播磨風土記の原文は漢文(全部漢字)です。播州弁訳の作成に、小学館1997年発行新編日本古典文学全集5 植垣節也校注・訳の「風土記」を主として、その他、岩波書店発行日本古典文学大系「風土記」、岩波文庫武田祐吉編「風土記」、姫路文庫・谷川健一監修・播磨地名研究会編「古代播磨の地名は語る」等を参考にしました。
揖保の郡いひぼのこおり
(龍野市、揖保郡新宮町・太子町・揖保川町・御津町、姫路市勝原区・大津区・網干区・余部区・林田町)
揖保の郡いひぼのこおり。なんで揖保いひぼゆうか、あとでゆうわ。伊刀嶋いとしま。この辺の嶋しま、全部の名前や。品太ほむだの天皇(応神天皇)が、弓を射いるんがうまいもんを飾磨しかまの射目前いめさきに待まち伏ぶせさして狩かりをしたんや。そん時に我馬野あがまのから出てきたメンタの鹿しかがこの阜おかを通とおって、海うみに入って伊刀嶋いとしままで泳およいで行ったんや。そしたら、見てた家来けらいが「鹿しかはもう嶋しまへ行ってしもた」ゆうて、行っとう嶋しまやから伊刀嶋いとしまや。(伊刀嶋は家島群島とされています。飾磨郡の我馬野でも疑問を呈したが、夢前川の河口から家島まで約15キロ。鹿が泳げる距離?。15キロ先の鹿が見分けられるだろうか?。5世紀の播磨灘の海岸線は、今よりもずっと内陸で、夢前河口は当時は海で小島が点在していたのではないだろうか?。2003年10月の神戸新聞に「男鹿嶋から海を泳いで渡ったと考えられる鹿が海岸の岩場で見つかった」との記事がありました。鹿が泳げる距離なのだ。)
香山の里かぐやまのさと。前は鹿来墓かぐはかゆうてたんや。土はあんましよおない。鹿来墓かぐはかゆうんは、伊和いわの大神おおかみがこの辺へんを治おさめた時に、鹿しかが来て山のてっぺんに立ったんや。その山のてっぺんが墓はかみたいやったんで、鹿来墓かぐはかゆうんや。ずーとしてから、道守ちもりゆう人が播磨はりまの役人やくにんの大将たいしょうで来た時に、墓はかではげんが悪わるいゆうて香山かぐやまにしたんや。(新宮町・香山。風土記編纂の時に、地名の由来と縁起の良い2字で表記することが求められました。)
家内谷いえぬちだに。ここんとこは、香山かぐやまの谷たにや。垣かきが廻まわりを取り囲んでるようやろ。そいで、家内谷いえぬちだにゆうんや。(新宮町・家氏いよじ。家氏は香山の麓、揖保川を隔て対岸は宇原、そのすぐ北は伊和の大神と大和の先兵を勤めた天の日矛との死闘があった比地。)
佐々ささの村。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの辺を見回ってた時に、笹ささをくわえた猿さるが出てきたんや。そいで、佐々ささの村ゆうんや。(新宮町上笹、下笹。笹は揖保川の東岸の平坦地。)
阿豆あつの村むら。伊和いわの大神おおかみさんがここへ来た時に、胸むねのへんが、熱あつうて苦くるしいゆうて、着きとった着物きものの紐ひもを引きちぎったんや。そいで、阿豆あつとゆうんや。そやけどちゃうことゆうてるんもあるんよ。そいは、昔、天に二つの星があって、流れ星になって落ちて来て隕石いんせきになったんや。そいで、大衆おおぜい隕石を見に集あつまって来てたいそうなことやったんや。大衆おおぜいが集あつまって来たから、阿豆あつと名づけたんや。(新宮町宮内。揖保川の西岸。新宮町歴史民俗資料館がある。隕石の展示は有るのだろうか?。この地域には天満山古墳や宮内遺跡などがある。)
飯盛山いひもりやま。讃岐さぬきの国・宇達うたつ(香川県丸亀市)におった、イヒヨリヒコゆう神さんとこのおてったいの神さんは、名前を飯盛いひもりの大刀自おおとじとゆう人や。この神さんが四国から度わたって来て、この山に住んだんや。そいで、飯盛山いひもりやまとゆうんや。(新宮町宮内天神山。宮内の天満宮の裏山)
大鳥山おほとりやま。鵝おほとりゆう大きな鷹たかがこの山に栖すんどんや。そいで、大鳥山おほとりやまと名づけたんや。(新宮町宮内大鳥井。西觜崎北方の山(378・)。三角点はあるが今の地図には名前がない。)
栗栖くるすの里。土はまあまあや。栗栖くるすゆうんは、難波なにわの高津たかつの宮みやにいてた品太ほむだの天皇(応神天皇)が、「渋皮しぶかわを剥むいた栗くりを若倭部わかやまとべの連むらじ池子いけこにやれ」ゆうたって。そいで池子いけこはもろおて帰って、この村に殖うゑえたら栗くりの林になったんや。そやから、栗栖くるすと名付けたんや。
