腔の読み 番外その1 腔腸動物
 腔腸動物はクラゲ、ヒドロ、サンゴの類ですがこれをこうちょうと呼ぶか、くうちょうと呼ぶかで重大な支障があるとは思えません(個人的感想)。更に腔腸動物(Coelenterata)は国際的な分類では無くなり、刺胞動物(Cnidaria)、有櫛動物(Ctenophora)に成ってしまっています(クラゲやサンゴがいなくなった訳では有りません)。 腔を使用する熟語の大半は医学用語であります。私は、医者仲間だけで通じる言葉として腔を使う気は毛頭無いし、腔を使うことで如何に患者さんに病状や治療内容が解ればと願っています。
歯科用語としての口腔(こうくう)は、現状では完全に定着し、平成4年に文部省編・学術用語集「歯学編」では、何の注釈もなく腔は総て“くう”で統一されています。一方、医学会でも基礎、臨床各分野毎に用語の検討が行なわれていますが、分野が多すぎて統一できないのが現状のようです。例えば、日本細菌学会は昭和54年に学会独自の用語集を刊行していますが、口腔を“こうこう”とふりがなを付けています。これは、昭和51年の文化庁編・言葉に関する問答集の見解、及び細菌学が直接人体そのものを対象としないため、“くう”に至る経過と其の影響を殆ど受けなかったことによると考えられます。
 戦後の国語改革で多くの漢字が字体を替えたり、読みを替えたり、使用を制限されてきました。明らかな誤用であっても国民に定着しているという理由で誤用が正しいとされた例もあります。文化庁発行の「ことば」シリーズ、言葉に関する問答集では、この様な例が多数挙げられています。腔の字も常用漢字に入れられていたら国語審議会も審議を尽くし“くう”と読むに至った経緯を理解した上で適確な判定を下したと思います。ところで、動物学ではいつ頃からクラゲ、珊瑚を腔腸動物と言うようになったのでしょう?私はこれも明治初期と思いますが、案外腔をくうとルビのある初学者向きの教科書がでてくるかもしれません。どなたか調べて下さい。

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腔の読み 番外その2 空即是色
 空は何故“くう”というのでしょう? あまえあほか?「くうはくうやんか」 其の通り、くうはくうです。では、空は漢字が日本に伝わった頃も“くう”だったのでしょうか? 日本に最初に入ってきた読み方は呉音と言われています。魏・燭・呉、の三国時代も終わりの、当時の中国では南方に位置する呉の読み方・音が呉音です。この音は朝鮮、半島、特に百済を経由して、百済滅亡後はその遺臣が日本に渡来する事によりもたらされました。この呉音では、空は“く”です。呉音で“く”と読む漢字は今の日本の漢和辞書で300以上あります。ところが漢音(唐代の読み方)になると、1字を除いて殆どが“こう”の読み、もしくはそれに似た発音の読みになります。1字を除いてと記しましたが、其の1字は空です。即ち、呉音の“く”は殆ど漢音では“こう”になりましたが空だけは、“こう”にならず、“くう”のママです。数種の漢和辞典では空の読みを“くう”は慣用読み、漢音では“こう”、呉音は“く”となっています。私は、空を“くう”と日本人が読み続けてきたのは、仏教の影響ではないかと想像しています。すなわち、般若心経の「色即是空・空即是色」の空です。これを「しきそくぜこう・こうそくぜしき」では、何のことやら、こうの字が多すぎて、解脱どころか無明の闇に迷い込んで成仏出来そうにありません。私の「腔」の迷路に踏み込んでメチャ暑かった99年の夏もおわりました。

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腔の読み 番外その3 鼻の腔
鼻腔は幕末から明治にかけての解剖学での造語と思っていましたが、室町時代に成立した御伽草子にその原型を見つけて驚いています。インターネットのgooで「腔」を検索しましたら、なんと室町時代に成立した「お伽草子」なるものが出てきました。それはお伽草子の中の「富士の人穴草子」です。これは富士の樹海の中の洞窟の中に、主君、源の頼家の命により入り、地獄の有様を記した物語です。この中に 米を盗んだ罪人が閻魔大王に米を口に含んだまま口を閉じられ(縫われ)鼻の腔より米を出し、苦しむ有様が書かれています。この人穴草子の鼻の腔は、鼻の穴の意でしょう。