第四章 ダモイ(帰国)

 昭和二十一年秋、北朝鮮の秋は短い。十一月に入るともう冬の支度に追われる。六日に冬服の支給があり、ああ二度目の冬も此処で過ごすのかと落胆の色が濃かった。
 ところが、最近ソ連兵の挨拶の態度がどうもおかしいという者が居た。今までだったら愛想のない挨拶なのに「ヤポンスキートウキョウ・ダモイ」と別れを惜しむような態度だという。前回「トウキョウ・ダモイ」と言ってシベリアに連行した時と少し違うようだ。過去幾度となく帰還説の噂が水泡の如く立っては消えていったが、今度はひょっとしたら本物かも知れないと、北朝鮮の冬空とは対照的に、皆の気持ちはその期待に明るくなって行った。
 しかし第二章で述べたように、当時ソ連本国からの日本人の送還協定は十二月になって発表されており、出先機関がそれ程早く情報を入手出来るとは思われない。唯当時中国東北部(旧満州)よりの引き揚げは既に開始されており、引き続き北朝鮮の在留邦人の引き揚げの配船計画が連絡されていたと推定すれば納得は出来る。要は北朝鮮の我々は中国東北部同様ソ連本国からの送還計画には完全に疎外された員数外の人員だったのである。 さて、これから述べる帰還日程は吉祥寺在住の山本政輔氏の日誌に基づいている。日誌の全文は後程披露するとして、帰還に至る行動に就いて述べる。

 第一節 さらば三合里

 (一) 帰還準備 
 帰還に関する輸送計画が正式に発表されたのは、昭和二十一年十一月十六日であった。出発予定は十二月初旬乃至中旬の見込みと伝えられ、一同俄然沸き返った。次いで、翌十七日舎営司令より輸送の細部計画が説明され、最後の演芸大会が盛大に行われた。 十一月末日までに輸送のための編成替えや、被服の交換、防寒服の支給、服装検査、人員点呼等が随時行われ、結構忙しかったが、帰れるとなれば少しも苦にならなかった。十二月三日には病院にて死亡者の慰霊祭がしめやかに行われ、千二百余名の冥福を祈った。十二月十四日第一大隊出発、十七日第二大隊出発、十八日第三大隊出発、共に行軍して秋乙収容所に至り、当分の間此処で待機仮泊することになった。三合里病院の職員・患者も十八日同様に秋乙収容所に移動した。住み慣れたというには余りにも忌まわしい三合里の地を一刻も早く離れたかった気持ちと、埋葬した戦友達に後ろ髪を引かれる想いとが錯綜したことであろう。秋乙収容所に一同が集結したのは、秋乙収容所に居た三個大隊と合流して六個大隊の輸送編成を組むこと、及び三合里病院並びに秋乙患者収容所の職員・患者の輸送編成を組む必要があったものと考えられる。更に興南に何時入船するかの判断が難しい状況下であったので、判り次第迅速に行動を起こすためにも、秋乙の方が平壌駅に近いからと思われた。平壌から興南までの所要日数は順調にいって三日、悪くすると五日乃至一週間はかかる程輸送状況は悪かった。

 (二)帰還第一陣 
昭和二十一年十二月二十五日第一梯団三個大隊秋乙収容所出発、平壌駅まで行軍し、同駅で乗車したまま一泊する。翌二十六日平壌を出発して二十八日夕刻咸興着、二十九日本宮駅下車本宮日本窒素社宅に入り、最後の入浴、健康診断、被服滅菌等を行い、乗船準備に備えた。三十日ソ軍最後の装具検査があり、予防接種を実施し、立つ鳥跡を濁さずと宿舎周辺の清掃をして、最後の夜となるのだが、誰も寝る者がいない。夜半までかかって弁当を作る。
 十二月三十一日本営より興南東部の収容所に入る。此処でソ軍の壮行会が開かれ、彼我の挨拶が交わされ、ソ軍のブラスバンドに送られて興南港向け出発、夕刻までかかって乗船した。船名は大郁丸という船であった。もう一隻は信洋丸という噂であった。
 第二梯団の輸送状況がはっきりしないのだが、秋乙第五大隊と病院の一部は順調に行ったようで、大郁丸の乗船に間に合った。しかし、残りの二個大隊と三合里病院の人達は平壌の出発が十二月三十日と遅れたため、興南に着いたのは一月六日となり船の出た後であった。結局これらの人々は三月中旬まで待たされ、第二陣の帰還となった。それ故第一陣の帰還者は推定だが、三合里三個大隊、秋乙一個大隊及び病院の一部で、大略四千三百名内外ではないかと思われる。
 (三) 帰還第二陣
 ソ連側は次の配船が容易に来ないことを知っていたのかどうか判らないが、直ちに平壌に戻るよう要求して来た。人員は約三百名で平壌兵器補給廠や南浦(旧鎮南浦)の作業使役だという。ソ連という国は帰国直前までも、ただで人を使う根性に腹がたったが、やむを得ないと納得した。しかし、今度は配船に間に合うように送るからと約束した。
 残余の者は興南収容所(日本窒素社宅)に、三合里病院の患者は興南病院に収容され、次の配船が決まるまで約三カ月間待機させられた。三合里病院の患者は平壌からの輸送中に十三名が死亡しており、何処に埋葬したか明らかでないが、多分興南病院に着いてからその一隅に埋葬したのではと思われる。

