていた。
 道路の両側に並んで、見物している地元民の眼を意識して、登勢は情なかった。
白い冷たい眼。憐欄のまなざし。侮蔑の眼。様々の眼がそこにあった。
 涙が頬を伝っては、足元に落ちた。
額には汗が流れ、雨と汗と涙で、登勢の顔は、ぐしゃぐしゃであった。
声も上げず手放しで、泣きながら登勢は歩いていた。
 それは〃黄州〃だったのか?。〃安岳〃だったのか、何も分らないが、最初に乗った貨車は、馬を運ぶ貨車であった。
時雨の止んだ後の空気は、湿気を帯びて感じられ、窓は小さな格子窓しか無かった。
 薄暗い貨車の横板の間には、馬の尾の毛や、たてがみが、挟まってぶら下っていた。床には、五糎程の厚さに、馬糞が積って乾燥していた。
 余りにも汚くて、腰を下す事も、荷物を置く気にもなれなかった。臭気と湿気で、貨車は〃むつ〃としていた。軍馬もこんなあつかいを受けていたのかと、今迄知らずにいた事が、大変悪い事をした様な気もして、馬並に落ちた現状を、甘んじるしか仕方無かった。
途中で、やっと普通の貨車に乗り換えた時には、ほっとした。沙里院が何処だったのか?。黄州が何処だったのか?。地名も何も判らないが、お粗末な、狭い小さな貨車でも、馬糞と同居しなくてもよいのが、皆を喜ばせた。
貨車は山の方へと行くらしく、麦畑の中を、のろのろと進んで行った。
貨車を降りると、再び歩き始めた。
話をするのも大儀で、一言も云わず、皆は黙々として歩いた。夕方近く迄歩いて、小さな部落にたどりついた。その夜は部落の民家に、泊めて貰う事になった。
 おふとん無しの、着のみきのままの、ざこ寝である。幼児を連れた登勢達は、〃オンドル〃の部屋をあてがわれた。〃オンドル〃の室で寝るのは、登勢達には全く一年振であった。そして最後の事になるのだ。
 寿し詰に、ごろ寝して眠ったその夜。
登勢は、とんでもない失敗をしてしまった。
 昼の旅の疲れで登勢は、正体もなく眠ってしまったのだ。夢うつつの中で、登勢の嗅覚は働いた。大変だ!。しまった!。
 秀坊や、他の人々を起こさぬ様に、そおっと留里(二才四ケ月)の方へ向くと、留里はよく眠っている。嗅いの本家は留里なのに。
 眠くて眠りこけそうになりながら、留里のおしめを取り替えた。
 留里は、病後の衰弱に栄養失調が重なって、下痢をしていた。障子紙を買って来て、作った登勢の手製の紙おしめを洩れて、持数少ないカバー迄よごれていた。
 夜は便をおとす事は、殆んど無いのに。
幼児なりに、留里も疲れていたのであろう。
しかし、臭かった。部屋中に嗅いが、広がらない様に、手早く包んでカバーも一緒に、そっと外に捨てた。
 誰一人起きる人もなく、昼の遠道を歩いた疲れに、ぐっすりと皆睡っていた。
 登勢は胸を撫でおろし、嗅いのを、気にしながら再び睡った。
翌朝。
 皆で持ちよったお米で、お握りを作り、全員に分配して、民家を後にした。
それから先は、裏道に入るので、山道が多かった。細い牛車が、やっと通る処を選んで、六才迄の幼児で(数え年)、親が背負う事の出来ぬ児は、闇でやとった牛車に乗せる事にした。
 敏夫は、十二月末生れで、一週間でお正月を迎え、数え年では七才であった。満で云えば、五才四ケ月なのだが-。
 数え年で早生れの七才の靖夫も、圭子も敏夫より早く生れているのだが、牛車に乗る組になった。
僅か、一週間の差で敏夫は、大人と一緒に歩く事になった。
 牛車に乗せられた幼児達は、母親から離されて、
「かあしゃん。かあしゃん。」と泣き叫びながら、揺られて運ばれた。
 敏夫は、妹の留里の泣き声が、後からついて来るので、気になって仕方がなかった。〃「ルリちゃんを売ってちょうだい。」と云ったロスキーマダムのところへでも、連れて行かれないかしら?。〃と心配になって、
「留里は?。」と何度も、登勢の顔を見たが。登勢が、こわい顔をして、
「留里は車で行くのだから、心配しないで、さっさと歩きなさい。」と云ったので、何度も留里の乗った牛車の方を見ながら歩いた。
その中に、徒歩で行く登勢達が、狭い山道の近道に入ったので、牛車の姿は見えなくなった。「かあしゃんー。かあしゃんー。」と云う泣声も聞こえなくなった。
 山道を、登勢達が一里程歩いた頃。
突然。横道から片手を上げて、ソ連兵士が現われた。
「クター、ヴィイヂヨーチェ(何処へ行く?.)。」皆、一瞬、どきりっとして立ち止まった。