で、これに出ている腔は“こう”か“くう”か? この時代から鼻腔「びこう」「びくう」なる言い方が有ったとは! このホームページには振り仮名はついておりません。是は図書館で本を調べるしかないと考え、徳大の本館へ土曜日の9時に行きましたら、開館は10時の表示で閉まって居ました。当方は臨床系の講座のため、平日はいつ何が起こるか分からないので、学生の試験などはいつも土曜日に予定しています。その日も10時から試験をするため、その日はあきらめ、何も分かりませんでした。日曜日に市立図書館に行き、御伽草子を探しましたが富士の人穴草子は載っていませんでした。図書館の帰りに本屋で立ち読み、是も有りません。次の土日は学内の報告書に追われて、99年も12月の中旬に入り、やっと徳大の図書館本館に行きましたが、そこにも富士の人穴草子は有りませんでした。こうなれば、恥も外聞も捨てて、(基より恥だらけ、外聞数多の身なれど)前述のインターネットの富士の人穴草子のホームページの作者に聞くのが一番と思い直し、見ず知らずの方にメールを致しましたら、数時間後に詳細な返事が届いてまして、是に又感激感謝と驚き!で、その回答には「鼻の腔」は「はなのあな」ということです。私は「はなのくう」「はなのこう」「はなのむろ」などを予想していたのですが「あな」とは! わかりやすくていいなあ! 次に続く説明が明解です。お伽草子の原文はひらかなばかりで、漢字は大正14年の日本文学大系の刊行に際して、漢字仮名交じり文にしたとの事です。要するに「腔」の字でなくても「穴」でも良かったと言えます。ちなみに菊池真一氏によれば{「腔」は江戸時代以前の物語、草子などには無いでしょう、漢籍、仏書を調べなさい}との助言を頂きました。更に菊池氏には数日後に「腔」に関連する古書のコピーを送付して頂きました。それには、平安末の字鏡集の白川本(室町時代中期写本)には苦江反羊腔とあり発音は「かう」との菊池氏の説明、同じく字鏡集に羊へんに空、ケモノへんに空と同じで、乾燥したケモノの肉の意味、又、類聚名義抄には腔は誤りで正しくは羊へんに空で発音は「かう」との説明。これ以外の「運歩色葉集(室町末写し)」「温故知新(室町中期写し)」「撮壌集(江戸中期写し)」「頓要集(室町中期写し)」「書言字考節用集(江戸中期)」印度本節用集」「恵空編節用集」「倭玉篇」「色葉字類抄」「伊京集(室町期写し)」「明応5年節用集」「天正18年節用集」「饅頭屋節用集(室町末写し)」「黒本本節用集(室町末写し)」「易林本節用集(慶長2年)」「古本下学集」「春林本下学集」「文明17年本下学集」「文明11年本下学集」「榊原本下学集」「亀田本下学集」には腔の字は見あたらないとのことで、我が身の浅学非才を痛感するとともに、専門とする学問の奥深さを痛感した次第です(親不知(智歯)の抜き方なら任せて下さい)。

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腔の読み 番外その4 南腔北調集 
魯迅が1932年から亡くなる直前までに書いた、その時々の随想集が「南腔北調集」です。随想というのは当たらないかも知れません。何分、魯迅は文学者であると同時に、それ以上革命家、思想家であった訳で、今の日本の随筆の範疇に入れるのはためらわれます。しかし、この「南腔北調」と言う言葉そのものは非常に明解です。それは魯迅自身が題記として「南腔北調集」の最初に何故「南腔北調集」と名付けたかを書いているからです。即ち、魯迅は中国の各地で活動し、そのために話す言葉が各地の発音、方言が入り交じり、人から魯迅の演説は「南腔北調だ」と言われたことによります。南腔は主として上海近辺の発音、方言であり、北調は北京での発音、方言です。演説に限らず、書く文章も南腔北調になった。中国全土、或いは種々の話題を取り上げた文章を集めたモノ、というのが題名の起こりです。このように中国では「腔」は声の節回しを意味するのが普通です。京劇の音曲にも腔のつくものがいくつか有ります。丁度、日本の東京音頭や佐渡おけさや木遣り節等の、音頭、おけさ、節に相当するのが「腔」です。中国では「南腔北調集」をなんと発音しているのかは知りませんが、日本では「なんこうほくちょうしゅう」と読むのが正しいでしょう。
魯迅は若い頃、日本に留学し、仙台で医学を学んでいました。この時のことを書いた作品に「藤野先生」が有ります。藤野先生は、解剖学の教授で魯迅のノートを添削し、親身になって世話をした人です。魯迅は口腔、鼻腔をなんと発音していたのでしょう?

