十七  白 雲
 京城に着けば、すぐに帰国出来る、と思っていた一行は、出発の日時の発表を、今晩か?、明朝か?、と心待ちしながら、本願寺に着いて、もう三日目を迎えていた。
 三日目の昼過ぎ。
京城日本人会から、楽団が、大太鼓、アコーディオン、クラリネットを持って、慰問に現われた。
 最初に、団長の挨拶があった。
「長い間、外地で御苦労様でした。
敗戦によって、外地に居た者の苦労は、一層酷しくなりました。
引揚の日本人の憔悴しきった様子を見て、何とか、もっと明るく、少しでも以前の元気を取戻して頂きたく思って、拙い歌をお耳に入れに参りました。楽器の数も揃わず、未熟な芸で御座居ますが、団員一同力一杯やらせて頂きます。
 皆様は、間もなく内地へ還られると思いますが、本日は、歌で一足早く日本へお帰り下さいます様に。最初は母なる国の日本の〃子守歌〃
次は日本情緒豊かな、〃野崎参り〃や、〃岡を越えて〃等々です。」
 一年近く歌もなく夢もなく、唯生死の境を、さまようような恐怖の中で、生活して来た登勢達にとって、それは思いがけない命の洗濯と、心の栄養剤であった。
 廿才位の女の人が二人、交代で歌を歌った。「岡を越えて行こよ、真澄の空は朗かに晴れて楽しい、心。鳴るは胸の血潮よ:….…:.」殆んどの人達が、本堂の板の間に集まって、久しぶりの歌に耳をかたむけていた。
 登勢も敏夫も留里も、そのメロディーを全身で聞いていた。
 外は五月晴れで、青空を白いちぎれ雲が柔らかな綿を浮べた様に流れていた。
薫風は若葉を撫でて吹いていた。空の青さが、歌詞の明るさとメロディーの軽快さに調和して聞く者の心に沁みて行った。
「最後に、内地で皆に歌われている歌、〃りんごの歌〃」
「赤いりんごに唇寄せて、黙って見ている青い空、りんごは何も云わないけれど…….」 歌を聞きながら、涙が溢れて登勢の頬を、流れ落ちた。戦争に敗けて黙って空を見ている悲しみなのか?。りんごの気持が判る悲しみなのか?。理由の判らない涙が、留る事なく流れた。
 繰返し〃りんごの歌〃が歌われて、会は終り、慰問団は帰る事になった。
「お母ちゃん!。僕の靴がない!。」
我に返った登勢は、驚いて本堂を出た。
うっかり置いたのが悪かった。手に持っていなければならなかったのだ。
泣きべそをかいた顔の敏夫が、
「ちゃんと此処に置いていたのに。」と云った。
無くなった物は出て来ないのだ。
敏夫のズックの靴は、38度線手前の部落で、村の長老が、
「時計。万年筆。純毛製品。はいている以外の靴。絹製品を此の部落に置いて行って下さい。その代りに裏道を通してあげます。」
と云った時に、はき替えたばかりの靴なのだ。
 仕方がなかった。内地へ帰る迄、敏夫は跣で歩かねはならなくなった。
 四、五日もすると、本願寺も引揚者で一杯になり、最初に入った者は出発する事になった。行く先は何処?。愈々帰国なのか?釜山?。移動の度に、皆は胸をはずませるのだがー。京城で乗った汽車は、開城に向っていた。
そこで又、DDTをかけて貰って開城から盧城に向った。
 盧城で降りると、米兵に案内されて行った処は、小高い丘の上であった。
登り道を皆、あえぎあえぎ歩いた。
何時も空腹なので、歩くのは非常に疲れた。
たどり着いた処は、平素演習場なのか?、と思う程広い丘であった。
 待っている間に、天幕が張られて行った。天幕の部落が作られた。
地元民が筵を売りに来たのを、まとめて団体で買った。次々と筵が運び込まれて、各人が一枚二拾円を支払った。
鎮南浦と同じ筵の生活が始まった。
