八、木枯
 北鮮の秋は駆足で去って行って、秋乙の風物は日一日と初冬の装いを始めていた。燃料にする為に広場の後の食堂の建物はすっかり取り壊されて、桐の木の枯葉が赤土の上をかさかさと音をたてて風に舞っていた。登勢達のぼろ官舎でも朝は窓のガラス戸に霜がつき、地面も屋根も一面の霜で真白だった。それが朝日に当ってきらきら輝きながら消えて行くのだった。七色に燦めきながら溶ける霜は全くお伽噺の世界であった。あちらにもこちらにも宝石が輝いている。緑のヒスイ、紫のアメジスト、真赤なルビー、黄色のトパーズ、その色は様々に変化して最後に消えて行くのである。ダイヤモンドの山に入ったシンドバッドの様な気分になって恍惚と見とれているうちに霜はすっかり溶けて夢も希望も一緒に消え夫せて行くのだった。後には凍てついた赤土の地面だけが現われるのだった。木枯しがまるで〃嵐ケ丘〃のヒースを吹く吹雪の様な冷たさで登勢の心に吹きこんで来るのもそんな時だった。やり場のない淋しさと孤独に反発する様に洗濯や掃除を始めるのだった。秋乙の官舎地帯にもソ連の将校や家族達が次々と引越して来て道を隔てて北向いの官舎も西向いの官舎の並びにもソ連将校や家族、当番兵が住む様になり、元二百五拾部隊の家族の住む二軒のボロ官舎一棟はソ連人の中に取り囲まれた形になっていた。もう今日か明日かと引揚の通報を待つ登勢達の、心に関係なく秋乙は治安を恢復して、廿米道路の道端にりんごや卵等の露店(ゴザ一枚の店)が出始め、官舎の附近へ「ヤブッキーニナーダ?」と物売りが来る様になっていた。そして子供の居ない婦人や男の人はソ連側の通報で洗濯場や炭坑へ使役に雇われて行く様になっていた。秋乙の治安は恢復していったが他方面では佐々木、上杉が秋乙を脱走したのに前後して軍人ばかりでなく民間人も38度線を越境する為に平壌を続々と南下して南鮮へと歩いて行った。
その頃ソ連側では38度線の警備を厳しくすると共に、捕虜として三合里へ収容している日本兵の逃亡を防ぐ一策として、内地へ帰還させるという名目で遠くへ北満やシベリヤの地へ、千人二千人と元日本兵を移動させていた。一応ソ連領ナホトカヘ集結して働きながら船便を待つのだという事だったが、それは表面の理由であった。秘密主義のお国柄とて真実の事はソ連兵にも判明していなかった。内地へ帰れると信じている日本兵の殆んどが北満やシベリヤヘと送られて行ったのだったが、神ならぬ身の知る由もなく彼等は喜び勇んで三合里を出発したのだった。行く手に死の収容所と悪名高いハバロフスクの収容所やオムスクの収容所が待つ事など、そこで年半後には飢えと寒さに耐えての苛酷な使役の果てに死体となって凍ったシベリヤの地に埋められる運命を誰が予測できたであろうか。
毎日の様に、平壌駅に通じる秋乙の官舎地帯を三粁程西に外れた道路を旧日本軍部隊が通って行った。〃軍人は空襲で焼土と化した内地の六大都市の復興に労役して日本の再建に尽くす為に家族より先に帰還するのだそうだ〃とか、〃ソ連領ナホトカから北海道へ渡って北海道の開拓に働かされるのだそうだ〃とか、〃狭い領土に一度に収容出来ぬから軍人が先に帰還して内地を整備するのだそうだ〃とか様々の流言つきであった。元二百五十部隊の将兵の移動も近日中にあるという話もどこからともなく伝ってきた。どれが本当でどれが嘘なのか判断はつきかねたが、秋乙の西外れの道路を旧二百五十部隊の将兵が平壌駅へ向って移動して行く事は本当らしかった。