 興南病院は咸興にあった第百七十九兵站病院の主力と会寧、羅南の各陸軍病院の残留勤務者を併せて、昭和二十年十一月に興南の日本窒素(株)九龍里病院に、興南収容所の患者受け入れの病院を開設した。続いて昭和二十一年七月、シベリアから逆送者三千名を、古茂山から同じく五千名を受け入れて看護していたが、昭和二十二年二月十九日一部を残して帰国した。
 三合里病院の職員と患者はその後に入ったようである。さて、次の配船は三月中旬と決まったらしく、三月に入ると陸続として興南に集結して来た。噂では北朝鮮における最後の引き揚げ船になるらしいとの事で、在留邦人を含め各地から駆けつけて来ているという。平壌に行っていた使役組も三月六日に戻って来た。
 昭和二十二年三月十九日いよいよ乗船の時が来た。船の名前は大安丸と言う。名前からして縁起がいい。
 よくぞ沈没を免れて生き残った船よと、この老貨物船がいとおしかった。乗船には相当の時間がかかった。我々平壌組は秋乙の二個大隊と三合里病院の主力と各地にいた使役組と、併せても二千五百名にはならないと思われたが、その他の地区の者が多く総勢六千名近くなったようで、乗船に手間どったらしい。だから文字通り立錐の余地もない程の詰め込みようで、座ったままで横にもなれない有り様であった。他にもう一隻あったようだが、明らかでない。
 (四) 興南残留者
 しかし、それでもすべての人が乗船出来た訳ではなかった。三合里病院の重症患者二百余名はナホトカに向かうため残され、阿部軍医少佐、土井同大尉、吉田同中尉、小野同小尉、中野軍医見習士官及び衛生下士官・兵等三十名が引率して行くことになっていた。このような事は殆ど誰も判らず、我々を見送る軍医達の姿が妙に印象として残った。
 この間の経緯を山口県在住の岡本ミヤキ氏(看護婦)は次のように述べている。

《興南病院の勤務に慣れた頃、看護婦全員に呼び出しがあって、会議室のような広い部屋に長机と椅子が並べてあり、何の話かと席に着くと、通訳を通じて次のようなソ連の要望が出された。現在興南病院にいる重症患者をこのまま日本に帰す訳には行かないので、元気になるまで、ナホトカにある病院で治療する。それには看護婦も必要だから同胞を助けるために、ナホトカまで付き添って来て欲しい。ただし、強制的ではなく、自発的に申し出て欲しいと。ここまで聞かされてハラハラしていた時、皆さん眼を閉じるように命ぜられました。そして希望者は手を挙げてくれというのです。この時程ドキドキ胸が高鳴ったことはありません。手を挙げたいとは更々思わないが、もし逆に取られたらどうしようかと思いながら、恐る恐る眼を微かに開いて前列の様子を伺うと、誰も手を挙げていない。あゝ良かった。本当に良かった。一瞬どうなることかと余りにも怖かったので、今でも鮮明に記憶が残っています。
 そうこうしている内に、嬉しい知らせがありました。それは衛生兵の皆様が私選女性の身代わりとなって行く事になりました》《以下略》
 その後、彼らは五月初めナホトカに上陸し、患者は近くの病院に収容され、衛生下士官と兵は間もなく帰還することが出来たようだが、軍医達は残されて近くの収容所で医療業務に就き、十月頃舞鶴に帰還したという。しかし、二百余名の患者の消息を知る手懸かりは杳として知る由もない。

 第二節 想い出は走馬燈の如く

 第一船の出港は翌日午前、第二船は同夜半過ぎだった。見送る者とてなく、万歳の歓呼の声もない。ひっそりと静かに岸壁を離れて行った。船内は小さなざわめきこそあるものの、大声を出している者はなく、誰もが万感の想いを胸に抱いて、今にも爆発しそうな感情を押さえ、じっと耐えている様子であった。
 この人達の頭上に去来したものは果たして何であったろうか。
 毎日夢にまで見た故国がもうすぐ目前にある。幾度か絶望の淵にあって描いた親や妻子の顔が、夢ではなくもうすぐ会うことが出来るのだ。このこみ上げるような喜びを押し殺している感情が別にある。
 僅か一年有半の歳月が十年にも思える日々に、この世の地獄を見、人間の憐れさを知り、衣食絶って初めて人間の尊厳に触れ、礼節の大切さを思い知らされた。しかし、この貴重な体験に支払った対価は余りにも大きい。このために不幸にして亡くなった戦友達、今尚シベリアの地に坤吟する戦友達が彷彿として思い出され、一足先に帰る己の後ろめたさと重なって走馬燈の如く脳裏を駆け巡るのである。
 「うれしうて、やがて哀しき帰国かな」である。
 今此処にシベリア抑留の全道程を克明に日誌に記録し続けた一人の男が居る。先に紹介した吉祥寺在住の山本政輔氏がその人である。彼の言葉によれば幾度か記録した紙片を没収されたが、その都度記録し直して衣服に内蔵して来たため、紙質の劣化、損傷、変色等で判読し難い個所が多く、帰国後解析苦行してようやく便箋四十枚に写し取ることが出来たという。
 それにしても、生死の極限の状態に於いても書き続けた精神力には驚嘆のほかはなく、満腔の敬意を表して拝読したいと存じ、氏の許しを得てその一部を紹介したい。
 その目的はこれによって五十年前の己の辿った道程を思い起こすと共に、その土地、土地で亡くなった戦友達を偲ぶよすがとなればと念ずるからである。 日誌の抜粋は氏が三合里に来る直前からにするが、それ迄の経緯を要約すれば次の通りである。
 昭和二十年十一月二十六日ブラゴベシチェンスク着、同十二月八日リストビヤンカ収容所に入る。作業はバイカル湖冬季結氷期に、船体艤装替え、製材、伐採等の駆体大修理が零下三十度乃至四十度の屋外で行われ、誰もが栄養失調になった。
 昭和二十一年四月二十五日細菌性赤痢にかかり、ウランウデの軍病院に入院した。病気快復した六月半ば頃、国外移送に選ばれ、六月二十二日病院出発、ウランウデ駅からチタ、ハバロフスク経由七月一日ポシェツト着、七月十日同港を発ち夕刻清津港着、同地三日野宿する。同十四日古茂山収容所(幕舎)、同二十七日富寧収容所、八月二十二日富寧発平壌に向かう。