 翌日も、その翌日も、天幕は張り増されて、入居者は増えた。
 便所は天幕二つが使われて、男女一幕ずつ分けてあるが、天幕の端から端まで、一直線に溝を堀った簡単なものであった。
最初の間は、巾二十五cm位であったのが、粘着力の無い丘陵地は、使用している間に、土がくずれて、巾はだんだん広くなり、その中に五十cm位の巾となった。
使えなくなると、横に平行して、溝が一本新しく堀り足されていった。
 食事はお米の代りに、とうもろこしを炊いて分配された。大きな釜で、ぐつぐつ炊かれても、とうもろこしは、お粥の様にはならなかった。茶碗一杯のとうもろしは、親子三人どころか、留里と敏夫の二人分にも足りなかった。
 何の為に、盧城の丘陵地に滞在するのか、登勢には分らなかったが、そのうちに、それは南鮮にコレラ患者が沢山出て、釜山へ行かれなくなり、関釜連絡船?に乗れないらしいとの事を告げられた。
 食物を売るオモニー(婦人)も、(おにぎりは一個が五円であった。)「品物と。ハッカー(交換)」と云うオモニーも、監視の米兵に遮られて、天幕には来なかった。
 その上、予想以上に帰国が手間どった為、誰もかれも貧しく、余分に交換する事の出来る品物も無く、お金の持ちあわせも少なくなっていた。そして誰もが同じ様に空腹であった。とうもろこしを炊く水が、ぐたぐた煮えているのを、余分に貰って、空腹をまぎらせたり、あかざ草を探したり、皆それぞれに、工夫を凝らして暮していた。
 とうもろこしのお湯を飲む事で、空腹は幾分まぎれても、赤ん坊に飲ませるお乳が出ないのに登勢は困った。幾ら吸ってもお乳が出ないので、秀坊は乳房を離そうとはしない。無理に離して留里を排便につれて行く時等、秀坊はしきりに泣いた。
そんな時、気の荒い職人肌の人の多い補給廠の班から、
「何処の餓鬼ぞー?。〃おギャーおギャー〃と、空腹(すきばら)にひびいてしようがないぞー。余り泣くと、ひねりつぶすぞー。」という言葉が飛んで来て、登勢をびくびくさせた。
 城の天幕に移り住んで二週間ばかり経過した頃の、どんより曇った日和の日であった。「岡田さん!。」「岡田さん!。」と云う声がして、登勢が天幕を出て行くと、チョゴリにチマ(朝鮮の民族衣装)を着た上品な婦人と少女が立っていた。少女は登勢の顔を見て、
「岡田さん。どうか男の赤ちゃん、このひと(夫人)に、売って下さい。大切に育てます。」と云った。
「めっそうもない!。」(とんでも無いという意味の播州弁)驚いて登勢は叫んだ。
婦人は日本語は判るが、上手にしゃべられないらしく、登勢の番集弁は分らず、黙って立っていた。
 少女の説明する処によると、婦人は子供が無く、何とか子供がほしくて、それも男の子がほしいのだという事であった。
 地元のヤンバン(金持)の夫人で、「日本人は今食べるのに困っているから、天幕の部落へ行けば、誰か日本人の子を売って呉れるでしょう。」と云う人があったので、この天幕へ来たのだ、と云った。
先程この天幕から出て来た人に聞くと、「赤ちゃんは殆んど病気で死んでしまったが、岡田さんとこになら、男の赤ちゃんが居るよ。」と教えてくれたので、登勢を呼んだらしかった。婦人の思いつめた顔を見ると気の毒ではあったが、登勢は全で児獲りが来た様な気がして、
「私は売りません。いやです。駄目!。」
と云うなり、あわてて天幕の中へ逃げ込んだ。赤ん坊を抱き上げて乳房を含ませたがーー五月の末と云うのに、冷えびえと登勢の心の中まで、曇り空が広がって、悲しみがひたひたと音を立てて迫って来るのだった。