 もう十月も残り少なくなっているのに、ソ連側から家族に対しては引揚に関して何の通達もなく、次々と登勢達の果敢無い期待は、皆外れて行くのであった。自分達家族達の引揚が遅れても、主人達だけでも早く内地へ帰して貰えるのなら一ケ月位帰国が遅れても仕方がないと登勢は思った。だがそれも不合理な話である。屈強な労働力の凝り固まりの様な軍隊を内地に帰して、柔弱な婦人、子供を残留させる事の矛盾を思うと、軍人を内地へ帰すというのも信じがたい様な気がするのだった。といって、一言の抗議も許されない現状であれば、総べて成り行きにまかすしか方法はなかった。何か一言進言すれば「お国は無条件降伏をしたのだから、負けたのだから仕方ないでしょう!!」とソ連側からピシャリとシッペ打ちされた返事が返ってくるだけであった。
 十一月になったばかりの或日、秋乙官舎の世話役をしている橋元省三元軍属から、〃愈々明日、旧二百五拾部隊の将兵が移動するらしい〃と言う話が伝わって来た。
時間は確定しないが、秋乙の西外れの道路を通るのは、多分午後二時頃であろう、という事であった。その話を聞いても登勢は余り乗気になれなかった。〃今更、夫に一目会ったとて何になろう!〃佐々木の脱走以来、他の家族と違って男手がなく、幼児を連れている身には〃元気で子供を内地へ連れて帰る〃事が当面の問題として大きく登勢の肩にのしかかっていたので、子供を中心として重点的に行動したいと思っていた。同じぼろ官舎の夫人達も見送りに行くという人と行かないという人とに別れた。上敷領夫人は、出産を間近にひかえている身であったので、遠く二軒の道を往復するのは止める。と言って、最初からあきらめていた。柳沢家では夫人よりも、栄子ちゃん、幸子ちゃん、の姉妹が父親に会いたいから絶対に見送りに行きたいと主張した。夫人達の中で見送りに行くと言って最も熱心だったのは河島夫人であった。抜ける様に色白な肌は病的なまでに冴えて、新株美千代に似た顔立をした夫人は、登勢や上敷領夫人と同じ年令(二十六才)であった。登勢は河島夫人を見ていると、色白の次妹の紀代を何故か思い出すのであった。
 博多市の素封家の独り娘として生れた河島夫人は、蝶よ、花よと育くまれ、幼いときには母に甘え長じては父に頼り、結婚してからは夫に依り凭れて来たのであった。
亦、婿養子として結婚した夫の河島少尉は、非常に優しい人柄で、結婚後も声を荒立てる様なことは一度もなく夫人を心から愛していた。晩婚だったので来年三月の初めに、最初の子供が生れる予定であった。その夜河島夫人は寝つかれなかった。故郷の父の顔が、そして母の顔が夫の顔と重なって、夜もすがら彼女の頭を去来するのだった。明日は夫に会える。という期待に胸が弾んで来るのであった。翌日は朝からどんよりと曇りがちなお天気であった。「ねえ、奥様送りに参りましょうよ。」登勢は河島夫人に誘われるとむげに断り切れなくて遂々行く事にした。「うちの敏子(留里より一本程年長)と一緒に遊ばせながら見てあげましょう」と言う上敷領夫人の好意に甘えて留里をあずかって貰って出かける事にした。男の人は行かない方が良いという話が聞こえて来た為、柳沢夫人や河島夫人や坂元夫人と一緒に女と子供だけで出かけた。
 久し振りの遠出に夫人達の心は緊張していた。敏夫は物珍らしげに周囲を見廻したり、橋口さんの了ちゃんや浩ちゃんと石を蹴り蹴り歩いていた。官舎の並んだ坂を下りて、秋乙の丘陵地を東西に走る二十米道路に出ると、よく伸びた箒草や蓬の枯草の横を、凍てついた赤土の道路が真直ぐに西へ延びているのだった。遥るか前方の果てに、粗末な秋乙郵便局がまるで堀建小屋の様な不粋な姿を見せて、その向うには病院と思われる建物らしき物が漠然と見えるだけであった。枯草の野は荒涼として不安なほどに広がっていた。夫人達は銘々に自分の夫の事を考えながら黙りがちに歩を運んで行った。夫人達が目的地に到着した時は、一時を少し廻った頃だった。登勢達は道路がよく見える高台に拠って待つ事とした。
