ヤマトタケルの命は何故播磨風土記に出てこない?

ヤマトタケルの命は、古事記、日本書紀の英雄です。大帯日子の命(景行天皇)と印南の別嬢との間に生まれ、知略と武勇に優れた皇子として描かれています。播磨風土記では、大帯日子の命(景行天皇)が印南の別嬢への求婚を詳細に述べています。しかるに、播磨風土記ではヤマトタケルについての記述は有りません。当時は妻問い婚ですので、ヤマトタケルの命も幼児期は、印南で過ごしたと考えられます。別嬢の墓(ひれはか)も印南にあり、播磨風土記では、大帯日子の命(景行天皇)が別嬢の死を大変悲しんだことが記載されています。ヤマトタケルの命は、古事記ではスサノオの命と並び、その生涯が詳細に語られています。何故?、播磨風土記では、ヤマトタケルの命についての記述が無いのでしょうか?。歴史学者も文学者も、在野の歴史愛好家も、この疑問には答えてくれません。景行、成務、仲哀、応神、仁徳と続く天皇の系譜で、ヤマトタケルの命と同時代の成務天皇の記述は、播磨風土記には殆ど有りません。ヤマトタケルの命の子である仲哀天皇の記事も殆ど無いが、その妻の神功皇后の記事は多い。応神、仁徳となると、我が庭の如く、狩を楽しみ、種々の地名伝説が記述されている。播磨風土記の著述者は何故、ヤマトタケルの命に関する事跡を残さなかったのだろう?。播磨風土記が書かれたのは、8世紀の初め、書いたのは古事記も日本書紀も熟知している文官。当然ヤマトタケルの命は知っているし、彼が播磨の印南の別嬢と景行天皇との間に生まれた皇子であることも熟知。播磨各地方の郡の文官からはヤマトタケルの命に関する伝承の記述も当然有ったと考えるのが普通です。何故、播磨風土記ではヤマトタケルの命は抹殺されたのでしょうか?。ヒーボーのアバウトな古代史観で、その理由を考えました。

播磨風土記では、伊和の大神、或いは葦原の志許乎の命と天之日矛との戦闘が、揖保郡、神崎郡、宍粟郡で記述されています。伊和の大神、或いは葦原の志許乎の命は宍粟郡・一の宮の地を拠点とし、1世紀から2世紀にかけて揖保、神崎、飾磨へと進出し、2世紀末から3世紀初頭(邪馬台国・卑弥呼の時代)には、飾磨の八丈岩山に宮を建て、倭国・30余国の一つとして君臨していた。しかし、卑弥呼の死後、倭国の主導権は大和朝廷の祖先に移り、大和に近い播磨は服属を余儀なくされた。天之日矛は景行天皇の前の垂仁天皇の時代と古事記には記されているが、実際は3世紀後半、遅くとも280年頃に日本に渡来したと考えられている。天之日矛は大和朝廷の先鋒として、播磨制圧に尽力したが戦力は拮抗、決定打が出ないまま4世紀の垂仁、そして景行天皇の時代に至る。大和朝廷と、伊和との戦いに終止符を打ったのがヤマトタケルの命の奇襲・夜襲戦法。伊和は壊滅状態になり、国譲りに応じざるを得なくなる。その為、造営を許された伊和神社は異例の北向き。天之日矛は播磨の地を許されず出石へ左遷。先年、発掘された一宮町伊和遺跡からは至る所から炭化した柱や生活用品が多量に出土(村上紘揚:播磨人の原像ー伊和族の遺跡を掘るー。播磨学講座1古代ー神は野を駆けてー。姫路獨協大学播磨学研究会編。P60-79, 1991)。深夜に大規模な焼き討ちがあったのでは?

以上の様な状況を考えれば、播磨の西半分を制圧、それも奇襲・夜襲で制圧したとなれば、ヤマトタケルの命の事跡を、播磨風土記に載せるのはためらわれます。播磨は、大和に近く、古事記・日本書紀でも、平和裏に大和朝廷に服属していたと考えがちですが、播磨より近い摂津でも景行天皇は渡し守に、乗船を拒否されています。

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