 昭和21年(原文のまま、ただし□は判読不明箇所) 
825日(晴) 朝までこの駅(洪原か)にて約千名二日間滞在した由、□□□□中の一列車を連結し、(咸興までの□□□□)□□□頃出発、終日疾走興南、咸興を一口口過ぎて、夕刻高原着、夕闇迫る頃より□□□□□にて一食分炊飯す、同時に六日分(三十一日まで)糧秣受領、この日列車逆行せる友軍部隊□□□□。  注:この部隊は八月二十三日秋乙から出発した主に警察官や残留していた使役部隊で編成された最後の一大隊であろうと推定される。
 826日(曇後雨) 引き続き同一箇所にて、夜明けと共に二食分□□□炊飯、編上靴その他交換せる者あり(住民と食物交換の意)、一斉に検査実施あり、物々交換及び物品の□□を厳禁せらる。夕方より雨強くなり、夜に入って高原駅発西北方向にて平壌に行進開始す。夜間口□□。
 827日(曇) 深夜某駅にて乗り遅れた者一名、□□直ちに点呼実施、下車に関し一段と注意喚起せらる。昨夜来引き続き走り続け、九時頃陽徳着、炊飯開始するも出発することとなり中止す。夕刻平壌着、二時間待機、夜□□、□□で炊飯開始□回分にて終わり、十二時近くとなる。三十時間目の食事は旨し、寝つくと共に雷□□激し驟雨至るも間もなく晴れる。
 828日(晴) 夜明けと共に炊飯実施、二回分終わる。正午頃ソ連収容所長らしき者の巡視あり間もなく下車出発準備、自動車に分乗し三合里の収容所に日暮れと共に到着。被服員数調、入浴滅菌、所長の注意ありて隔離所二十七号幕舎に入り、十二時頃寝に就く。
 829日(晴) 起床□□、八時頃起き直ちに全員診□、朝食□□□□納、引き続き中隊編成替え実施。
 830日(晴) 被服員数調朝食後実施、第一小隊熊本氏死去。
 831日(晴) 正午頃三十名使役として転出す。夕食後更に□□名同様転出す。
 91日(晴) 本日日曜日につき使役少なし、十四時より演芸大会催さる、夕食まで。
 92日(雨)赤土ぬかるんで処置なし、使役なし。
 93日(曇後晴)食事量少なくして不味し、残飯多量なり。
 94日(晴)給与若干改良さる。
 95日(晴)特記事項なし、午後入浴。
 96日(晴)各大隊全員身体検査、昼間中かかる。
 97日(曇)朝食前、病気別大隊全員集めたり。
 98日(曇)準健康、□□□大隊□□□す。
 99日(雨後曇)夜明け前より雨、正午前にあがる。第一隔離班、第二隔離班は口中隊となり、昼食後、本編成替え行わる。第一、第二隔離班百二十名に特別食上がることになり、副食改善せらる。
 注:保菌者は第一隔離班に、両側の二名宛計四名は疑似者として第二隔離班に入る
 910日(晴)第一隔離班二十名入院す。
 911日(晴)変化なし。
 912日(曇)襦袢、袴下の次数補充あり。
 