 しかし時計が二時を指しても二時半を過ぎても、三合里の方向から誰一人現われて来ないのだった。
 木枯しが赤土の砂埃りを巻き上げながら、登勢達を吹き過ぎて行くばかりで、軍靴の音も聞こえず時間は流れた。寒さに吹きさらされながら、夫人達は待っていた。
もうどれ程待っただろうか?。夫人達の頭の頂点から足の爪先迄、寒さが浸透して来た。登勢も足首が冷えて、足の爪先は痛い程であった。登勢は敏夫にオーバは着せて来たものの時々咳込むのが気になった。(元日本軍がそして二百五十部隊が通過して行くというのは本当の事なのであろうか?) 皆の顔にそろそろ失望と疑惑が現われ始めてきた。そして失望がなかば焦燥に変り出した頃だった。「おーい。おーい。」と呼ぶ声が聞こえて来た。三合里から平壌に通じる道路と、秋乙からの道路が丁字型に交叉する処へと、人々は思わず駈け寄ったが。△△△。そこに見えたのは兵隊さんではなかった。自転車に乗った国民服の男の人が、「おーい。」と呼びながら近づいて来た。元二百五十部隊によく出入りしていた、現地召集の金沢元軍属であった。自転車を降りて「橋元いますか?。」と言うと人垣の中へと入って行った。登勢はその時になって、はじめて秘かに橋元氏が来ている事を知った。
 橋本省三は元の二百五十部隊だけでなく、秋乙全体の家族の世話役をしていた。
さすがに二百五十部隊の家族には遠慮していたが、ソ連兵を相手に、「マダムダワイ。」の斡旋をしているという評判であった。女衒(ぜげん)というのでは無いにしても、ソ連兵からの貰い物で、お金と物が津山あって裕福に暮していた。敗戦後の内地へ帰ってもこの様に満ち足りて暮らせないであろうと云う考えが、忸怩とした思いと共に彼の胸底にはあった。橋元夫人は「内地へ帰っても食糧難で大変なんだから……」と暗に日本への引揚が延びても良い様な事を云っているとかの噂もあった。他の家族達や日本人が目前に迫っている寒さと飢えを全身で感じている時だけに、省三は二百五拾部隊の将兵と正面切って顔を合わせる事はさすがに気が筈めた。
 騎兵隊の家族の夫人達や病院の夫人達や薬剤師の一幡氏の後に、まぎれていた橋元は、「仕様がない。」と言った顔をして出て来た。そして自転車の男金沢から話を聞いて皆に伝えた。「部隊が出発前になってから編制替等で手間どって出発が遅れたので、こちらへ来るのは二時間位後になるでしょう。」それを聞いたとたん、登勢は上敷領夫人にあずけて来た留里が迷惑をかけていないかと、、心配になって来た。それに敏夫に風邪を引かせても困るので二時間もこのまま立っている事は出来ないと思った。.河島夫人に悪いとは思ったが、断って先に帰る事にした。ぱらぱらと帰る人があって、結局残ったのは最初の三分の二程の人数になった。
 河島夫人は登勢が帰ったので気を落としたが、夫に会えるかも知れぬという期待に支えられて寒空に佇んでいた。
重く垂れた雲の合間から洩れる日影は佗しく、「ヒュウー」と鳴る木枯しの音は悲しく胸に響いた。首に捲きつけた毛皮のショールの端に手を入れても、風の冷たさが全身から手足に、酷しい冷えを伝えて来るのだった。
彼女は優しく話しかける様な夫の面影を心に描いて、足ぶみしながら一心に寒さに耐えていた。