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腔の読み 番外その5 南腔北調集(原文) 魯迅
 一九三二年題記
  一兩年前、上海有一位文學家、現在是好像不在這里了、那時候、卻常常拉別人為材料、来写?的所謂「素描」。我也没有被赦免。據説、我極喜歓演説、但講話的時候是口吃的、至干用語、則是南腔北調。前兩点我很驚奇、後一點可是十分佩服了。眞的、我不會説綿?的蘇白、不會打響亮的京腔、不入調、不入流、實在是南腔北調。而且近幾年來、這缺點還有開拓到文字上去的趨勢、語絲早經停刊、没有了任意説話的地方、打雑的筆墨、是也得給各個編輯者設身處地地想一想的、干是文章也就不能劃一不二、可説之處説一點、不能説之處便罷休。即使在電影上、不也有時看得見黒奴怒形干色的時候、一有同是黒奴而手裏拿着皮鞭的走過来、便?緊低下頭去?我也毫不強横。
  一俯一仰、居然又到年底、?鄰近有幾家方鞭爆、原来一過夜、就要「天増歳月人増壽」了。静着没事、有意無為的翻出這兩年所作的雑文稿子来、排了一下、看看己經足?印成一本、同時記得了那上面所説的「素描」裏的話、便名之日「南腔北調集」、準備和還未成書的「五講三嘘集」配對。我在私塾裏讀書時、對過對、這積習至今没有洗乾淨、題目上有時就玩些什?「偶成」、「漫興」、「作文祕訣」「搗鬼心傳」、這回卻閙到書名上来了。這是不足為訓的。
  其次、就自己想今年印過一本偽自由書、如果這也付印、那明年就又有一本了。干是自己覺得笑了一笑。這笑、是有些悪意的、因為我這時想到了梁實秋先生、他在北方一面做教授、一面編副刊、一位??兒就在那副刊上説我和美國的門肯相像、因為毎年都要出一本書。毎年出一本書就會像毎年也出一本書的門肯、那?、喫大菜而做教授、眞可以等干美國的白壁徳了。低能好像是也可以傳授似的。但梁教授極不願意因他而牽連白壁徳、是據説小人的造謡、不過門肯卻正是利白壁徳相反的人、以我比彼、雖出自徒孫之口、骨子裏卻還是白老夫子的鬼魂在作怪。指頭一揆、君子就翻一個筋斗、我覺得我到底也還有手腕和眼晴。
  不過這是小事情。擧其大者、則一看去年一月八日所寫的「非所計也」、就好像着了鬼迷、做了悪夢、胡裏胡塗、不久就整兩年。怪事随時襲來、我們也随時忘卻、?不重温這些雑感、連我自己做過短評的人、也毫不記得了。一年要出一本書、確也可以使学者們揺頭的、然而只這一本、雖然淺薄、卻還藉此存留一點遺聞逸事、以中国之大、世変變之亟、恐怕也未必就算太多了罷。
  兩年來所作的雑文、除登在自由談上者外、幾乎都在這裏面書的序跋、卻只選了自以為還有幾句可取的幾篇。會經登載這些的刊物、是十字街頭、文學月報、北斗、現代、濤聲、論語、申報月刊、文學等、當時是大抵用了別的筆名投稿的但有一篇没有發表過。
    一九三三年十二月三十一日之夜、干上海寓齋記。
?はコードに無い漢字です。日本語訳は岩波の魯迅全集にあります(翻訳・著作権がまだ切れていませんので、掲載出来ません)

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腔の読み 番外その6 百姓読み
腔の読みを調べる過程で色々な辞書の類を参考にしました。その中で気になった用語が「百姓読み」です。例えば「腔」は“こう”が正しいが、百姓は学問が無いから、空を“くう”と読むことから「腔」も“くう”と読む。「困ったものだ」と嘆く言語学者の姿が浮かんできます。私は、「腔」の読みを調べるまで、“百姓読み”という言葉は知りませんでしたが、是は言語学での専門用語なのでしょうか? 現在では、百姓(農業経営者)もコンピューターを使い、気候の変化や需要を予測し、営農戦略を立て、バイオ技術を駆使し、大学の農学部の非常勤講師を務める人もいるようです。所謂差別用語の撤廃は物事の本質を曖昧なものに変えているようです。しかし、そのような言葉を使われた人が不快感を抱くのなら使わないようにするのが当然でしょう。「百姓読み」なる言葉が差別用語に当たるのか否か? 差別用語として禁止にすると代わりの言葉を作らなければなりません。