913日(晴後曇)毛布追加支給ありて二枚となる。その他変化なし。
 914日(晴)変化なし、夜半瞭雨降る。
 915日(晴)変化なし、昨日死亡者五十名を超過しコレラと覚しき患者続発の噂あり警戒す。本日より。パン食二回となり、昼食には馬鈴薯若干多く上がる。夕食前軍医及び大隊長よりコレラに関する注意あり。
 916日(晴)コレラ益々猖獗極める由、隣幕合(四)の朝日氏も本日死亡せり。昼食後、全大隊挙げて幕舎内収容物一切の日光曝乾実施。
 917日(曇時々雨)コレラ続発、夕食前隊長より再び訓示あり、高野氏夜中より発病遂に夕方隔離せられる。
 918日(曇)風強し、高野氏及び□□氏入院し、十七名となる。
 919日(晴)変化なし、舎内毛布、筵の日光曝干を行う。高野氏死去。
 920日(晴)変化なし。
 921日(晴)十二時から十四時滅菌及び入浴実施、夕食前、コレラ予防注射を行い、幕舎内外の大消毒行われる。
 922日(晴)午後検便実施、蝿捕り成績六位にして煙草の特配なし。
 923日(晴)暑き一日。
 924日(晴)今日も亦暑、夕食前、被服滅菌及び入浴実施。 925日(晴)夜明け前霧深し、変化なし。
 926日(曇)平沢氏保菌者に付き夜入院す。二條曹長以下五名平沢氏の付近に起居せる者隔離せられて残員五名となる。午前ソ連高官(モスクワより来たる)の巡視あり。
 927日(曇)夜明け前僅か降りたるも、間もなく上がる。変化なし。
 928日(晴)午前コレラ予防注射、午後演芸大会、蝿捕り一等の特賞として八大隊全員に飴入り饅頭ニケ宛上がる。
 929日(晴)三時不時点呼あり、その他変化なし。
 930日(晴)昼食前入浴、日夕点呼後虱検査あり。第二隔離入院下番高橋氏一号墓舎(隔離)に入り、三号墓舎給与担当。
 101日(晴)昼食前、煙草の配給あり。
 102日(曇後雨)隔離五人組を見舞う。環境頗る悪しき由。
 103日(曇)終日風強し、夜に入りて風落ちる。
 104日(晴)変化なし。
 105日(晴)昼食後入浴あり。
 106日(晴)日夕点呼後、虱検査あり。
 107日(時)風強し、蝿捕り本日をもって第二次締切、鈴木勤七氏人りて六名となる。
 108日(晴)本日より使役あり、煙草第四回配給あり、風強し。
 109日(晴)本日より薪取り作業復活、第三中隊編成替えありて、七ケ幕舎を一号から四号幕舎に変更、二号幕舎に百崎氏と共に入る。十八名、二重幕舎にして暖かし。夕食前、軍医衛生講演あり。今週の蝿捕り、第八大隊は第二位、朝食前口四五字不明、フアーゼ飲む。
 1010日(晴)昨日配給されたストーブ取付。
 1011日(晴)朝霧深し、昼間野球大会あり、第八大隊は第二大隊と九対一にて敗れる、午後入浴、十九時より演芸大会二十一時半終わる。各大隊の精鋭を網羅し相当の出来なり。
 1012日()今日も亦朝霧深し、午前収容所外にて□□検便、夕食前、第二回検便、八ケ月以内内地帰還説(一行判読不能)。
 1013日(晴)昨夜より口上がり、□□む。変化なし。
 1014日(曇)変化なし。
 1015日(曇)風強く寒し、夕食前、第三回目検便(硝子棒)あり。
 1016日(晴)昼食前、排泄検便あり、夕食前、健康診断(体格検査)あり。
 1017日(晴)夜中降雨ありたるも間もなく上がる。変化なし。
 1018日(晴)午後露医の健康診断あり、その他変化なし。秋晴れの一日。
 1019日(晴後曇)昨日の健康診断の結果に従って、第一、第二隔離班は残り、健康者は移動することとなり、一時柵外に隔離さる。第三中隊四十二名は第六中隊に配属となり、暗くなって兵舎に落ち着く。終日引っ越し作業に費やす。
 1020日(晴)日曜日、昨日より大隊対抗野球始まる。
 1021日(晴)朝食後、我が久保分隊十一名は第二中隊第一小隊第三分隊に編入され、被服員数検査及び着用被服の虱滅菌煮沸実施。夕食後、大隊の演芸大会ありぜんざい上がる。
 1022日(晴)朝食後、身上調査あり、変化なし。
 1023日(晴)午前入浴、滅菌、日夕点呼後、大隊長よりソ連の発表せる我々の内地帰還説に関する説明あり、愈々三乃至四ケ月以内に内地帰還確実となる。
 1024日(晴)今日も亦素晴らしき好晴に恵まる。変化なし。本日より三ケの炊事が普通食、病院食の二つに分かれ、栄養炊事解消す。本日も亦大隊長より日夕点呼後訓示あり(□□□□)
 1025日(晴)壁板に毛布を張り、班内の清潔整頓実施、又本日より我々は第二小隊第一分隊に編成替えとなり、坂井曹長小隊長、叶伍長小隊長付となる。
 1026日(曇後雨)久しぶりに冷雨降る。ストーブを午後燃やして伐採帰りの被服を乾かす。午前舎営本部の被服検査あり、本日より給与豊富となる。
 1027日(晴)好晴なれども寒し、ぜんざい、高梁餅の間食ありて鯖一匹上がり給与豊富なり、午後演芸大会開かる。夜大隊でも開く。
 1028日(晴)今日も亦ぜんざい、団子の給与ありて三食とも豊富なり。