 登勢達が帰って一時間余りもした頃、道路にざわめきが起きた。「見えたよ!。」「来たよ!。」ザクッ。ザクッ。ザクッ。軍靴の音と共に、隊伍を組んで近づいて来たのは待ちに待った同胞の部隊であった。くたびれた軍服。丸腰。ではあったが、背には背嚢を担ってその顔は、内地への帰還を信じて口々に叫んだ。「皆さん、お先に帰ります。」「お先に内地に還ります。」「どうかお元気で!。」「皆さん、お先に!。」「お先に。内地へ還ります!。」騎兵隊の家族の中から、稚ない声が飛んだ。
「あっ!お父さん。お父さん!」「おう!これを。」背嚢が揺れた。隊伍が乱れた。つと振向いた警備のソ連兵が大声で叫んだ。「シトオ?ダバイ。ダバイ。」空に向けて、二発。「パン!」「パン!。」銃が火を噴いた。人々は息を呑んだ。瞬間!。表面の平静を取戻して、振り返りながら隊伍は進んで行く。二百五拾部隊の知った顔のありや無しや?。涙を呑んだ顔!顔!。夫人達は力一杯に手を振った。「お元気で!。」手を振っていた河島夫人は思わず声をあげた。「あっ!。」「おお!。」同時に河島少尉も気付いた。「さっ。」と二人の間をテレパシーが流れた。千人の隊伍の中の一人。いや幾万人であっても同じであっただろう。河島夫人の眼には一人しか映らなかった。まるで金色のライトを浴びた様に河島少尉の顔が浮き上って、その周囲には後光が射している様に見えた。「俺は先に還るが、君も元気を出して無事で内地へ還るのだぞ!。」その顔は優しく語っていた。しっかりと見つめあった眼と眼に、無言の思いが通い合い、その儘遠ざかって行く。「パン!。」「パン!。」「パン!」ソ連兵は意地悪くむやみに空へ発砲した。「ザック、ザック、ザック。」軍靴は悲しみのどよめきのような響きをひびかせながら遠ざかって行った。「これはお父さんの背嚢!。」騎兵隊の家族の中から十二、三の少女が駈け寄って、落ちている背嚢を大切そうに拾い上げた。背嚢に頬ずりをしている少女の髪を逆立てて木枯しが吹いて行った。河島夫人は木枯しと共に去っていった恋しい人の行方を眺めて茫然と立ちつくしていた。
 治安の恢復して来た秋乙では登勢達のぼろ官舎へ毎日の様に子供じみたソ連の当番兵が遊びに来る様になっていた。コ−リャ、やらミツシャ、やサ−シャ、は何と言う事なく遊びに来て種々と自慢話をして帰るのが普通になっていた。連立方程式の基本型を見せて「これが出来るか?。」とか、因数分解が出来るか、とかしきりに言うのであった。地図を見せてこれがイギリス、これがソ連、これがフランスで、首府はパリ、ドイツは何処だとか・知識を披歴して見せるのである。学校へは四年も通ったから良く識っていると.言うのである。舟元元上等兵や小吉元上等兵が相手をして、「自分達は学校へ八年も通つたが、そんなむつかしい数学はとても出来ない。」と首をかしげて考える素振りを見せると、「八年も学校で何をしていたか?。」と指を折って不思議がるのであった。君程よく勉強していないから判らない。君はえらい(ハラショ−)だ。」と言って皆で感心して見せると得意満面で帰って行くのであった。サーシャは長身で無口であった。何事も黙って、コーリヤやらミッシャの話を、笑いながら聞いている方が多かった。ミッシヤーは小柄で色白の赤い毛をした十八才の少年兵であった。郷里に十四才の恋人があった。男の赤ん坊が一人あるとの事であった。目の大きな柔らかな頭髪のウエーブのよく似合う可愛いいリーべの写真を肌身離さず大切に、持っていてよく見せびらかした。しかし子供は国が育ててくれるからと涼しい顔で、写真も持っていないし、全然関心がなかった。この少年パパは何ともあどけないものであった。