 月が変り梅雨には未だ早いのに、雨がよく降った。降り続いた雨が晴れて、夏に近づいた事を思わせる様な日ざしの日だった。
 天幕の入口迄オモニー(婦人)が、赤い大根を売りに来た。
長い間野菜に飢えていた人々は、一本ずつ買った。誰もがほしかったので、一本しか与らなかった。登勢は味噌をついでに買って、親子三人で大根を噛った。
赤い大根に味噌をつけて噛った味〃。
それは山海の珍味にもまさって、登勢にも、敏夫にも、一生涯忘れられぬ程の美味であった。たった一本の赤い長大根は、またたく間に無くなった。敏夫は根が無くなると、葉迄噛って食べてしまった。
味噌にはお湯を入れて味噌汁をつくった。
 食物を売るオモニーが、幕舎近くに来始めた事は、コレラ渦が治まったのだと、登勢は思った。〃もうすぐ帰れる〃。と云う希望が少しずつ頭をもたげ始めた。
 久し振りの晴天に、じめじめした天幕の中から、日の光、初夏の風に当る為に、殆んどの人が外に出ていた。登勢も秀坊を抱いて、敏夫や留里と天幕を出た。空は晴れて、白雲が静かに去来していた。
 子供の頃、登勢の実家の病院の南の門を出ると、畑に続く裏庭があって、そこに小さな築山があった。築山に寝転んで、空ゆく雲を眺めて、国語読本の諸葛孔明の一節、 
 〃白雲悠々去り又来る、西窓一片残月淡し〃
等と口ずさみながら、様々の想いをめぐらせた楽しかった少女の頃の事が、〃ふっ〃と登勢の頭をよぎった。晴天を流れる雲は登勢を感傷に誘った。昔読んだ本で作者の名も文もとぎれとぎれで、はっきりしないが、〃雲〃と云う文に、〃雲は童(わらべ)を乗せて、大空を馳せぬ。童(わらべ)夢心地せり、童長じて憂き事多き世の人となりぬ、事にふれ折にふれ、思い起こすは彼の丘の雲なりき〃とあった事を思い出して、雲を眺めながら、登勢の思いは故郷に飛んでいた。
「赤土のこの丘に何時迄滞在するのだろうか?。一日も早く故郷へ帰りたい。」
疑問とも詠嘆ともつかぬ言葉が、登勢の口から思わず洩れた。
 その時古角芳夫の明るい顔がこちらへ向って、駈けて来るのが見えた。「古角さん!」と呼んだが途中で止まって、何か言っている。あちらこちらで、ざわめきが起きた。
「愈々明日出発するらしい!」急に元気が涌いた様に、人々の中に一つのどよめきに似た物が、動きとなって、一せいに天幕へ向って足を運ばせていた。
 今更、何一つ準備する物も、事柄も何も無いのに筵に一応落着く必要があったのかも知れない。
 翌日。(六月十一日)の昼過ぎ。
 登勢達は米兵に案内されて幕舎を出発した。赤土の丘を下りて暫くは広い道路であった。そのうち一行は山道に入った。
出発の時刻が遅れた為に、本通りでなく近道を歩いているらしく、細い山道を一列で下って歩いた。
暫く行くと、お宮の境内の様な処に、〃龍山〃と刻んだ石があった。
 やがて、ポプラ並木の街路を少し行くと、〃永登浦〃と云う立札があちこちに見えた。
盧城を出てからは、かれこれ一時間近く歩いた様に思えた。山手の住宅の横の細い道を出ると、鉄道の線路の処に出た。踏切を渡って少し行くと海岸?であった。
 海岸には、上陸用舟艇によく似た型をした舟底の深い木の舟が待っていて、先着順に次々と乗り込んでいた。一杯になるとすぐ出発して行くが、その間にも沖の方から別の舟艇が、エンジンの音高く現われた。
 登勢が海岸だと思ったのは、漢江と云う(巾が四百米もある)河の岸辺であったらしく、河を下って海上の船舶の碇泊地迄は、上陸用舟艇に似た型の木舟で行くらしかった。