 1029日(曇)明日より帰還編成に改むる由にて、第六大隊解散準備として塩メン鯛茶の配分あり。
 1030日(晴)第一大隊第四中隊第二小隊第四分隊に久保、礪波、山本の三名編入され土岐軍曹の指揮下に入る。
 1031日(曇後雨)午前十時より小雨降りしきる中を□□の建物を後に新兵舎に入る。設備宜しく居心地良好、本日より給与旧に復せるものの如し。
 111日(曇)風強し、午後第四中隊入浴、夕食後、中隊の演芸会あり。
 112日(晴)変化なし、午後炊事、冷凍鰯一トラック入荷す。
 113日(晴)昨日同様暖かき秋日和を迎う。宛も明治の佳節にして且つ日曜日なり。午前餅ニケ上がり、午後昨日と同様蒸しじゃがの間食あり、十五時頃相撲大会行われ、又球場にて野球試合行われる。夕食後、ソ連の映画(スポーツ実写及びベルリン攻略戦)を見物す。
 114日(晴・月)夕食に生鰯上がる。変化なし。
 115日(晴・火)朝食後、舎前広場にて被服検査実施(舎営本部及び中隊)、午後入浴あり、一昨日来入荷遅延せる糧秣トラックにて入る。雑穀多き由にて鰯も入荷、暖かき一日なり。
 116日(晴・水)明日より四日間作業休が続く為、総動員の作業あり、夕食前、更衣袴着用者に冬衣袴の配給あり。
 117日(晴後曇・木)朝食後、靴及び地下足袋の廃品保持者に防寒短靴の配給あり、本日はソ連革命記念日に付き、休業、野球大会あり盛会。
 118日(曇・金)革命記念日、午後第二回相撲大会あり、団体は炊事、個人は厩□□勝す。
 119日(曇後晴・土)今日も亦作業体み、午後十三時より演芸大会第五回公演あり、盛会。夕方より舎営本部対病院の優勝野球大会あり、六回裏八対四にて、日没の為ドロンゲーム。夕食後、第四中隊の演芸大会ありて、分隊長以上総出演。
 1110日(晴・日)今日も亦快晴、午後大隊内中隊対抗野球実施。カルトーシカ余りて夕方トラック四合積み出す。
 1111日(晴・月)被服の熱気滅菌行われ、午後同時に入浴。
 1112日(曇後晴・火)変化なし、夕食後、中隊の演芸大会。襦袢、袴下の交換あり。
 1113日(晴・水)快晴なれども冷たし、洗濯場にツララ下がる。朝食後、疥癬検査行わる。十時頃より第一中隊に於いて副官の□□□運動に関する教育あり。本日より夜間に限りペーチカの使用を認めらる。
 1114日(晴・木)快晴にして暖かし、今日より糧秣不足にしてパンその他代用食上がり、薪取りは人力にて車を引く。廃品衣料襦袢、袴下の交換あり、衛兵は二人立ちとなる。
 1115日(晴・金)変化なし、暖。
 1116日(曇・土)田畑君第一分隊に入りて十名となる。日夕点呼後、中隊長より輸送計画の大要発表あり、愈々十二月三日から十三日の間出発確定し、一同の気分俄然明るくなる。
 1117日(曇・日)(消防衛兵)午前将校集会ありて、舎営司令官より輸送計画の細部説明あり。午後最後の演芸大会盛大に挙行さる。夕暮れ近づくと共に風若干強くなる。
 1118日(晴・月)午前身体検査(疥癬)あり、午後入浴、夕食後、中隊の演芸大会あり、本日糧秣入る。明日より米食となる見込みなり。
 1119日(晴・火)村崎、田畑の二名を残して、土岐班長以下八名第一大隊第三中隊に転属と決定す。主力は第四大隊に転ずる由。午前平壌迄歩行不能者の身体検査あり。
 1120日(晴・水)変化なし。
 1121日(晴・木)北朝鮮に家族を有する者は明日出発と決し、前編成は取消し改めて編成替えの由、夕食後、演芸大会開かる。 1122日(曇・金)正午頃雨降り始め、風寒き一日、変化なし。
 1123日(晴・土)第一、第二中隊は第三大隊第五中隊編入と決まり、九時より兵舎移動、霜強し、渡辺君を加えて十一人となる。午後無為、作業なし。
 1124日(晴・日)新編成によるソ連の人員点検ある予定なりしも中止、終日無為に終わる。
 1125日(晴・月)九時半頃よりソ連の人員点呼及び服装検査あり、二三日前より引続き給与悪し。
 1126日(晴・火)午後秋乙のソ連司令官来たり、昨日と同様人員点呼、服装検査ありて、分列行進を行う。
 1127日(晴・水)極めて寒し、午後大隊の身体検査あり、一時降雨。
 1128日(晴・木)引き続き寒し、午前被服滅菌、午後入浴あれども入らず。今日もソ連の服装検査あり。
 1129日(晴・金)暖、防寒帽、防寒脚絆の支給あり、又携行用新配給さる。
 1130日(曇・土)防寒短靴、大手套、夏袴、襦袢、袴下、塩の配給あり、最後の薪取り、第三大隊は第二梯団にして、六日出発と決す。
 121日(晴.日)水筒覆の分配あり、本日午後及び夜間三□に於いて青空劇団最後の公演あり尚出発は四日に変更さる。衣装優秀にして上出来なり。
 122日(曇・月)飯盆覆の支給あり、六日に出発延期となる。午前中に被服滅菌あり。
 123日(晴・火)午前大隊の被服検査あり、夕方よりドラム缶の入浴あり、午後病院にて死者の慰霊祭あり、千二百四十一柱。