この栗くりは、始はじめから渋皮しぶかわが無ないもんから生えたんで、今でもここの栗くりは渋皮しぶかわが無いんや。(新宮町鍛冶屋、千本。日本の製鉄は5世紀以降とか?それまでは朝鮮から輸入した板鉄を加工していたそうな。しかし、弥生時代の開始が500年以上もさかのぼる説が出ている。古代の製鉄、たたらの遺跡は出雲やこの新宮町、北の揖保郡、西の佐用郡等で発掘されている。)金箭川かなやがわ。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこのへんに来た時に、狩かりに使う金箭かなやがこの川に落ちたんや。そんで、金箭かなやと号なづけたんや。(栗栖川。金箭は矢じりのこと。応神天皇の話と言うより、伊和の大神の話とした方がぴったりする。栗栖の里は、伊和大神の鉄製武器製造地。山の斜面と豊富な木炭、川の水を利用して、鍛鉄を行い、武器を作って大和朝廷に対峙していた。)
阿為山あいやま。品太ほむだの天皇(応神天皇)が生きとったった頃に、染料せんりょうに使う紅藍べにあいがこの山に生えてたんや。ほんで、阿為あい山とゆうんや。なんちゅう名前か知らん鳥とりが住んどる。その鳥は正月から四月頃までいてるけど、五月になったらもういーひんわ。形かっこは鳩はとに似にとって、色は紺こんや。(新宮町相坂峠)。
越部こしべの里さと。昔は皇子代みこしろの里ゆうとった。土はまあまあや。皇子代みこしろとゆうてたわけは、安閑あんかん天皇の頃に、天皇さんがえこひいきしてた、但馬たじまの君きみ小津をつが、皇子代みこしろの君きみとゆう姓なと土地を貰もろおて、その土地で取れた米を入れる三宅みやけゆう米倉こめぐらをこの村に造ったんや。そんで、皇子代みこしろの村とゆうんや。後になって、上野かみつけのの大夫まえつぎみがこの辺の役人になって来た時に、この三宅の三十軒をまとめて、越部こしべの里と号なづけたんや。そやけど、ちゃうことをゆう人もおってんや。それは但馬たじまの国の三宅みやけより越こして来たから、そいで、越部こしべの村とゆうようになったんや、ゆうてる。(新宮町旧越部村、現中野庄、中野田、。安閑天皇には子供が無くて、本来なら皇子にやる三宅を好きやった但馬の君小津に皇子の代わりに与えたと言うのが地名の謂われ。)
鷁住山さぎすみやま。鷁住さぎすみとゆうわけは、昔、鷁サギがぎょうさんこの山におったからや。そいで、それが名前になったんや。(新宮町柴田山。私が子供の頃は、播磨平野のあちこちに、五位鷺、白鷺。その餌になったドジョウ、タニシも水田、小川にうじゃうじゃ。)
擱坐山たなくらやま。なんでたなくらゆうーかゆうたら、山の石が棚たなに似にとおからや。(新宮町馬立祇園嶽。ここにも馬立古墳群、恐らく伊和一族の古墳でしょう。)
御橋山みはしやま。大汝おおなむちの命みことさんが俵たわらを積つんで天てんに昇のぼる橋はしを立てようとした、とゆわれとお。山の石の格好かっこおが橋はしに似とおからや。そいで、御橋山みはしやまゆうんや。(新宮町觜崎・屏風岩。大汝の命は、御存知大国主の命、ここは山と言うより揖保川の西岸の平地、揖保川の洪水で流された巨石か?あるいは元からあった石なのか?。それとも平野に造った古墳の石室が洪水であらわれたか?。)
狭野さのの村。別わけの君きみ玉手たまて等らの先祖せんぞは、前は川内かふちの国の泉いずみにおったんや。そこのとこががい悪わるいゆうて、ここんとこにきたんや。そいでゆうたんは「ここは狭せまいけど、まえのとこよりええわ」。そんで、狭野さのとゆうんや。(新宮町佐野。)
上岡かむおかの里。前は林田はやしだの里ゆうとった。土はまあまあや。出雲いずもの国に居おったった阿菩あぼの大神おおかみが、大倭おおやまとの国の畝火うねび・香山かぐやま・耳梨みみなしの三人の神さんがケンカしてるゆうのんを聞いて、ケンカを止めに行こおゆうて、出雲いづもから出て来たんやけど、ここまで来たら、もお3人の神さんが仲直なかなおりしたゆうのんを聞きいて、ワイの役はすんだゆうてそのまま死んでしもうたんや。そいで乗のってきた船ふねを覆くつがえへしてお墓はかにしたんや。そいで、神かむの阜おかとゆうんや。阜おかの形が船をひっくり返したんに似とるやろ。(龍野市神岡町。揖保川東岸の丘陵地。この一文は、神話時代の出雲、播磨、大和を考える上で非常に重要。1,出雲の大神は、大和の神の争いを裁くだけの力を持っていた?。2,出雲から日本海沿いに船で但馬に渡り、山越えをして揖保川水系を船に乗り瀬戸内海に出る?。3揖保の郡は伊和大神の支配地。其処を自由に通行できる出雲の大神は伊和の大神の親戚、あるいは伊和の大神は出雲の大神の部下。)