パソコンのワープロを使うようになって漢字はどんどん忘れていきます。忘れても、単語を入力すれば該当する漢字の熟語が沢山候補に挙げられて表示され、選択すればそれでOK。百姓読みで入力しても候補に挙がりません。「パソコン拒絶読み」なんてのはどうでしょう?少し長くて説明っぽくて駄目ですね。パソコンもソフトが間違っていれば(バグ)表示するかも知れません(多分、表示しないと思うけれど)。そこで「バグ読み」、最近のワープロ入力(漢字変換)ソフトは入力の間違いも指摘してくれます。づとずの違いとか、「わかっとるわい」と言いたいところですが、バグ読みも少しは注意してくれます。“バグ読み”人間の知識の無さをコンピューターに転嫁するのが一番無難でしょう。「百姓読み」は止めて「バグ読み」、ソフトのプログラマーが文句を言ってくれば、2000年問題の騒動を持ち出せば、反論しないでしょう。と、機嫌良くワープロっておりましたが、入力ソフトをATOK8からATOK12に入れ替えたら、百姓読み?でも多少は入力出来るようになりました。間違いも指摘してくれます。

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腔の読み 番外 その7 明治の医者
江戸時代、公には医者は漢方で、蘭学を修めた洋方医は幕府に用いられることはありませんでした。安政5年(1858)に将軍家定の病気が悪化して初めて伊東玄朴ら洋方医が奥医師に任ぜられ、蘭方禁止令が解かれました。この頃、蘭方医達が種痘所の設立を願い出て、神田に私設の種痘所が出来、これが文久元年(1861)に幕府直轄の西洋医学所となり、文久3年には単に医学所と改称し、積極的に西洋医学を教育する事となった。慶応3年(1867)10月に大政奉還、12月に王政復古、翌年4月の江戸開城、9月には明治と改元されたが、明治新政府は医学所を引き継ぐとともに、漢方医の医学館を閉鎖して種痘所と改称、医学所に吸収して医学教育は洋方によることを明らかにした。明治2年に医学所は医学校兼大病院、更に大学東校と改称され、洋書で学ぶ年限5年の正則生と、訳書で学ぶ促成の年限3年の変則生の制度が出来たが、明治4年にドイツよりミュルレルとホフマンが医学教師として来日し、変則生を廃止して正則生改め本科生のみとした。明治7年にミュルレルとホフマンが離日し、翌明治8年には別課生の制度を設け、医師の促成を行った。この間、大学東校は単に東校、更に東京医学校、東京大学・東京医科大学と改称され、明治19年に帝国大学・医科大学、明治30年に京都帝国大学が出来て、東京帝国大学医科大学となりました。
明治期に医者になるには以下の方法がありました。
・医学士。明治時代には医科大学を卒業して医者になった者が所謂医学士で、中期までは東大のみ、30年以降に京大、明治末に福岡医科大学がそれに加わりましたが極めて少数で、その多くは、母校或いは全国の医学校、医科専門学校で教鞭を取ることとなります。このうち、更に少数の人(明治35年頃で100人強)が論文を提出して医学博士の称号を得ている。
・ドクトル。明治初年から中期にかけて欧米に留学して医者になった人はドクトルと呼ばれている。極めて少数で、その知識・技量は様々であったらしい。
・大学別科卒業生。是は明治中期に無くなったが東京大学・東京医科大学の別課を卒業した者で、医学士の称号は与えられないが、臨床医の中では重きをなしていた様である。本課と異なるのは、本課生がドイツ語を中心に講義を受けたのに対し、別課は日本語中心の促成授業であった。卒業後更に学問に励み、医学博士になった者も居るとのことである。
・医学得業士。公立、私立の医学専門学校が明治12以降には多数存在し、公立20校、私立25校を数えたという。是も明治20年には整理され、公立は千葉、仙台、岡山、金沢、長崎、その後新潟が文部省の直轄になり、府県立は京都、大阪、名古屋となった。当初、医学士が3人以上教授で教えていると卒業生は無試験で医者になれた。医学士が3人いない私立の専門学校は医術開業試験の予備校化したところも多く、明治末には大半が消滅したが,優秀な教授陣を揃えた順天堂や成医会医学専門学校(現・慈恵医科大学)は今日に至っている。これら専門学校の卒業生を医学得業士と言い、明治後期以後の医師の大半を占めた。
