六、闇夜
 ザクザクと兵隊靴が砂利を踏む足音と共に重苦しい気配が官舎を包むのを感じて登勢は「ばつ!!」と目を醒ました。すぐ隣に眠っている柳沢夫人(四、五日前から官舎をソ連兵の為に追い出されて泊りに来て居る)も目を覚まして「変だわね、来たらしいわよ」と私語やくのだった。
 そのうち玄関の扉がガタガタと荒々しく引張られて今にもこわれそうな音がした。扉を開けないと破壊される」と思った時佐々木の声がした。「逃げて下さいよ!奥さん戸を開けますから。佐々木が玄関へ行くと同時に錠前は外からはずされたらしかった。そしてドカドカと靴ばきのまま五、六人のソ連兵が侵入して来た。
 「ガラリ。」窓を開いて登勢は飛びおりたが「ハッ」と息をのんだ。すぐ目前に銃をかまえた兵士が「チオッ」と叫びながらっっ立っていたのだ。
夢中で再び屋内へ飛び込んだ登勢の周囲をソ連兵が五、六人で銃をかまえて包囲してしまった。敏夫と留里を抱きかかえたま、静かに座して俎上の鯉の様な落着きを取り戻した登勢は兵隊は全部で六人中の頭立った一人が憲兵曹長である事、柳沢夫人は首尾よく御不浄へかくれたらしい事を見きわめた。
「兵隊は居ないか?」
「男は居ない、か?」
曹長は佐々木兵長にも銃を向けたまま登勢に尋問を繰り返した。
 登勢はソ連語を全然解せぬ佐々木に変って片言にゼスチャーを混えて答弁を始めた。「兵隊は居ません。.この人は私の兄です。」(ソルタートニェト、エタモーイブラート)「連れて行かないで下さい。」「この家には誰も男は他に居ません。この人は百姓です。兵隊ではありません。(ニソルダート)百姓です。(家には兵隊は)居ません。(ヤードーマ、ソルダートニエト)憲兵曹長は「ふん!」と云って兵隊に佐々木を引立てる様合図した。
「待って!」登勢は思わず憲兵曹長の腕をつかまえて歎願した。
「お願いです。連れて行かないで下さい。」「取調べる事があるからどうでも連れて行く」「怪しいものではありません百姓なのです。」「駄目だ連れて行く」「では身仕度をしますから」「早くしろ」登勢は大急ぎで上衣と煙草を佐々木に渡した。兵隊五人が佐々木を取り囲んだ。兵隊達が口々に云った。「ダヴァイチェ」「ダヴァィ」(行けー)
「お願いです。連れて行かないで-。この人は百姓なんです。」登勢は尚も叫び続けた。その時憲兵曹長がっと登勢の手を取った。握りしめながら早口に小声で優しくささやいた。「ザフトラヴェーチョロム」「…………」「ヤポイジョームー:-…」しかし登勢の未熟なロシア語の知識では少し複雑なこみ入ったロシア語は解せず、「安心しろ。すぐ帰してやる。」と云った様に思えたが言葉が通じない事が一層不安を増して来た。登勢は拉致されて行く佐々木の後姿を眼で追いながら心細くなって来るのだった。憲兵曹長が再び何か言った。「ザフトラベーチコラム……。」夢中で拉致される佐々木を弁護していた登勢はその時始めて憲兵曹長を意識した。油ぎった大きな手で握られた手を発作的に引こうとしたが固く握られた手はビクともしない。急に新しい恐怖が襲って来た。
「ウハヂウハヂ。アト、・・ニヤー」(あちらへ行って下さい)「ダヴァイダヴァイウハジーウハジー。(帰って下さい)ダスビダニヤ(さようなら)。」登勢がおののきながら片言をしゃべっている時、「曹長。曹長」と運よく玄関先からソ連兵士達が呼んだので曹長は「チェッー。ダスビダニヤ(さよなら)」といまいましげに舌打ちをして、登勢の手を握り返してからやっと手を離した。そして後を振り返りながら佐々木を取りまいた兵隊達をうながして暗闇の中へと消えて行った。