 124日(晴・水)夜中に降雪あり、最後の薪取り。第一、第二大隊ソ連の服装検査あり。
 125日(曇・木)夜明け前又靄、降雪。□□大隊の携行食を振り向けられ、冷食一日分一緒にとる。午後大隊の着装検査あり、終わって大手套、防寒帽の交換あり。
 126日(晴・金)冷たし、十三時よりソ軍の服装検査ありて、演芸大会、□□公演夜間四回あり。
 127日(曇・土)時雨降りて午後晴、冷たし、昨日のソ連所長の話によれば、。船舶の興南に入り次第出発の由なり、夕食後、芸題を換えて演芸大会あり
 128日(曇・日)極めて寒し、使役も少なく終日班内に居る。夕食は明日の分と併せて携行食(芋からあげ)二食分上がる。
 129日(晴・月)昨日と同様変化なし、晴天なれども寒く、給与も不良。
 1210日(晴・火)変化なし、昨日に引き続き本日も演芸なし。、
 1211日(晴・水)第一大隊十三日、第三大隊十六日出発と決定(第四大隊解消、三ケ大隊編成となる)我が中隊は第十七から二十一中隊となる。夕食後最後の演芸大会あり。
 1212日(曇・木)午前中隊の被服滅菌、十五時頃より雪降る。午後第一大隊の軍装検査あり、夕食後、最後の演芸大会。
 1213日(曇・金)第一大隊出発延期、外柵撤収作業あり。
 1214日(晴・土)第一大隊七時出発。
 1215日(晴・日)第二大隊十時出発すれども、午後途中より引き返す。
 1216日(晴・月)第二大隊出発延期、他異常なし。
 1217日(晴・火)第二大隊九時出発す。北側の外柵撤去及び最後の薪取り。
 1218日(晴・水)六時起床、愈々本日出発の日。九時出発、寒風強き中を□□□て行軍す。十五時頃無事到着〔秋乙収容所〕第四中隊の八名と共に十九名□□に入る。土岐班長(車送)夕方着、オンドル設備あり、夕方糧秣受領あり。
 1219日(晴・木)第四中隊のみ都合により、三合里に逆戻りとなり、午後出発す。我々は先着のニケ大隊と共に当分の間、当地に留まるものの如し。
 1220日(晴・金)別に変ることなし。夕方より当収容所の給与となる。
 1221日(晴・土)午前第二回の糧秣受領使役に赴き。ハンをも受領す。午後埋葬使役に行く。八十八社葬られあり、中に仁保村下郷三好包雄(三十三歳・十二月一日死去)の墓あり。夕食後、指揮班長発表の情報によれば北朝鮮よりの第一船四千五百名、第二船九千名及びウラジオより五万名それぞれ敦賀着の由なり。
 1222日(晴・日)本日は若干暖かし。食後入浴あり、ハラショーなり。
 1223日(晴・月)初めて舎外点呼あり、第二大隊二十五日、第三大隊二十六日出発に決定の出発表あり、夕食後口□□。
 1224日(□・火)最後の使役、夕食の(不鮮明につき判読出来ず)。
 1225日(□・水)第二大隊三時頃出発す。十時より装具検査あり(中隊)、十四時より大隊全員□□集合、夕方よりソ連の装具検査。秋乙発二十二時半〔平壌駅〕九号車へ七十五名乗車、構内にて一泊す。
 1226日(曇・木)十時頃発、日中走りて夜に入り停車、割合に暖かし。五名客車に移りて七十名に減る。
 1227日(晴・金)夜明けと共に新成口発、今日も亦暖かし。今日も日中走り夜余り走らず、敷革を交換せる者多し、単価十円、今日も亦寝苦しい。
 1228日(晴・土)高原駅にて夜が明ける。初めて炭火を焚く。正午過ぎ高原発、夕方咸興着日没頃より風強くなる。
 1229日(晴・日)咸興駅最後の夜を明かす。九時頃発、本宮駅着直ちに下車、日窒社宅に行き、入浴場にて健康診断後、入浴、被服滅菌、土井君惜しくも病弱者として入院と決す。入浴場は流石に堂々としたものなり。夕暮れ迫る頃宿舎に入る。舎営の間清水少佐の指揮下に入り、第三大隊畳敷の十二畳に十六名入る。我が分隊の小生以下五名のみ岩清軍曹の指揮下に入る。採暖禁ぜられたるも暖かし。  1230日(晴・月)船二隻入港、更に二隻明日入る予定。八時半整列、ソ軍最後の装具検査あり。終わって土井君入院、第一中隊より五十名宛最後の薪取り、三種混合?予防注射実施、大隊全員をもって宿舎四周の除雪大掃除を行い、日没となる。深夜三十一日の三食分高梁飯上がり、握りとす。
 1231日(晴・火)三時起床、四時半頃興南指して出発す。夜明けて間もなく七時頃興南東部の収容所に入る。我々より先に第二大隊到着しあり、更に旧第八大隊健康番組(秋乙第五大隊)全員集結しありと聞き、斉藤大尉、向坂少尉にも会う。前夜の編成にて六畳一間に入る。十時半頃ソ軍の壮行会に臨み、一時間以上に渡り通訳を通じて彼我挨拶あり、終わって五百名のみ直ちに出発、他は再び室内待機、集合掛かって四時頃出発、約一里徒歩にて埠頭着、順次乗船、七時頃大都丸船上の人となる。親切な日本船員の応対振りが心嬉しい。上段の船倉にて電灯も明るく、便所も清潔、安らかな眠りに入りて、思い出の昭和二十一年を送る。出発より乗船まで最も支障少なく恵まれた大隊なり。