菅生山すがおやま。菅すげが山生えとおから菅生すがおとゆう。ちゃうことゆう人もおってな、品太ほむだの天皇(応神天皇)が、この辺に来た時に、この岡おかで井戸いどを掘ほったら、水が清きようて冷つめたかったんや。そしたら天皇さんが「水が澄すんで冷つめとおて、気持きもちまで、すがすがしい」といいはったんや。そんで宗我富すがふとゆう。(新宮町曽我井。揖保川の東岸、少し南に天然記念物の嘴崎屏風岩がそびえている。)
殿岡とのおか、えらい人が住すむ殿とのをこの岡に作ったから殿岡とのおかや。岡に柏かしわが生えてる。(龍野市神岡町寄井字殿岡山。)
日下部くさかべの里。ここに住んでた人の姓せいを地名にしたんや。土はまあまあや。(揖保川以西・揖西町小神までの範囲。)
立野たちの。立野たちのゆうようになったんは、昔、土師はじの弩美のみの宿祢すくねが出雲いづもの国より大和やまとの国に召めされて行き、帰りしに日下部野くさかべのに宿やどを取とって泊とまったんやけど、そこで病気びょうきになって死んだんや。そしたら、出雲いづもの国から大勢おおぜいの人がやってきて、一列に並ならんで立って、バケツリレーみたいにして川の石を高台たかだいに運んで、墓はかを作ったんや。大勢おおぜいが並ならんで立ったんで立野たちのとゆうんや。そんで、その墓はかは出雲いづもの墓屋はかやとゆうんや。(龍野市龍野。弩美のみの宿祢すくねは、当麻たいまの蹴速けはやと相撲をとって勝った野見の宿祢のこと。)
林田はやしだの里。本の名は淡奈志たなしめやったんや。土はまあまあや。淡奈志たなしめとゆうわけは、伊和いわの大神おおかみがここを支配しはいした時に、神さんが自分で記念きねんの木を植うえたら楡にれの樹きが生はえたんや。そいで神さんの手(たな)の印(しめ)ゆう意味で、淡奈志たなしめとゆうんや。(姫路市林田町。「たな」は手のこと。「しめ」はしるしのこと。神さんが自分の手「たな」で「しめ」を植えたから「たなしめ」。)
松尾まつおの阜おか。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの辺へんを廻まわっていた時に、ここで日が暮くれてもた。そいでこの阜おかの松まつを取とってかがり火としたんや。そんで松尾まつおと名づけたんや。(林田町奥佐見字松の本。応神天皇が巡幸中に松明を立てた処。)
塩阜しほおか。惟この阜おかの南みなみに塩辛しおからい池いけがあるんや。縦横たてよこ10メートルくらいや。池いけの底そこは小石が多おおうて、ふちは草くさだらけや。海うみから10キロ以上離はなれとんのに海の水と通つうじとって、満潮時まんちょうじには深ふかさが10センチ位になる。牛うし・馬うま・鹿しか等などが好このんで飲のみに来る。そいで塩阜しほおかとゆうんや。(林田城跡。中世には窪山城、江戸時代には林田藩の陣屋。塩分を含んだ鉱泉が湧き出る。ここから10キロ程東北の夢前町塩田温泉には塩分を含んだ炭酸冷泉が有名。)
伊勢野いせの。伊勢野いせのと名づけたんは、このあたりに家いえを建たてて住すもおとするたんびに悪わるいことが起おこって住すまれへんかった。そいで衣縫きぬぬいの猪手いて・漢人力良あやひととら等らの先祖せんぞがここに住すもうゆうて、神社じんじゃを山本やまふもとに建たてて、山の峯みねに居おったった伊和いわの大神おおかみの子供の、伊勢都比古いせつひこの命みこと・伊勢都比売いせつひめの命みことをこの神社に祭まったんや。そしたら悪わるいことが起おこらんようなって大勢おおぜいが住すむようになり、ついに里さとになることが出来たんや。そいで伊勢いせと号なづけたんや。(大津茂川流域の林田町大堤・上伊勢・下伊勢。伊勢神社は県道413号と519号の交差点にある。伊和の大神の子供を祭った神社は中播、西播に多い。)
伊勢川いせがわ。さっきゆうた山の神さんの名を取って伊勢川いせがわや。(大津茂川)
稲種山いなだねやま。大汝おおなむちの命みこと・小日子根すくなひこねの命みことの二人の神さんが、神前かんざきの郡こおり埴岡はにおかの里・生野いくのの峯みねに登のぼって、この山を眺ながめて、「あの山は、稲種いなだねを置おいたらええ」とゆうたった。そんで稲種いなだねを持もって行かせて、この山に積つんだ。山の形も稲種いなだねに似てる。そいで稲種いなだね山とゆふ。(姫路市伊勢・打越にある峰相山。地元ではトンガリ山。平安初期に鶏足寺が山上に建立され、中世には播磨を中心とした仏教説話集「峰相記」がこの寺の僧により編纂されている。山麓には多くの古代の窯跡が発見されている。)