 玄関の扉がガタンとしまると登勢は今までの緊張がほぐれて不安と心細さが寂として吸取紙にインクがにじむ様に全身に染透る(凍み)のを感じた。ヘタヘタと座りこんだ時「奥さん!」と云いながら柳沢夫人が栄子ちゃんを連れて御不浄から現われた。幸子ちゃんも浴場から現われた。皆顔を見合わせたま、黙然としているばかりであった。『これから先はどうなる事だろうか???」登勢も柳沢夫人も言葉にならぬ不安が頭の中をどうどう廻りしていた。小さい留里や坊や(柳沢夫人の長男で留里と同年の一年九ケ月)を寝かしつけながら悲しいまでに目が冴えてくるのだった。約一時間ばかりだった時窓辺で「奥さん奥さん開けて下さい。」佐々木のあたりをしのぶ様なひそやかな声がした。
「あっ、佐々木さんだ!」登勢と柳沢夫人は同時におどり上って窓を開けた。佐々木はやっと生気を取り戻した面持で窓から入って来た。そして「もう駄目かと思うとりました。」と大きく息をついて、拉致されて取り調べられた模様を話すのだった。
「通訳が居るのに余り通じまへんので畑を耕す真似を一生懸命しましてん。何が何でも男は使役に使うつもりらしゅうおす。もうこれからは男もソ連へ抑留されん為に逃げんなりまへんなー。」と恐ろしそうに考え込むのだった。空箱にかくしている時計を見るともう二時半、窓外は混沌として黒々とした暗闇が広がっているばかりであった。
 翌、十月一日は夕方から降り始めた秋雨がしめやかに徹かに震えながら宵闇を漂よわせて、しのびよる獣の足音の様に音もなく降っていた。登勢の故郷は山国であった。秋雨の晴れた後、山へ茸取りによく行ったものだった。赤松の根元の枯葉を持ち上げて首を出した松茸特有の芳香に毎年秋が愈々深まった事を知るのだった。栗に柿に山の味覚は秋そのものだった。田舎では木犀の花が咲くと松茸が出始めると云われていた。登勢は木犀の花の香も大好きだった。深く澄んだ青空一杯に拡がって行く清純な芳香はある意味での秋の象徴だった。夫の岡田軍医も木犀の花の香が好きで彼の生家の岩庭に珍らしく大きな木犀の木があった。登勢は「わあっー」と泣き出したい様なやる瀬ない望郷の念を柳沢夫人との御国自慢で僅かに慰めながら床についた。
 うとうとと暫くまどろんだ頃、足音がして勝手口のあたりに止まったと思うと扉が「ガタガタ」と鳴り出した。「ドンドン」と叩く音も激しくなって来た。「佐々木さん起きて!ロシア兵が来た!。」登勢は手早く眠っている留里を背におんぶして紐でくくると寒くない様に亀の甲ねんねこを羽織った。飛び起きた佐々木が「奥さん逃げないで居て下さいね!。昨夜の様にソ連兵に連行されるのが怖いんだす。」と恐る恐る勝手口へ出て行った。
扉が開いた気配がして同時に酔払ったソ連兵が独りよろめく様に入り込んで来た。登勢は茶の間の入口で襖に体をくっつけて警鐘を乱打する様に鳴る胸の鼓動を抑えながら息をひそめていた。ソ連兵は「マダーム、マダム」と云いながら登勢の前をすれすれに過ぎて登勢に背を向けだまま茶の間に電燈を点じた。〃さっ〃と光が流れた。「あっ!!昨晩の憲兵曹長!!」登勢はもう少しで声が出るところであった。その時。ハッと柳沢夫人が窓から飛び出した。
「おお!マダム。」と云ったと思うと、電燈に照らされて不気味に黒光るピストルを右手にして憲兵曹長は後に続いた。「今だ!」登勢は勝手口から駈け出した。戸外の闇の暗さに一瞬とまどったが裏手の防空壕の辺りでガサガサと草葉の鳴る音を聞いたので反対側の大道へと反射的にとび出した。道路上でまごまごする事は危険である。
道を距てたすぐ向う側には、あかあかと灯のついているソ連憲兵隊長の家の玄関があった。(ソ連憲兵隊は規律に反した時は射殺も辞さないが現行犯のみ罰せられる)と聞いていた」ので登勢は却って敵の中へ飛び込む事が安全と思い、とっさに憲兵隊長の家の玄関に駈け込んだ。