「ソルダート、ニエト。(兵隊はいません)マーリソキイ、イ、ジエンシナ、イ、シストラ・モノーガイェスチ。フラートニェト。(子供と婦人や友達ばかりで男はいません)
ブラート・イ・パパ、アラボート、ロスキー(兄弟や父は、ロシヤの仕事をしています。)」片言まじりで、脱走兵では無い事や、女子供ばかりで生きて行く事が出来ないから、歩いて南へ下る事を説明した。
「マニエタイエズチ?(お金は持って居るか?)。」橋元世話人が、三百円を渡した。
それは袖の下の小遣いかせぎに現われたのだった。お金を受取ると、
「ハラショー。イヂョーチェ。(元気で行きなさい。)」皆ほっとして歩き出した。
暫く行くと、又別のソ連兵が現われた。再び、袖の下三百円が支払われた。
前後、合計三回ソ連兵士が現われたが、その度に三百円で無事に済んだ。
 敏夫は、埠頭を出てから、ずっと、一人前によく歩いた。
 雨の上った後は、急に気温が上昇して、敏夫は鼻の頭に、一杯汗をかきながら歩いた。
 咽喉のかわきをおぼえても、水筒はもう殆んど、空になっていた。皆、大分疲れていた。その中に、平地に出た。
 白い民族服の地元民が、沢山集まって、洗濯をしている河が見えた。
 地元民から大分離れた、余り目だたない場所を選んで、暫く休憩する事になった。
登勢は急いで洗濯をした。
前日は、七里程歩いたが、その日は、三十八度線に備えて、あまり無理をせぬ行程なのだった。
歩いて行く右手には、菜の花が咲いて、雲雀が鳴いて、時は五月!一。皆は、
〃これが、脱走でなくピクニックなら〃と、思った。
「愈々、三十八度線に近づきます。この山を越えたら、もう少しなのです。」山道に入って間もなく、急に前方の人々が、駈け出した。「水!!」「水だ!!」谷川だった。
澄みきった水が、静かな音をたてて、流れていた。
 世界のあちこちで起きている、人間の浅ましい相剋に関係なく平和なせせらぎの旋律は耳に快よかった。
川の水ではあったが、皆、しゃがんで、水を口に含んだ。甘露。というにふさわしかった。
水筒にも、水を満たした。菜の花も、せせらぎの水も総べて、神の恩寵であった。皆は活気を取り戻して、歩き始めた。
 登勢が、棒切れと、背のおんぶ紐を張った、即席移動物干しの洗濯物が、登勢の背で、五月の薫風に、はためいた。
 色白い秀坊は、日焼けして、頬の柔らかい、皮膚に、二つも水泡が出来ていた。
登勢の後は一中隊の北野元中隊長夫人であった。敏夫と同じ年の圭子と云う可愛いい女児と、留里より二才上の美智子と、三女泰子が居た。
鎮南浦を出た時、船の座席の処へ雨漏りがして、運悪く、美智子は、雨に濡れたのが元で、風邪を引いたらしく、沙里院の近くで、時雨に打たれ、風にいたぶられたので、一層風邪をこじらせていた。
北野夫人は、親から離すに忍びず、牛車に乗せるのを断わって、暑い汗を流しながら、背に負って、ねんねこ絆天を上から着て歩いていた。
高熱の体は、気温が上っているのに寒いらしく、又熱の為に喉が乾くのか、
「おぶー(お茶の事)」「おぶー。」
とお茶をせがんでいた。
 熱があるのに、風に吹かれて、風邪から肺炎を起こしたらしく、声も絶えだえに、
「おぶー。おぶー。」と云うのが聞こえた。北野夫人は、胸も張りさけんばかりに、辛く、切なかったが、何とも手のほどこし様が無かった。
そのうち、眠ったのか、余り声がしなくなった。
山道が、終った処に、小さなお堂があった。
そこで、暫く休憩する事になって、北野夫人は美智を背から下した。
 水筒を出すと、美智は小さな声で、「おぶー。」と云った。
しかし、一口飲むか飲まぬかで、水は、だらだらとこぼれた。
美智の顔は、小さな口を開けて、がっくりと、うなだれた首は、再び上がらなかった。「おぶーよ。お茶よ。沢山お飲み。」
狂気の如く叫ぶ、北野夫人の声が、空しく響いてー。
登勢も柳沢夫人も涙を止める事が出来なかった。
亡骸は、近くの民家で、スコップと、コッパを借りて、樗木が、手伝って、近くの山に埋めた。
犬が堀りおこさない様に、深く埋めた。
夫人は、荒土が顔にかかって、埋まって行く美智が、哀れで、涙ながらに土をかけた。此処は何処なのか?。
お墓参りも出来ない。
三十八度線を前にして、親に世話をかけまいとして、死んで行った様にも思われて、一層不憫であった。
 今まで、全身にかかっていた重みが、総べて空となって、北野夫人の手に僅か一握りの美智の頭髪が残るのみだった。

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