松岡五兄弟
最初に 日本一小さな家の答えは、E 約55平方メートル、です。四畳半の部屋が二つ、三畳の部屋が二つ、廊下が五畳分、押入・納戸が二畳分、板床が三畳、上がり框が一畳、土間が十畳ほどです。大きいとは申せませんが、これより小さな家は播州では幾らも有りました。今でも都市部での庶民向け?マンションが60平方メートルであることを考えれば、決して日本一小さいとは言えません。では何故柳田国男は「日本一小さい家」と言ったのでしょうか?。柳田国男研究者でこのことに疑問を持ったり、言及しているのを私は知りません。
「日本一小さい家」と言った理由は3つ考えられます。
1つは、2世代同居するには小さすぎることです。松岡兄弟の長男鼎は20歳で家督を継ぎ結婚しますが、前年には六男に当たる弟・静雄が、2年後には七男に当たる弟・輝夫(映丘)が生まれています。お決まりの嫁・姑の問題で鼎は最初の妻とは離縁、二人目は自殺?。傷心の鼎はこの後、23歳で東京に出て、東京大学医学部別科に入り、27歳で卒業し、翌年茨城県布川町で開業しています。松岡兄弟のうち、次男俊次は大阪に丁稚奉公に出て、19歳の時に病死しています。三男泰蔵(通泰)は。12歳で井上家の養子になっています。四男・友治は3歳で亡くなっています。五男が国男です。鼎が結婚した頃、夫婦二組に子供が3人。これでは狭いでしょう。貧しかったというのも当たりません。明治の始めに東京の大学に入るのにはそれなりの資産が無いと不可能です。通泰の養家である井上家、あるいは松岡の本家から援助が有ったのかも知れません。(播州では、家が貧しくても間引きを行う家は稀であった。特に女医であった祖母小鶴は間引きを固く戒めていた。国男が、関東の布川に行って驚いたのは、子供の数が少ないのと間引きの絵馬。)
2つ目の理由は、国男が幼少時に行き来していた家は播州でも裕福で大きな家が多かったことです。一時預けられていた三木家は、元庄屋で現在も建物が史跡として保存されています。兄・泰蔵が養子に行った井上家も代々の医家で裕福でした。近くの松岡の本家も代々医家を営み、大きな屋敷で大西と呼ばれていました。
3つ目の理由は、柳田国男の性格でしょう。生涯に膨大な著作を残し、多くの交友録があるのに初恋の人には殆ど触れず、また柳田家に養子に行った経緯も僅か、その一方で誇張では?と思われる記事もある。
ここで、松岡家の歴史を少し。松岡家は本来東の加西に在していましたが、江戸時代の始めに辻川に移住し、東西に分かれて住み、市川河畔の西の松岡が大西と称されていました。柳田国男はこの大西の分家の系譜です。松岡家は代々天台宗で、多宗門との婚姻を厳しく禁じていたが、国男から4代(5代?)前に対岸の山崎地区から浄土真宗の娘を娶り、それ以後本家とはお互いに距離を置くようになったそうである。加えて国男の2代前に男子が無く、小鶴に中川家から至を婿として迎えたものの、一子・操を残して至は松岡家を去ります。残された小鶴は、産科医を営みながら操を育て、加えて地域の生活の向上に尽力したことが記録に残っています。国男等五兄弟の父・操は、儒学、漢学、医学を母・小鶴から学びましたが、長じて医者を嫌い、好古堂で儒学、国学を治め、幕末には姫路藩熊川舎の舎監として儒学を講じていた。明治維新になり、操は熊川舎も閉鎖されたことから、明治5年に辻川に戻ります。翌年、小鶴は亡くなります。操は儒学を学びに来る人も無く生活に困窮しますが、学者肌の操は無頓着で妻のたけのやりくりで長男鼎は明治8年姫路師範学校に入学し、転学した神戸師範学校を明治11年に卒業して、地元の辻川・昌文小学校の教師になります。後はこの章の始めに戻ります。
松岡五兄弟を書くつもりが、クイズの解説で脱線。ネットで一押しのリンクを挙げます。
参考文献 「松岡五兄弟」姫路文学館編 平成4年刊
松岡五兄弟の凄いところは、通泰、国男、静雄のいずれもが、30代後半から40代に本業を捨て、自分のやりたいことをやって、一家を成したことです。通泰は医者から歌学へ、国男は農政学から民俗学を創生し、静雄は軍人から言語学へ、長男鼎も医者の傍ら地方行政に。唯一、輝夫が画家として初心を全うしています。
ホームに戻る