腔の読み 番外 その9 井上通泰
井上通泰は「家庭衛生叢書」の自己紹介によれば「余は慶応二年十二月二十一日、播磨国姫路元塩町に生まる。父は同藩の儒者松岡操。余は其の第三子なり。明治十年の冬、同国神東郡吉田村の医師井上碩平の養子となれり。同十三年の春東京に上り、同年の冬、東京大学医学部予科に入り、同二十三年の冬帝国大学医科大学を卒業す、爾来医科大学付属病院眼科助手たること二年余、県立姫路病院眼科医長たること又二年余、岡山医学専門学校眼科教授たること凡そ七年余、同三十五年の冬東京に帰り、丸の内、内幸町に於いて私立眼科医院を開く。明治三十七年九月論文を提出して医学博士の学位を受く」とある。

家庭衛生叢書を監修した頃は、医学博士の学位を受けた直後で、井上眼科医院も軌道に乗り、年齢も40歳を過ぎ公私とも充実していた。この頃、東大の文学部から文学博士の授与を打診されているが、医学が本分として辞退している。通泰は幼名を泰蔵、井上家に養子に入った頃から文学に目覚め、上京して東大予科に入学した頃から和歌の道に入り、医科大学を卒業し医学士になった頃には既に国学者、歌人として名をはせていた。同窓の森林太郎(鴎外)も井上の影響で文学に目覚めたようだ。ちなみに東大に文学博士授与を薦めたのは鴎外だそうだ。父・操は播州・辻川の代々医師の出で、医業のかたわら儒学、漢学、国学にも秀でていたことから、姫路で漢学の私塾の主任教諭に迎えられ、明治初年に辻川に返っている。その子供は通泰を始め兄弟揃ってそれぞれの道で名を挙げている。通泰が井上家に養子に行ったのは、明治になり漢学を学ぶ人も少なくなり、生地の辻川に居を移した操が学者の常として生活の事など余り考えず極めて困窮していたことも一因である様だ。通泰は医科大学卒業後一時郷里に帰り姫路病院で眼科医長を務めた後、岡山医専の教授として赴任、岡山の地で後の歌人としての基盤を確固たるものにしたようである。岡山時代に通泰は、岡山出身で本居宣長門下の高弟として知られ、江戸時代後期の代表的国学者であり、歌人である藤井高尚に興味を抱き、その事跡を丹念に追い明治43年に『藤井高尚伝』を出版している。岡山時代の弟子の一人に正宗白鳥の弟の正宗敦夫がいる。敦夫は兄に代わり地元で家業の小間物屋を継ぎ、その傍ら井上通泰に師事し、在野にありながら後に『万葉集総索引』、『日本古典全集』『蕃山全集』等を編纂して国文学会に多大の貢献をし、昭和二十七(一九五二)年にノートルダム清心女子大学教授に就任している。通泰は吉備史談会会長など岡山で和歌や郷土史、国学等の中心的人物として過ごし、岡山医専教授を辞した後、故郷の播州で井上家を継いで田舎医者になることなく、東京で眼科医院を開業する。これは、既に和歌の道で名を挙げていたことと、大学を卒業する前年に通泰と結婚した井上家の娘マサが出産のために辻川に帰省していた時に身重のまま急死し、卒業後通泰は姫路病院に赴任する直前に再婚して井上家との関係が疎遠になったことも一因であろう。通泰は井上家の血筋が絶えないように井上家の縁者から養子をとり井上家を継がそうと努力したようであるが、駄目だったようである。弟の柳田国男によると「通泰は家のことはなにもかんがえないで、世のなかのことばかりかんがえている。交際がひろく、おおざっぱで国士の風格があった」と書いている。余談ながら、私の曾祖父良治は明治12年に宍粟郡富栖村から辻川とは市川を隔てた対岸の福田に移住し外科と眼科を開業、その四男で祖父の秀之助は岡山医専を明治35年に卒業して外科・眼科医になっているので、祖父秀之助も通泰に眼科を学んだことであろう。
通泰の著作と蔵書は、「南天堂文庫」として姫路文学館に蔵されている。また福崎町辻川には、柳田國男・松岡家顕彰会記念館がある。


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