 第三節 上陸地-佐世保

 船脚は遅かった。いや、逸る心で遅く感じたのかもしれない。恐らく七〜八ノットの速度と思われるが、この老朽船にしては精一杯の努力であろう。故国に帰ることが確実なのだから、遅いのは少しも苦にならない。
 第一陣は昭和二十二年正月元旦十時頃興商港を出港し、同月四日日没頃佐世保港外に投錨した。正月の天候は絶好の日和で、波も穏やか、平穏な航海であった。対馬を左舷に見つつ「天気晴朗にして波静かなり」と往事を偲んだと言う。
 第二陣は同年三月十九日夜半興南港を出港し、同月二十二日夕暮れ佐世保湾に停泊した。天候は曇空であったが風もなく、玄海難は波静かであった。生きて再びこの海峡を渡ることが出来るのが不思議に思われた。上陸地が共に佐世保になったのは、博多港が防疫のため一時閉鎖されている故であるとのことであった。
 船内にて夜を明かした翌朝、我々の眼に飛び込んで来た緑滴る故郷の山々の新鮮さを忘れることは出来ない。幾度か夢に見た故郷の山々はやはり我々の期待を裏切ることはなかった。まさに「国政れて山河あり」というところである。
 第一陣の下船は一月七日早朝(八時半)で、何故か船内に三拍させられている。恐らく復員業務が正月休暇で出来ないからであろう。
 第二陣の下船は三月二十三日早朝(八時二十分)で、船内泊は一日であった。
 下船後、小舟に乗換え直ちに佐世保検疫所にて防疫注射、種痘、粉末薬散布等が行われ、頭上から体中真白の姿に驚かされた。当時DDTの何たることも知らず、虱駆除の特効薬だということが後でわかった。終わって約一キロ余の峠道を船着場まで行き、汽船に乗って南風崎の佐世保引揚援護局に着く。此処は旧海兵団の兵舎跡で沢山の兵隊が引き揚げて来ていた。
 復員業務は身上調査書、復員証明書、その他諸調査の記入や交付が行われ、米軍の情報調査も併せて行われた。
 日用品はすべて配給の様子で、購買申込書に記入の上購入するとのことであった。当面ちり紙、洗濯石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉等は支給された。三百円の旅費支給の外、被服一揃い(軍衣袴、夏袴下、冬襦袢、略帽、編上靴、手套、手拭、東北北海道は外套)が交付された。更に乗車券、引揚証明書、外食券、車内食用乾麺、圧搾口糧等の支給や購買があり、結構忙しかったが、一同喜々として行われ、暇を作っては構内の山に登って、やがて別れる友達と名残を惜しんだ。たわわに実った黄色いはっさくが印象的であった。
 第一陣の帰郷列車の南風崎駅発車は一月十五日十九時十分、第二陣は三月三十一日十時(但し一番列車であったかどうかは不明)各自それぞれ未来に満腔の希望と一抹の不安とを抱いて、懐かしの故郷へと向かったのである。

 第四節 死亡者名簿について
 本節では持ち帰った死亡者名簿の入手経緯、及びその内容について述べる。
 帰還第一陣の船に乗り遅れ、次の配船が来るまで興南の日窒社宅で待機させられた者の中に大阪市在住の中川俊二氏が居た。彼は秋乙収容所副官島浦友一中尉から頼まれて死亡者名簿や遺品.遺骨等を預かって居た。島浦氏は南浦(旧鎮南浦)の作業隊長として次の配船が来るまで、使役に行っていたためである。
 第一陣の様子から死亡者名簿や書類は一切没収されるか、もし見つかればその隊全部を乗船させない、という指令が出ているとの噂であった。この死亡者名簿等没収の真相に就いては、古舘司令の次のような証言により明らかになった。
 昭和二十二年一月二日秋乙収容所を出発するに際し、死亡者名簿等はソ軍側の検閲を受け、司令官ストレーチンコ中佐のサインを得て興南まで持参した。その時の総死亡者数は千六百二十余名であったと記憶している。名簿には氏名、留守宅住所、死亡年月日、病名、埋葬番号等を記載したものと、別に内地上陸地にて切手を貼って出すだけにした封書、その中には軍医の死亡診断書二通、所持品の印鑑、紙幣、貯金通帳等及び遺髪、爪を封入し、これらを鉄製将校行李一杯に詰めて携行した。ところが、興南に於いて古舘司令が緑ケ丘病院の収容所長の時、ソ連KGBの捜索を受け名簿を没収されてしまった。将校行李は中川少尉に託していたので、この危機を連絡するのに苦慮し、翌早朝副官有飛中尉を中川少尉の許に派遣して一時の危機を脱したものの、やがてこれも没収されてしまったという。
 かねてからこの事のあるのを予期し、死亡者名簿は正副二部を用意しであったので、一部(平壌病院-秋乙収容所、及び三合里病院-同収容所)は没収を免れたが、これを持ち帰るのが至難の業であった。
 そこで、中川氏を中心に有志の将校達が集まって、何とかして持ち帰る方法はないものかと相談した。しかし、何時船が来るか判らないし、人の眼に触れるのも避けなければならないので、夜中皆が寝静まるのを待って、各自蟻燭の灯を頼りに小さな紙片に筆写することとし、先ず各自の出身県から始め、それが終われば近隣県に拡大することにした。
 名簿は大小二冊あり、小は旧平壌第一陸軍病院から秋乙病院、三合里収容所、秋乙収容所と継続して記載続けたもので、陸軍罫紙の薄い用紙の小冊であった。大は三合里病院専用のもので、ワラ半紙で数量も多いためかなり厚手の冊子であった。
 後で、大胆にも中川氏は小冊の原本をそのまま持ち帰ったが、大冊の方は発見される危険を恐れて宿舎のペーチカの中に放棄した。その結果、各自が筆写したものの内小冊の方は重複したものとなり、大冊の方の筆写は四割に満たない結果となった。先に大冊の方から筆写し始めておれば、或いは全部を持ち帰れたかも知れないと残念でならない。 
(一)原本について