・医術開業試験及第者。明治8年に文部省が医術開業試験の実施を通達し、明治12年から実施したが、この及第者が該当する。このための予備校として最大のものが済世医学舎で、多い時には数百人の学生が在籍していた。これら予備校の教師の多くは東京大学・医科大学の学生で、午前中に大学で聴いた講義を基に夜に予備校で講義していたそうです。ちなみに野口英世も医術開業試験で医者として出発した。この及第者には、医者の書生、代診として医者より見立て・患者の評判が良かった者、予備校通いに明け暮れた者、七科問答のような問題集ばかりを勉強して患者を一度も診ずに及第して途方に暮れた者が含まれる。明治末に廃止された。
・従前医。明治維新以前より医師を業としていた者。多くは漢方医で、明治中期以後急速に減少し、その係累の多くは上記のいずれかの手段で医業を継承する事となった。特例として、明治15年に開業医の子弟でに25歳以上の者に開業免許を与えたが、これ以後急速に漢方は衰えた。
(以上は、小川鼎三著「医学の歴史」、中川恭次郎「現今の療病界の概況」を参考にしました)

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腔の読み 番外 その8 中川恭次郎
中川恭次郎は、腔の読みを決定づけた(と私が思っている)家庭医学読本の編集者ですが、柳田国男の「故郷七十年」には彼のことが数カ所にでています。中川恭次郎は、井上通泰・国男ら兄弟とは義理の又従兄弟に当たる人物です。通泰ら兄弟の祖父は中川至といい松岡家に婿養子で入り、通泰・国男らの父である操が生まれたがまもなく離縁し、その後生野の真継家を継ぎました。しかし、実家の跡取りが急死したため、中川至の弟子が中川を継ぎその息子に当たる人物です。明治20年頃に医者になるために上京したが、文学に熱を入れ、樋口一葉や、島崎藤村を世に出した「文学界」の実質上の編集人を努めた人で、ドイツ語にも堪能であったことから、帝大(当時は東京大学唯1つ)の教授連中にも重宝がられ、ドイツ語の医学書の下訳(訳書のゴーストライター)もかなりやっていた様である。「文学界」は明治20年代後半に一時廃刊になりましたが、中川恭次郎が居宅を編集所として提供してその仕事を引き継ぐ事で再刊されるようになりました。柳田国男は「故郷七十年」に「恭二郎は何でも知っているのに医者の試験だけは通らなかった、変わった男だ」と書いている。ちなみに通泰・国男らの母は、東京に出てきて中川の家に二週間ばかり世話になった時に脳卒中を起こし、三週間後に亡くなっている。

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腔の読み 番外 その9 井上通泰
井上通泰は「家庭衛生叢書」の自己紹介によれば「余は慶応二年十二月二十一日、播磨国姫路元塩町に生まる。父は同藩の儒者松岡操。余は其の第三子なり。明治十年の冬、同国神東郡吉田村の医師井上碩平の養子となれり。同十三年の春東京に上り、同年の冬、東京大学医学部予科に入り、同二十三年の冬帝国大学医科大学を卒業す、爾来医科大学付属病院眼科助手たること二年余、県立姫路病院眼科医長たること又二年余、岡山医学専門学校眼科教授たること凡そ七年余、同三十五年の冬東京に帰り、丸の内、内幸町に於いて私立眼科医院を開く。明治三十七年九月論文を提出して医学博士の学位を受く」とある。家庭衛生叢書を監修した頃は、学位を受けた直後で、井上眼科医院も軌道に乗り、年齢も40歳を過ぎ公私とも充実していた。通泰は幼名を泰蔵、井上家に養子に入った頃から文学に目覚め、上京して東大予科に入学した頃から和歌の道に入り、医科大学を卒業し医学士になった頃には既に国学者、歌人として名をはせていた。