「ダヴロヤヴェーチョラム(今晩は)。」ソ連の当番兵が顔を出して、「チオ?(何だ)。」「マイヨール(隊長は)、ドオマイエステー?(家に居ますか)」「ア、ハンダーダー(はいそうですか)。」と当番兵が引き込むと入れ違いにマイヨール(隊長)が現われた。登勢は「シシャース(今)ロースキーソルダートヤドームイジヨーム(ソ連兵が家へ侵入して来ています)」と片言に身振りを混えてピストルを持っておっかけられている事を通じた。「アバン、ダ(はいよろしい)イシスダーパイジョン(此方へ来なさい)。」丁度出て来た当番兵に何か云いつけてマイヨールは引き込んだ。登勢は玄関の脇の小部屋に招じ入れられて、まだドックドックと波打っている心臓を静めようと「ハアッ」「ハアッ」と肩で呼吸を二三度して差し出された椅子に腰をかけた。
 間もなくマイヨールは革のレインコートを着て何か云いながら玄関から出て行った。
留里ちゃんに当番兵のロスキーが「バァー、ルッル。」と相手になってりんごと砂糖水を持って来た。「スパシーバ(有難う)。」と登勢は留里にリンゴを渡しながら、口笛を楽しそうに吹いている十七、八才と思える当番兵の少年じみた挙動をじっと見ていた。
三十分ぱかりしてもう一人の小柄な細っそりしたマイヨール(中佐)を連れ立って帰って来た。マイヨールは登勢に向かって、少し小首をかたむけてゆっくり「ロスキーソルダート、トイドーム、ニェトシシャース。ハイジヨン、スピーチ(もうロスキー兵は貴女の家に居ませんから帰っておやすみなさい)。」と云ってもう一人のマイヨールの顔を見て微笑した。登勢は〃なあんだー。マイヨールの部下の曹長なんだな〃と思った。登勢は内心苦笑しながらお辞儀をして室を出た。「ダスビダニヤー(さようなら)。」当番兵が人なつっこい微笑を見せて玄関迄送って出て来た。
「スパシーバー(有難う)ダスビダニヤ(さようなら)。」無邪気に微笑している少年ソ連兵に登勢は軽く頭を下げ隊長官舎を出た。
 マイヨール二人が家まで送って呉れるというので多少の不安もあったが登勢は平静を装って素直に好意を受ける事にした。二人のマイヨールは此の場合猟師であった。けれど留里を背におんぶして、前を歩いて行く懐に飛び込んで来た小柄な窮鳥を撃つ事は出来なかった。これ迄部下の若い下士官や兵士達の行動は戦勝に強姦、略奪は附物とばかり大目に見ていた。又大抵これ迄は現行犯でない限りは黙認されていた。そして知らぬ聞かぬで万事すまされて来たのだ。被害者の日本人側も撃たれようが、殺されようが如何されようと泣き寝入りの形で諦めていた。無媒にも隊長の家に直接に助けを求めて飛び込んで来たのは登勢が始めてであった。
 街路には外燈が一ケ秋雨に濡れてボーと霞んで立っていた。細い朽ちかけた電柱は陰湿な影を作っていた。微細な秋雨に「キラリキラリ。」と光が揺れてすっかり闇に沈んでしまった沼の様な世界にぬめぬめと光る小砂利が靴の下でザックザックと鳴るのみであった。登勢には短い道のりが長く思われた。やっと家に帰りついた。マイヨール(憲兵隊長)が云った。「エタティドーマ、スパコィノーチ。」(貴女の家はこれでしょう?おやすみなさい)マイヨールに片言でお礼を云って居ると佐々木と敏夫が一緒に出て来た。「お母ちゃん!。」敏夫が飛びついて来た。片言しか話せぬので登勢は「スパシーバー」(有難う)ダスビダニヤを繰返しておいて二人のマイヨールが闇の中へ去って行くのを待たずに家の中へと入った。やがて柳沢夫人が帰って来た。柳沢夫人は隣家の物置にかくれていたのだった。後を追ったロスキー憲兵曹長は大分酔っていたので暗闇に方向を間違って反対側へと走り去ったらしかった。
 ひたすらに帰国を望みながら一切が暗黒に閉ざされた不安の中で眠れぬままに声を忍んで静かに登勢は泣いていた。冷たい涙が一すじ二すじと頬を伝わって枕を濡らして行くのだった。

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