 そのあたりは、干満の差が甚だしい為に、大きな船は沖に碇泊するしか仕方が無いという事であった。
 木造の上陸用舟艇によく似た舟は、ボート型であるが、縁が一米以上もあって、小柄な登勢の首近くまで深く、中に座席はなく、立ったまま乗っていると不安定で、余り乗り心地のよい乗物ではなかった。けれどスピードがあって、どんよりと曇った六月の海を走るには不足のない舟だった。
 沖へ出ると大きな船舶が碇泊していた。「この船で故国日本へ帰るのだ。」
登勢は大きく目前にそびえる様に浮んでいる、引揚用の貨物船(米国から貸与されている引揚船、VDサラバック号?)をたのもしく見上げた。
 舟艇が近づいて、よく見ると、船には四十cm程の間隔に、踏板を縄で吊り下げた吊梯子が下っていた。
これでは、舟艇から縄の吊梯子に、乗り移るのも並大抵ではない。舟艇の縁をよじ登る様にして渡る四角い板場が、吊梯子の下で、波に浮いてぶくりぶくりと、揺れている。
登勢は足がすくむ思いであった。
〃この危なっかしい梯子が、五才の敏夫に登れるだろうか?〃。しかし逡巡するいとまは無かった。
古角芳夫が登勢の心を見抜いた様に、大山夫人の荷物をつめたリュックの上に留里を背負って、「敏ちゃん。頑張れよ〃。」と敏夫を励ましながら先に昇った。
敏夫を米兵が四角い板場の上へ、舟から降ろした。登勢も続いて板場へと降りた。
 敏夫は不安定な板場から梯子への高い一段目の五十cm程の隔りが恐ろしかった。敏夫は泣き顔をして登勢を振り仰いだ。梯子にさっさと昇らないと、狭い板場は後の人が降りられないのだ。下は海水が大きなうねりを作って船端を叩いている。少し風が出はじめたか水しぶきが飛んでいる。米兵が横から小さな敏夫を引き上げる様に引張った。反動で波に浮いた板場は大きく揺れた。登勢は思わず、「あっ!。」と叫んだが、瞬間危く平均を取り戻して板場にとどまった。敏夫の足は高い梯子の下一段目にやっと乗った。秀坊を背に、肩からおしめの包を掛け、水筒、飯盒を腰に下げた登勢に、敏夫を支える余力は全然無かった。
唯、敏夫が無事に船に乗る事が出来る事を願い、神の加護を祈るだけが、登勢に出来る事であった。
「気をつけて昇るのよ!。」敏夫を先に、そして登勢が昇った。
 時間が定時を過ぎるのを気にして、米兵は皆を急がせた。それでも梯子から海中へ落ちる者もなく、無事に全員が乗り込んだのはもう黄昏が迫る頃であった。
 引揚船には、秋乙以外の人も沢山乗っていた。満洲の方からの引揚の人々も一緒であった。大きな船倉の様な船底には、毛布が置いてあって、毛布を敷いて横になった。
 夜になって船が出発した頃から風が荒れ始めたらしく、船底に寝ている登勢達にも、波の音や船の遥れるのが分る程になって来た。海が荒れ始めたらしい。
 夜が更けると共に、だんだん嵐は強まって、船もきつく揺れ始めた。登勢は船に弱いので、もう起き上る事も出来ない。人々の話声だけが、耳に入って来た。
「江華を出て二、三日もすれば、内地に着ける筈だが-。」
「この分では大分荒れているから仁川にでも引返した方が安全だろうね。」
「ここまで苦労して来て、船が沈むなんてまっぴらだね。」
「引き返したらしいね。どうやら港に留って避難するみたいよ。」
様々の話声が聞こえていたが、何時の間にか登勢は睡ったらしく、眼をさました時は、もう朝方であった。船は碇泊しているらしいが、船底に転がっている登勢の耳にも、激しい雨風の音に混って、「ざぶん。ざぶん。」と云う船を叩く波の音が、まだ聞こえて来て、嵐が未だ静まらないのが判断できた。