父・操は播州・辻川の代々医師の出で、医業のかたわら儒学、漢学、国学にも秀でていたことから、姫路で漢学の私塾の主任教諭に迎えられ、明治初年に辻川に返っている。その子供は通泰を始め兄弟揃ってそれぞれの道で名を挙げている。通泰が井上家に養子に行ったのは、明治になり漢学を学ぶ人も少なくなり、生地の辻川に居を移した操が学者の常として生活の事など余り考えず極めて困窮していたことも一因である様だ。通泰は医科大学卒業後一時郷里に帰り姫路病院で眼科医長を務めた後、岡山医専の教授として赴任、岡山の地で後の歌人としての基盤を確固たるものにしたようである。岡山時代に通泰は、岡山出身で本居宣長門下の高弟として知られ、江戸時代後期の代表的国学者であり、歌人である藤井高尚に興味を抱き、その事跡を丹念に追い明治43年に『藤井高尚伝』を出版している。岡山時代の弟子の一人に正宗白鳥の弟の正宗敦夫がいる。敦夫は兄に代わり地元で家業の小間物屋を継ぎ、その傍ら井上通泰に師事し、在野にありながら後に『万葉集総索引』、『日本古典全集』『蕃山全集』等を編纂して国文学会に多大の貢献をし、昭和二十七(一九五二)年にノートルダム清心女子大学教授に就任している。通泰は吉備史談会会長など岡山で和歌や郷土史、国学等の中心的人物として過ごし、岡山医専教授を辞した後、故郷の播州で井上家を継いで田舎医者になることなく、東京で眼科医院を開業する。これは、既に和歌の道で名を挙げていたことと、大学を卒業する前年に通泰と結婚した井上家の娘マサが出産のために辻川に帰省していた時に身重のまま急死し、卒業後通泰は姫路病院に赴任する直前に再婚して井上家との関係が疎遠になったことも一因であろう。通泰は井上家の血筋が絶えないように井上家の縁者から養子をとり井上家を継がそうと努力したようであるが、駄目だったようである。弟の柳田国男によると「通泰は家のことはなにもかんがえないで、世のなかのことばかりかんがえている。交際がひろく、おおざっぱで国士の風格があった」と書いている。余談ながら、私の曾祖父良治は明治12年に宍粟郡富栖村から辻川とは市川を隔てた対岸の福田に移住し外科と眼科を開業、その長男で祖父の秀之助は岡山医専を明治35年に卒業して外科・眼科医になっているので、祖父秀之助も通泰に眼科を学んだことであろう。
通泰の著作は「南天堂文庫」として姫路市立図書館に蔵されているそうです(未確認)。また福崎町辻川には、柳田國男・松岡家顕彰会記念館(http://web.pref.hyogo.jp/kankou/travel/3/31/travel31b.html)がある。

腔の読み 番外 その10 工業用語の腔

腔の字は月偏の字とされています。月偏には3つあって @は空に浮かぶ月です。Aは体の一部や内臓やその動きを表す“にくづき”。これは、人を二つ重ねた部分を略すと?となり、月と同じ形になります。Bは舟を略した字が月に似る“ふなづき”です。@は天体、気象、明るさ等を表す漢字です。二の右側は縦棒に着けません。Aは最も多くの漢字が有ります。右側は縦棒に着けます。Bは、服が代表で、命令に従う、服するの意です。即ち、船に乗ると流れに任さざるを得ない。従わざるを得ない。中の?は縦にチョン・チョンです。
 いずれの月も機械、器具とは関係ありません。ところが、腔の読みを調べる過程で、機械の構造を説明する用語としての腔に出会いました。それは、銃の弾が通る筒の内部を「腔」と記しています。鉄砲が種子島にもたらされて1年以内に日本の刀鍛冶師は銃を作り上げ、種子島銃として瞬く間に戦国大名や僧兵、一揆衆に広がりました。当時の鍛冶師は銃身をどのようにして作ったのでしょうか?。先ず、長方形の鉄板を作り丸棒に巻きつけて筒を作ります。その外側をリボン状の鉄板を端から巻き、更に逆方向からリボンを重ねて巻き、芯にした丸棒をを抜いて火入れした後、焼き入れ、内部を錐で均等な円状にして完成です。筒の内部は何の構造物も有りません。筒の後部を如何にして封鎖するかが最大の難問で、種子島の鍛冶師は娘を南蛮人に差出しボルトやナット構造のネジの作り方を聞き出したという逸話もあります。弾は球状です。この種子島銃は、以後300年間、火縄が火打ちに変わった位で、殆ど変化しませんでした。