邑智おおちの駅家うまや(古代の駅)。土はふつうや。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの辺を廻まわって歩いた時に、ここに来て、ゆうたったんには、「わいは狭せまいとこやと思おもとったけど、来てみたら広ひろおて大内おおうちやなあ」と、そやから大内おおうちと号なづけた。(姫路市太市。JR姫新線太市駅の南西600メートル県道5号線沿いの馬屋田が古代の駅。)
氷山ひやま。惟この山の東に湧わき水がある。応神天皇がその井の水を汲くんで飲んだら氷水みたいやった。そいで氷山ひやまと号なづけたんや。(姫路市太市中村字旗ノ山?。)
欟折山つきおれやま。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの山で狩かりをした時に欟弓つきゆみで走る猪いのししを射いったらその弓が折おれたんや。そいで欟折山つきおれやまゆうんや。(太市西脇字槻坂)
この山の南に石の穴あながある。穴の中に蒲かまが生えとお。そんで蒲阜かまおかと号なづけた。今はもう生えとーへん。(姫路市西脇丸山字宮カ谷大磐の社。)
広山ひろやまの里。古い名は、握つかの村や。土はまあええほうや。都可つかゆうてたんは、石比売いはひめの命みこと、泉いづみの里の波多為はたいの社もりに立って矢やを射いったら、ここまで届とどいて、矢の大部分が土の中に埋うまって、柄つかのとこだけが地面に出てたんや。そやから都可つかの村とゆうてた。その後、吉備きびの国の石川いしかわの王おうがこの辺の役人で来た時に、名前を改めて広山ひろやまの里としたんや。(龍野市誉田町広山。神さんが矢の届く処と矢の状態で占いをした。握つかは握り拳で長さの単位。役10センチ。)
麻打山あさうちやま。昔、但馬たじまの国の人で伊頭志いづしの君きみ麻良比まらひが、この山に家を建たてて住んどった。そんとこの二人の女の人が、夜に麻あさを打ってたら、二人とも麻あさを胸むねに置おいて死しんどったんや。そいで麻打山あさうちやまとゆう。今でも、この辺へんに住すんどお者もんは、夜には麻あさを打たへん。土地の人は、「但馬たじまの国やのーて讃伎さぬきの国や」ともゆうてる。(太子町阿曽。)
意此川おしがわ。品太ほむだの天皇(応神天皇)の頃に、出雲いづもの御蔭みかげの大神おおかみ、枚方ひらかたの里の神尾山かみおやまに居おったって、いっつも旅人たびびとをとおせんぼをし、半数はんすうの人を殺ころし、半数の人は通とおした。その時、伯耆ほうきの人で小保弖をほてと因幡いなばの布久漏ふくろと出雲いづもの都伎也つきやの三人が心配しんぱいして、大和朝庭やまとちょうていにどないかしてと頼たのんだんや。そしたら朝廷ちょうていは額田部ぬかたべの連むらじ久等々くととを派遣はけんしたんや。久等々くととは、神さんの家を屋形田やかただに作り、酒屋さかやを佐々山ささやまに作って神さんを祭まつり始はじめたんや。宴えんたけなわとなって皆みんなが騒さわいで神さんが油断ゆだんした隙すきに櫟山いちいやまの柏かしわを帯おびにかけ腰こしに差さして、この川を下くだって神さんをいっきに押おしつぶしたんや。そんで、圧川おしかわとゆうんや。(林田川、旧名安志川。往来を妨害する荒ブル神の話。揖保川と並び林田川は山陰から瀬戸内に出る交通の要路。神尾山は林田川東岸の岡か?。佐々山は龍野市誉田町内山の笹山か?)
枚方ひらかたの里。土はまあええわ。枚方ひらかたと号なづけたんは、河内かわちの国、茨田まむたの君きみ枚方ひらかたの里の漢人あやひとが来て、始はじめてこの村に住みついたんや。そんで枚方ひらかたの里とゆうんや。(太子町平方。)
佐比岡さひおか。佐比さひゆうんは出雲いづもの大神おおかみが神尾山かみをやまに居おったったんや。この神さんは、出雲いづもの人がここを通とおろおとしたら、十人中五人を留とめ、五人中三人を留とめて殺ころしたんや。そんで、出雲いづもの国の人等は、佐比さひゆう草刈り鍬を作ってこの岡の神さんにお供えをして祭ったんや。そやけど、神さんは「そんなお供え・いらへん」ゆうて、よけい怒ったんや。なんでかゆうたら、この神さんは夫婦で、亭主の神さんが先に来とって、奥さんの神さんが後から来たんやけど、この男神さんが家出をしてしもおたんや。そいで、女神はヒステリー起こしてたんや。だいぶんして、河内かわちの国、茨田まむたの郡こおり枚方の里の漢人あやひとがここに来て、この山辺に住んで毎日神さんを敬び祭ったんで、女神さんも段々ヒステリーを起こさんようになったんや。この神さんが居てたんで、名を神尾山とゆうんや。又、佐比を作って祭った処を佐比岡と名付けたんや。(太子町佐用岡。女神がいてた神尾山は、前山もしくは坊主山。)