 船が碇泊している為か、登勢の船酔は治まり、船底から甲板の、トイレ迄、留里を連れて、何度も通った。
船底から二階へ渡した梯子段は、急な傾斜で五十段以上は充分あった。
甲板へ行くには、二階からもう一つ三十段程の急な階段を昇らねばならなかった。
 登勢は女学校の時(昭和七年)修学旅行で、竹生島の(琵琶湖)長命寺へ行った時に、山上の長命寺迄の石段を登った。その頃は、未だ土産物を売る店も少く、長命寺の石段も急で、段数も多く、汗をふきながら昇ったが、船の階段はもっと急であった。それに巾も狭く、危険であった。日に二人程が足を踏み外して、上から転げ落ちた。
 栄養失調で殆んどの人達が下痢をしていた。日に何回となく留里を連れて、甲板へ上る時には、その度に、登勢は、おんぶ紐で留里を背にくくりつけて、両手でてすりにすがる様にして昇った。
 乗船して三日目の朝には、二晩も荒れくるったさしもの嵐も静まり、船は出帆した。
嵐が去り、雨も止んで、青空には白雲が浮かんで、人々は生気を取り戻した。
 船は故国日本を目指して、白い泡を小さな流れの如くに船尾から吐きながらその翌日も次の日も航海を続けた。もうすぐ故国に帰れる喜びを前に、登勢は肝臓をそこなったのか、その日も朝食(ひじきに芋のつるのスープと糠を混ぜて作ったビスケットとお粥)が、どうしても咽喉を越さなかった。〃三人の児を連れて帰る迄は、どんな事があっても倒れられない〃その思いが彼女の体を支えているものの、急な階段の昇降は大変辛かったので、船底で横になっている事が多かった。
「日本が見えたぞ!。」「帰ったぞ!。」その様な叫びを聞いて、船底で休んでいた人達迄が甲板へと昇って行った。
船のエンジンは未だ止まっていないらしいが、
「見えた。」
「帰った。」
と云う言葉が船中に、こだまを呼んでいる感じであった。やがて
「沢山の人で何も見られない。」と云って柳沢の幸子と栄子が下りて来た。
少し時間がたって樗木が下りて来た。
「一杯の人で陸地を見るのも大変ですが、やっと日本へ帰りました。未だ接岸していませんが、もう三時間もすれば甲板の人も少なくなるでしょう。」
と笑みを浮かべながら云った。
 黄昏が静かに幕を下し始めた頃、登勢は甲板へ上って行った。未だ多くの人が、甲板に釘づけになった様に、陸とは反対の西の海に沈む夕陽を見ていた。金波銀波をさざめかせながら、陽は真赤に燃えて、波間に落ちて行った。残照がわずかに空に漂よって、対岸の陸地は、ぼんやりと幻の如くに見えた。
〃この引揚船は沖で碇泊して、そのまま一週間の検疫期間を過すのだ〃。と云う人や、〃明朝明るくなってから接岸しないと、魚雷が残っているのに当ると危ないからだ〃。
と云う人や様々の事を云いながら、誰も動こうとはしない。登勢は東の方に、うすくぼんやりと見える陸地を、丸で蜃気楼を見る様な思いで眺めていた。
「あれは博多だそうです。」
すぐ横で萩原夫人の声がした。友久夫人も一緒であった。
そのうち海岸線上に浮んだ陸地に、灯がチラチラと見え始めた。
「ああ!灯が見える。」
「博多の灯が見える。日本内地の灯。」
敗戦の日から、〃心のともしび〃として登勢を支えて来た、故国の灯。
蜃気楼でもない。夢でもない。歓喜に打ち震える胸は、このま、鼓動が止まるのではないかと思われた。
 何時の間にか眼頭に溢れて来た涙に、〃故国の灯〃が霞み、滂沱と登勢の頬を涙が流れ落ちた。完

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