 表8 中川氏が持参した原本内容

  内容区分               死亡者数   名簿整理番号
.旧平壌第一陸軍病院からソ軍管理下の秋  百五十六   一〜一五六
 乙病院での死亡者
.三合里、秋乙両収容所死亡者       百四十八   一五七〜三〇四
.中川少尉整理分              七十六   三〇五〜三八○
     計               三百八十

 (イ)は病院の庶務係石田准尉が調整者となって作成したもので、所属部隊は記載されているものの、何故か病名はすべて書かれていないし、内八名は留守宅人も不明である。これらはすべて秋乙病院で死亡し、構内に埋葬されたと思われるが、病院以外例えば平壌第二陸軍病院等で死亡した者及び終戦直後の死亡者は記載されていない。また看護婦長佐藤ミフ氏外一名の看護婦が発疹チフスで死亡したとのことであるが、記載がない等多少の記載漏れがあるものと推定される。
 (ロ)は秋乙収容所の書記依藤曹長が調整者となり、(イ)の台帳を引き継いで記載したようで、主として秋乙収容所の死亡者であるが、中には三合里収容所と思われる者もあり、多少混乱している。秋乙収容所にあっては秋乙患者収容所で死亡した者(十三名)及び三合里病院が秋乙収容所に移動し、離壌する迄に死亡した者(二十四名)が含まれ、又鎮南浦作業所で死亡した五名も遅れて記載されている。更に三合里収容所(加藤司令)の者と思われる十一名の記載断片がある。
 (ハ)は中川氏が興南に於いて遺品を整理中、死亡者名簿と照合して記載漏れのある者を整理したもので、主として三合里収容所の者(六十三名)であるが、他に平壌から興南に輸送中死亡した三合里病院の十三名が含まれている。
 前記六十三名は記載漏れではなく、初期三合里収容所(古舘司令)時代の死亡者名簿を中川氏は預かってなく、所在不明であった故と考えられる。
 (二) 三合里病院関係死亡者
 手分けして筆写した地区及びメンバーは別表9の通りである。(一)と(二)とを合計すると八百五十九名となる。
 表9 三合里病院死亡者判明数(判明率三八・五%
 都道府県     筆写氏名  筆写数(名)  名簿整理番号(重複を除く)
 兵庫県      氏名不詳  三十七     三八一〜四一七
 大阪府      中川俊二   十六     四一八〜四三三
 富山・石川・福井 山口(中尉)三十三     四三四〜四六六
 京都府      福島茂生   十八     四六七〜四八四
 滋賀県      福島義雄   十七     四八五〜五〇一
 愛媛県      荒木(上等兵)三十一    五〇二〜五三二
 九州全県     斉藤(中尉)百五十四    五三三〜六八六
 茨城・東北六県  山本三郎  百七十三    六七八〜八六〇 
  計             四百七十九  (内七二一は二〇六と重複)
 なお、青森、宮城、福島の各県の死亡者の一部を筆写したものが中川氏の元に提出されているが、氏名不詳の上、前記のものと重複しているので省略した。
 (三)死亡公報について
 以上の情報は復員時、業務の一環として佐世保引揚援護局に提出され、後、厚生省から氏名の確認出来た者を昭和二十三年頃より逐次死亡公報が出された模様である。
 しかし、氏名の一字違いや留守宅の相違等があって、確認出来ない者は未確認情報として保留され、昭和二十八年七月改めて厚生省に提出を命ぜられたが、これ以上の情報も無く、同年末頃までに未帰還者失院宣告となった模様である。
 何分異常な環境下で筆写した関係で、誤字や脱字があり、且つ原本にも記載の誤りがある等不正確な情報となったことはやむを得ないが、多少なりとも亡くなった戦友達のお役にたったことであれば、もって瞑すべきであると考える。
 しかし、持ち帰れなかった八百余名者の消息は、その後どのように処理されたのであろうか。一部は戦友達により、個々の情報を伝達しているので、その人達の死亡は現認されているようであるが、それさえも叶えられなかった大勢の死者が居たことは疑う余地はない。我々もその人々の消息を把握しようと努力したが、プライバシーの壁に阻まれて果たし得なかった。
 遺族にとって到底納得し難いものは、一片の死亡通知で事を済まそうとする当局のやり方にあると思われる。五十年経った今日でも尚、故人がどのようにして北朝鮮まで来なければならなかったのか、北朝鮮で何があったのか、教えて欲しいとの依頼があるのが、何よりの証拠である。

第二編 追悼に行く    ホームページに戻る