佐岡さおか。佐岡さおかと号なづけたんは、難波なにわの高津たかつの宮みやの天皇(仁徳天皇)の時に、筑紫つくしの田部たべをここに呼んで、この地を開墾かいこんさした時に、毎年五月さつきに田部たべをこの岡に集あつめて、慰労いろうの酒盛さかもりをしたんや。五月さつきに酒盛さかもりをした岡やから佐岡さおかとゆうんや。(佐岡は、前述の神尾山。)
大見山おおみやま。大見おおみとゆうわけは、品太ほむだの天皇(応神天皇)、この山のてっぺんに登りて、四方を大きく見回したんで、大見おおみとゆうんや。天皇さんが立った処に大きな盤石いわがある。高さ三尺(約1メートル)位、長さ三丈(約9メートル)、広さ二丈(約6メートル)の石や。その石の面に、あっちこっち窪くぼんだ跡あとがある。これをを名づけて天皇さんの靴跡くつあとや杖つえで突ついたとことゆうてる。(姫路市と太田町にまたがる檀特山。風土記の頃は、頂上の磐の窪みは応神天皇の靴跡。中世になると聖徳太子の靴跡。)
三前山みさきやま。この山の前まえに突つき出たとこが三つある。そいで三前山みさきやまとゆう。(太子町前山。檀特山の北約1キロの地点。山というより丘陵。太子東中学校、環境センターがある。)
御立阜みたちおか。品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの岡に立って周囲しゅういを見立みたてたから御立岡みたちおかや。(太子町立岡山。現在は山陽新幹線がこの山をぶち抜いて(約300メートルのトンネル)通っている。)
大家おおやけの里。古い名は大宮おおみやの里や。土はまあええほうや。品太ほむだの天皇がこの辺を廻まわって来た時に、自分が休む宮をこの村に営つくったんや。そんで大宮おおみやゆうんや。ずっと後になって、田中たなかの大夫まえつぎみが役人になって来た時に、大宅おおやけの里と変えたんや。(姫路市勝原区と大津区。)
大法山おおのりやま。今の名は、勝部すぐりべの岡や。品太ほむだの天皇、この山で大事だいじな法のり(規則)をゆうたったんや。そいで、大法山おおのりやまとゆうんや。今、勝部すぐりべとゆうんは、小治田をはりだの河原かはらの天皇(斉明天皇)の時に、大倭おおやまとの千代ちしろの勝部すぐりべ等らに行かせて、田をつくらして、この山の辺に住むようにしたんや。そいで、勝部すぐりべの岡と号なづけたんや。(姫路市勝原区朝日谷の朝日山。治田をはりだの河原の天皇は斉明天皇。)
上かみの筥岡はこおか・下しもの筥岡はこおか・魚戸津なべつ・朸出あふこだ。宇治うじの天皇(莵道うじの稚郎子きいらつめの皇子みこ)の頃に、宇治うじの連むらじ等の先祖せんぞの兄太加奈志えたかなし・弟太加奈志おとたかなしの二人が大田おほたの村の与富等よふとの地をもろおて、田を作って田植たうえをしょうゆうて来た時に、召使めしつかいが朸あふこゆうてた天秤棒てんびんぼうにくいもんを入れた箱はこや鍋なべやか担かついで来たんや。そやけど、朸あふこが折おれて担かついどった荷にがじゅるい田圃たんぼに全部ぜんぶ落おちゃだけてもうて、そいで鍋なべが落おちたとこを魚戸津なべつとゆうて、朸あふこの前の筥はこが落ちたとこを上かみの筥岡はこおかとゆうて、後の筥はこが落ちたとこを下しもの筥岡はこおかとゆうて、折おれた朸あふこが落ちたとこを朸出あふこだとゆうんや。(姫路市大津区西土井字小山、姫路市勝原区熊見字箱山、姫路市大津区天満県立南高校の南西、熊見字市ノ坪もしくは大津区西土井字堀町。この辺は、弥生時代にはまだ海。それが徐々に海面が低下し(弥生海退)、7世紀の頃には完全に陸地。とはいえ、揖保川の川口の泥地。ぬかるみ。じゅるい。転びやすい。まして天秤棒で重い荷物を担ぐと、こけて天秤棒も折れるでしょう。納得)
大田おほたの里。土はまあええわ。大田おほたとゆうんは、昔、呉くれの勝すぐりが韓国からくにより来たんや。最初に紀伊きいの国の名草なくさの郡こおり太田おおたに住んだんやけど、その後一緒に来た人と別れて、ほかへ行くゆうて、摂津せっつの国・三嶋賀美みしまかみの郡こおり大田おほたの村に移ったんや。そやけど又、引っ越すゆうて揖保いひぼの郡こおりのここの村に来たんや。そいで本の紀伊きいの国・大田おほたの名を付けたんや。(太子町太田、姫路市下太田。)
言挙阜ことあげおか。なんで言挙阜ことあげおかゆうかは、大帯日売おおたらしひめの命(神功皇后)が韓国からくにへ戦争せんそうしに行った時に、この阜おかで兵隊へいたいを集あつめて、「この戦争中はごちゃ・せんと、いらんことゆう言挙ことあげをしたらあかん」とゆうたったんや。そんで、言挙前ことあげさきとゆうんや。(太子町太田の天神山か黒岡山。)