 コーリャは中肉中背の頭髪も黒くがっしりとした体躯の蒙古系の顔をした少年兵で色が浅黒く、十八才という年令よりは幾分老けて見える真面目そうな少年であった。
ここの勤務が終ると休暇を貰って帰るのだと嬉しそうに語るのだった。コーリャを見ていると何となくコサック騎兵を連想させられるので、登勢達はコーリャの事を日本人同志の話の時はいつも〃コサック〃と呼んでいた。
コーリャは戦車隊に属していて、何か言うとそれを誇りにしていた。戦車隊の時計を誇らかに坂元や橋口の坊やに見せていた。と言うのは戦車隊員は優秀な者しかなれないという事らしかった。
 (日本人の外出禁止)を言われた革命記念日も無事に過ぎた或日。非常に困った事がもち上った。コーリャが自慢にしていた時計が紛失したのである。私物では無く戦車隊の物である。コーリャが顔色を変え、目の色を変えて、ぼろ官舎へ飛び込んで来た。「チャッスイ、時計ニエト、マーリンキイ、チャッスイニエト。」と叫んでいる。「少年達の誰かが戦車隊の時計を盗ったのだろう。」と言うのである。男の子を全員独りずっ呼んで詰問し始めたが誰も知らない。遂々業を煮やしたコーリャは、少年達を物置小屋へ監禁してしまった。最初の間は誰も泣かなかったが、夕暮れが近づくと最年少の清君(七才)が泣き始めた。その声を聞いて少年達は次々と泣き出した。木枯しの吹く秋乙の重い空気を震わせて聞こえる子供の泣声には親心迄うら悲しくさせるものがあった。
 黄昏と共に底冷えがあたりを包みはじめた。物置小屋から洩れて来る少年達の泣き声は、夫人達の母心を悲しく揺ぶるのだった。戦車隊の時計がないと、コーリャが非常に困るらしいと言う事は、ぼろ官舎の日本人達にもよく理解出来たが、罪もない幼い少年達を、物置小屋に監禁するとは理不尽な事である。
コーリャは「時計が出て来る迄、物置小屋から子供達を一歩も外へ出さない。」と戸の外に厳として頑張っている。遂々橋口夫人が、「あんな泣声を聞いていると私達迄たまらないわねえ。何とかならんね。?。」と言い出した。誰もがやり切れない気分になっていたので、皆で相談の結果、コーリャと一番心安く付合っている舟元元上等兵が、交渉にあたる事になった。舟元元上等兵は、「君の様に頭脳の良い人が、少年達が時計を盗っていない事が判らぬ筈はない。罪も無い子供をどうして罰するのか?。子供達を早く小屋から出してやって呉れ。ぼろ官舎の日本人は皆で、君の探しているチャッスイ(時計)探しに協力しよう。」と身振りを混じえて頼み込んだ末、やっと放免になった。あたりはすっかり暮色に覆われて空に群れていた鳥がそれぞれの塒に帰る頃だった。赤く瞼を泣き腫らして、泣きじゃくりながら、少年達は小屋から出て来た。男達も夫人達も夕食も食べないで、一生懸命に時計を探したが、出て来ないのだった。手のほどこし様もなく、本当に処置無しの有様であった。茶褐色の角張った直径約七センチ程の六角形のくさり時計の様な物だ、と言われて登勢も皆と一緒に探したが出て来なかった。 
 コーリャは仲間にねたまれたのではなかろうか?。きっとコーリャの仲間の仕業だろうと言う噂であった。
 四、五日は「チャッスイ、時計、チャッスイ」で明け暮れたが、その中に左遷されたのか、コーリャの姿も見かけなくなり、時計の話もコーリャの噂も日本人の間から何時となく消えてしまった。

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