 1842年にフランスのミニエールが弾を先が尖った円錐形にし、底部の外周を薄くして火薬のガス圧で広がり銃身の内面に沿って密着して進み、直進性が向上しました。これにより飛距離と命中精命が伸びました。一方、欧米では銃身の内部に螺旋状の溝を付け(ライフリング)、弾が回転するようにして直進性を高める工夫は火縄銃の時代から有りましたが、日本では知られていません。欧米では、ミニエール弾にライフリングした銃を組み合わせることで、小型で命中精度が飛躍的に伸び、ライフル銃として急速に普及しました。ライフリングの無い従来のゲーベル銃が100メートルで命中率が50%に対しライフル銃は90%、500メートルではげーべる銃が5%に低下するのに対し、ライフル銃は50%と直進性が向上します。幕末から明治維新の動乱期に日本に持ち込まれた銃は大半がこれらライフル銃です。イギリスがクリミア戦争に勝利したのはライフル銃のおかげとの説もあります。アメリカは南北戦争で両軍がライフル銃を使用しましたが、終戦後は大量に余り、日本にどっと入ってきました。第二次長州征伐では、長州は坂本竜馬の斡旋で薩摩から今の貨幣価値で30億以上の金を用立てて貰い、最新のライフル銃を得、幕府軍に圧勝しました。
 このライフル銃の溝は、螺旋と言っても約30センチの長さで1回転位で、6本前後作られるのが普通です。このような構造を作るようになると、その構造物が存在する部位の名称が必要となります。従って銃身の腔の使用は、幕末・明治以降と考えられ、恐らく医学用語からの転用と考えられます。
 ヨーロッパで銃が作られだした頃、銃身は樽状の鉄を溶接して1本の銃身にしました。ですから銃の筒の部分を樽(barrel)と言います。又、錐や錐で開けた細長い穴のことをboreといい、銃身を意味します。底の無い樽を繋ぎ合わせたもの、穴の端が塞がれた物、どちらも銃身です。一方、日本では中空の細長い状態を筒と呼んでいます。その代表が竹製品ですが、笛等の楽器、食器や酒器、更には花入れ等の容器に使用されますが、大半は中空の内部に特殊な構造物は有りません。銃身を意味するのは「捧げ筒」の号令や「響く筒音」等戦場の表現です。
 明治10年、鹿児島の不平士族や私学生は武器弾薬庫を襲い、戊辰戦争時のエンフィールド銃を奪い西郷隆盛を担いで西南戦争を起こした。これに対し新政府側はより最新式のスナイダー銃で対抗し、圧勝する。実は西郷隆盛軍はスナイダー銃の優秀さを知り、鹿児島の武器庫に保管し、更にスナイダー銃用の弾薬製造技術も有していたが、10年1月に新政府はそれらを秘密裏に鹿児島より大阪や横須賀の兵器廠に移送したことも反乱の原因であった。この後、新政府はイギリスより多くの技術者を雇い、スナイダー銃を始め、より優れた銃砲機の製作に取り組むことになった。
 銃砲腔(銃腔・砲腔)弾丸が通過する内部空間。
 腔発(こうはつ)とは、砲弾(榴弾もしくは榴散弾)が砲身内で暴発する事故のことである。 大日本帝国海軍と海上自衛隊では?発(とうはつ)、あるいは?中爆発(とうちゅうばくはつ)や?内爆発(とうないばくはつ)と呼ばれる。「とうないばくはつ」を筒内爆発とする表記は、文字を当用漢字で代用したものである。
 防衛省規格(平成4年制定、20年改正では、火器用語の欄で多くの「腔」の字を有する語句が挙げられ、読みは総て“こう”である。又、関連する英語はboreが8割、barrelが2割である。明治時代に銃器製造関係者や軍内部で「腔」をどう読んでいたかは不明であるが、当時から“こう”と読んでいた可能性が高い。なぜなら東大から遠く、一般社会から途絶し、独自の言語が通用していた世界を形成していたからです。

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