鼓山つづみやま。昔、額田部ぬかたべの連むらじ伊勢いせと、神人みわひと腹太文はらたもがケンカした時に、どっちも鼓つづみを打ち鳴しながら ケンカしたんや。そいで鼓山つづみやまとゆふ。山の谷に檀まゆみが生ふ。(太子町原の鼓カ原もしくは黒岡神社一帯。)
石海いわみの里。土はこれ、ごっつうええ。なんで石海いわみゆうかゆうたら、難波なにわの長柄ながらの豊前とよさきの天皇(孝徳天皇)の頃に、この里の中に、百便ももだるの野のがあって、百枝ももえだの稲いねが生えた。そいで安曇あずみの連むらじ百足ももたりがはしこうにその稲いねを取って、朝廷ちょうていにあげたんや。そしたら天皇がゆうてんのには、「この野のを耕たがやして田を作れ」と命じたんや。すぐに安曇あずみの連むらじ太牟たむにわれ行け、ゆうたったって、石海いはみの人夫をつれて耕たがやさしたんや。そいでこの野を名づけて百便ももだるといい、村を石海いわみと号なづけたんや。(太子町南部、姫路市網干区・余部区、御津町、姫路市網干区坂出。揖保川と林田川の合流地点と大津茂川の間の南部の河口地域。弥生時代初期には海で、弥生海退により徐々に陸地となり、6世紀以降には上流からの栄養豊富な土により、実りの良い稲が取れる土地になったのだろう。土地の評価は上の中で、是はもう最高。ちなみに、播磨風土記の中、土地の評価は76里で上の上は無し。上の中は揖保郡2と讃容郡3の・計5カ所。上の下は2カ所。中の上は21カ所。中の中は25カ所。中の下は8カ所。下の上は8カ所。下の中は4カ所。下の下は2カ所です。良い評価を付けると、その分租税が多くなるので、控えめにしている。)
酒井野さかいの。酒井さかいゆうわけは品太ほむだの天皇(応神天皇)の頃に宮みやを大宅おおやけの里に造り、酒さけを作るための井戸をこの野に掘って、酒殿さかどのを造つくったんや。そいで、酒井野さかいのとゆうんや。(姫路市網干区坂出。昭和24年に今の朝日中学校敷地で弥生時代の遺跡が出ている。)
宇須伎津うすきつ。宇須伎うすきと号なづけたんは、大帯日売おおたらしひめの命みこと(神功皇后)が韓国からくにを攻めようゆうて行った船が宇頭川うずがわの泊とまりにとまっとった。この泊とまりから伊都いつに海を渡わたって行こお思おもてたら、向かい風がふいて進すすまれんで、しゃーないから船を陸りくに揚あげて引っぱろー、としたんやけど、御船は船越ふなこしゆうとこを超えてから、そっからなかなか進すすまれへんのや。そいで百姓を集めて御船を引かしたんや。そしたら引っぱっとった人が入江いりえにまくれて、それを見とったその人の母親らしい人が助たすけようとして入江いりえに飛とび込こんだんやけど、すぐに姿すがたが水みずん中に失うせてしもおて、そいで宇須伎うすきとゆーようになったんや。そやけど今は伊波須久いはすくゆうてる。(姫路市網干区津市場、揖保川下流御津町中島権現山麓。姫路市の南西・網干区津市場、余部区から南は、当時は林田川と揖保川の河口で船着き場。神功皇后はここから御津町の岩見港まで行こうとしたが向風が荒く、浅瀬を大勢に引っ張らして揖保川を渡って御津町の中島へ行こうとした。船を陸にあげて引っ張るのは当時では普通のこと。)
宇頭川うずがわ。宇頭川うずがわとゆうんは、宇須伎津うすきつの西の方に、渦うず巻まいてる瀬せがあって、そいで宇頭川うずがわとゆう。すなはちここは、大帝日売おおたらしひめの命みことが御船みふねを宿とめた泊とまりや。(姫路市網干区津市場。林田川と揖保川の合流地点で、至る所渦巻いている。)
伊都村いつむら。伊都いつとゆうんは、神功皇后の御船の船頭がゆうには、「何時いつかこの村むらに住すみたいなあ」とゆうたんや。そいで、伊都いつとゆう。(御津町伊津、岩見港。土地誉めと言い、向かい風で行きにくい土地を船頭が誉めることにより、船が進みやすくするまじない。)
雀嶋すずめしま。雀嶋すずめしまとゆうわけは、雀すずめがよおけこの嶋しまに居てるからや。そいで雀嶋すずめしまとゆう。草も木も生えてーへん。(御津町四十四島)
浦上うらがみの里。土はごっつうええ。なんで浦上うらがみゆうかゆうたら、昔、安曇あづみの連むらじ百足ももたり等が、その前に難波なにわの浦上うらがみに住んどって、後にここに引越ひっこしてきたんや。そいで前におったとこを名にしたんや。(揖保川町浦部室津港)
御津みつ。息長滞日売おきながたらしひめの命みこと(神功皇后)の御船みふねがこの港みなとに停泊ていはくしたんや。偉えらい人が乗っとる船が泊まった港やから御津みつと号なづけたんや。(石見港御津町室津)
室原むろふの泊とまり。室むろとゆうんは、この泊とまり、風かぜを防ふせぐんが室むろみたいや。そんでそれを名前にしたんや。(御津町大浦)
白貝おふの浦うら。昔、大きな白い貝かいが採とれたんや。そんで、それを名前にしたんや。(御津町大浦)
家嶋いへじま。人民おほみたからが家を作って住んどお。そいで、家嶋いへじまとゆうんや。竹・黒葛くろかずら等が生はえとお。(家島)
神嶋かみしま。伊刀嶋いとしまの東ひがしや。神嶋かみしまとゆうわけは、この嶋しまの西の辺に、石で作った石神いしがみが居いてるねん。その形は仏さんに似た神さんや。そいで神さんが居てるから神嶋かみしまや。この神さんの顔に、五色の玉たまがあって、また、胸むねに涙なみだが流ながれた跡あともあって、これも五色になってる。この石神いしがみさんが泣いたんは、品太ほむだの天皇(応神天皇)の頃に、新羅しらぎからの客きゃくが日本に来たんや。その時にこの神さんがごぉっうやつしとんを見て、これは珍めづらしい玉と思おて、その顔かおの五色の玉を取とろおとして顔を掘ほったんや。神さんは目玉を掘られて、そいで泣いて、ごぉっうごうわかして暴風ぼうふうを起こして、客の船を打ち破やぶったんや。その船は高嶋たかしまの南の浜に漂ただよって没しずんで、乗のっとった人はみんな死んだんや。そいでその浜に死人を埋めたんや。そやから、その浜を韓浜からはまとゆうんや。今でも、其処そこを通とおり過ぎる人は、神さんを怒らさんように気ぃ付けて、韓人からひとと言わず盲の事に拘かかわらんようにしてる。(上島)
韓荷からにの嶋しま。韓人からひとの難破船なんぱせんと漂ただよへる物と、この嶋しまに流ながれ着ついて。そいで、韓荷からにの嶋しまと号なづけた。(沖・中・地韓荷島)
高嶋たかしま。高たかさがこの辺の嶋しまで一番高い。そいで高嶋たかしまとゆうんや。(西島)
萩原はぎわらの里。土はまあまあや。右、萩原はぎわらと号なづけたんは、息長帯日売おきながたらしひめの命みこと(神功皇后)が韓国からくにより帰かえって来たときに、乗ってきた御船みふねがこの村に停泊ていはくしたんや。その時、一夜の問に、萩はりが生はえたんや。高さ一丈くらいや。そいで萩原はぎわらと号なづけたんや。そんでそばに井戸を掘ほったらきれいな水が出て、そやからはりの井で、針間井はりまいとゆうんや。その井戸の処ところはたんぼにはしてーへん。また、酒壺さかつぼの水もあふれて井戸になったんで韓清水からしみずと号なづけた。その水は朝あさに汲くんでも朝あさに使わんとおいといて後で使う。そえから、酒殿さかどのも造つくった。そいで酒田さかたとゆう。そやけど酒舟さかぶねが傾かたむいて酒が流ながれて乾かわいてもた。そいで傾田かたぶきたとゆうんや。米こめを搗つく春米女つきめ等の陰あそこを皇后の家来けらいが乱暴らんぼうして怪我けがさしたんで、そいで、陰絶田ほとたちだとゆう。この辺は萩はぎがよおけ生はえとる。そんで、萩原はぎわらとゆう。ここに祭ってる神さんは、少足すくなたらしの命みことや。(龍野市揖保町東部・誉田町南西部、揖保郡揖保川町市場の北部。今の海岸線より5〜6キロ北方。河口なので萩も良く生える。酒田、傾田は誉田町片吹。陰絶田は褒められた話ではないので、地名も消えたか?、残っていない。)
鈴喫岡すずくいおか。鈴喫すずくいと号なづけたんは、品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの岡おかに田かり(狩り)しに来たときに、鷹たかの鈴すずが落おちて、捜さがしたけどあらへんで、そいで鈴喫岡すずくいおかと号なづけたんや。(片吹の岩岡?)
少宅おやけの里。本もとの名は、漢部あやべの里や。土はあかんわあ。漢部あやべゆうたんは、漢人あやひとがこの村に居いたからや。後あとになって少宅おやけとゆうようになったんは、川原かわはらの若狭わかさ祖父おおじが少宅おやけの秦公はたきみの女むすめと結婚けっこんして、住んだその家を少宅おやけと号なづけたからや。更さらに後の世に、若狭わかさの孫智麻呂まごちまろが、ここを任まかされて里長さとおさと為なって。これに由よって、庚寅つちのえとらの年(690年)に、少宅おやけの里となったんや。(龍野町小宅。)
細螺川しただみがわ。細螺川しただみがわとゆうんは、百姓が田んぼにするために溝みぞを作つくったら、細螺しただみがよおけこの溝みぞにおったんや。溝みぞは段々だんだん広ひろおなって最後さいごは川になってしもた。そいで細螺川しただみがわとゆう。(岩見井?。古墳時代には揖保川、林田川の支流が網の目の如く流れていた。その中の一つ。今は完全な陸地。JR山陽線の南側?)
揖保いひぼの里。土はまあまあや。粒いひぼとゆうんは、この里が粒山いひぼやまの麓ふもとにあるんで、そやから山の名とったんや。(龍野市揖保町西部、揖保郡揖保川町(旧神部村・半田村南部))
粒丘いひぼおか。粒丘いひぼおかと号なづけたんは、天あめの日槍ひぼこの命みことが韓国からくにより日本へ来た時、宇頭うずの川辺かわべで葦原あしはらの志挙乎しこをの命みことに宿をかろおとして、「われはこのへんの王さんやろ。わいが宿やどるとこをかしとくだん」とゆうたんや。志挙しこはよそもんに土地を取とられる思おもおて、「海の中やったらかしたろ」ゆうたったんや。そしたら天あめの日槍ひぼこの命みことは剣つるぎで海水うしほをかき回して島しまを作つくってそこに宿やどったんや。志挙しこの神は、天あめの日槍ひぼこの命みことの勢いきおいがごっついのんにおっべて、先にこの国を占領せんりょうしょおとして、巡めぐり上のぼって粒丘いひぼおかに来て、おまんまを食べたんや。ほしたら、せけて食べたんで口より飯粒いひぼがあだけて、そやから粒丘いひぼおかと号なづけたんや。その丘の小石はどれもよお飯粒めしつぶに似とお。また、杖つえで地ちを刺さしたら杖つえのとこよりつめたい泉いずみが涌わいて出て、南北に流れた。北は冷つめとおて南はぬくい。白朮おけらが生えとお。(中臣山。葦原あしはらの志挙乎しこをは伊和の大神の一族。対する天あめの日槍ひぼこの命は、大和朝廷から好きな土地を占拠して、そこに住むことを許されている。いわば、大和朝廷の先兵。葦原あしはらの志挙乎しこをはそれを察して上陸を拒んだ。更に、この地域での戦闘を有利にするために急いで陣地を構築しようとして、あわてて飯を食べて飯が口からこぼれたのが地名のもと。)
神山かみやま。この山に石神いしがみがおってなー。そやから、神山かみやまとゆうんやー。椎しいがはえとお。子みは八月に熟うれる。(神戸山。)
出水いずみの里。この村に寒泉しみずがわいとんね。そいで、泉いずみに因よりて名にしたんや。土はまあまあや。(龍野市揖西町中垣内・小神・清水・清水新・佐江・前地)
美奈志川みなしがわ。美奈志川みなしがわゆうんは、伊和いわの大神おおかみの子供で石竜比古いわたつひこの命みことと妹石竜比売いもいわたつひめの命ゆう夫婦の二人の神さんがおってな、夫婦喧嘩ふうふげんかして川の水を取とりやいしたんや。婿むこさんの神さんは北の方の越部こしべの村に川の水を流ながそ思おもおて、嫁よめさんの神さんは、南の方泉かたいずみの村に流ながそおとしたんや。その時、婿むこさんの神さんは、山の峯みねを足で踏ふんで低ひくうして流したんや。嫁よめさんの神さんはそれを見て、「なんちゅうごじゃすんや」ゆうて、頭あたまに挿さしてた櫛くしでその流ながれる水を塞ふさいで、峯みねの辺まわりに溝みぞを開ひらいて、もとの泉いずみの村に流したんや。そしたら婿むこさんの神さんは、その泉いずみの村の水源みなもとへ行って、川の流れを西の方の桑原くわばらの村に流そうとしたんや。そいでもう嫁よめさんの神さんはどたまに来てもおて、地下ちかを通とおす樋ひ(トンネル)を作って、泉いずみの村のまわりに流すようにしたんや。さやさかい地上ちじょうの川の水はのおなっいてしもうて无水川みなしがわになったんや。(中垣内川。山根川。亀の池、新池、大成池。播磨の女は強い・という話。一説にはたたら製鉄のため川の流れを変えることが行われていた伝承が形を変えて伝えられたとも。)
桑原くわはらの里。前は、倉見くらみゆうてた。土はええほうや。品太ほむだの天皇(応神天皇)が欟折山つきおれやまに登って、周囲しゅういを見わたした時に、森もりの向こうに倉くらが見えたんで倉見くらみの村と号なづけたんや。今は名前を改めて桑原くわはらとゆうとる。ちゃうことゆうてる人もおって、桑原くわはらの村人等が讃容さようの郡こおり鞍見くらみの鞍くらを盗ぬすんできたら、その持ち主が探さがしに来て、この村で取られた鞍くらを見つけて、そいで鞍見くらみとゆうんやゆうてる。(龍野市揖西町新宮・構・田井・竹万・北山)
琴坂ことさか。琴坂ことさかとゆうわけは、大帯比古おおたらしひこの天皇(景行天皇)の頃に、出雲いづもの国から来た男がこの辺で休んだんや。近くでお爺じいさんと若わかい娘むすめが田んぼを耕たがやしとって、出雲いづもの男が若い娘の気いー引こーとして、琴ことを弾ひいたんや。そやから琴坂ことさかとゆうんや。こっから銅牙石どうがいしが採とれる。形、双六すごろくのサイコロに似てる。(龍野市揖西町構の西。古代の吟遊詩人か?。播磨風土記には出雲人の往来の記事がよく見られる。出雲王朝と大和王朝の接点。銅牙石は銅の原石か?)
讃容の郡へ ホームに戻る