腔の読み 番外 その7 明治の医者
江戸時代、公には医者は漢方で、蘭学を修めた洋方医は幕府に用いられることはありませんでした。安政5年(1858)に将軍家定の病気が悪化して初めて伊東玄朴ら洋方医が奥医師に任ぜられ、蘭方禁止令が解かれました。この頃、蘭方医達が種痘所の設立を願い出て、神田に私設の種痘所が出来、これが文久元年(1861)に幕府直轄の西洋医学所となり、文久3年には単に医学所と改称し、積極的に西洋医学を教育する事となった。慶応3年(1867)10月に大政奉還、12月に王政復古、翌年4月の江戸開城、9月には明治と改元されたが、明治新政府は医学所を引き継ぐとともに、漢方医の医学館を閉鎖して種痘所と改称、医学所に吸収して医学教育は洋方によることを明らかにした。明治2年に医学所は医学校兼大病院、更に大学東校と改称され、洋書で学ぶ年限5年の正則生と、訳書で学ぶ促成の年限3年の変則生の制度が出来たが、明治4年にドイツよりミュルレルとホフマンが医学教師として来日し、変則生を廃止して正則生改め本科生のみとした。明治7年にミュルレルとホフマンが離日し、翌明治8年には別課生の制度を設け、医師の促成を行った。この間、大学東校は単に東校、更に東京医学校、東京大学・東京医科大学と改称され、明治19年に帝国大学・医科大学、明治30年に京都帝国大学が出来て、東京帝国大学医科大学となりました。
明治期に医者になるには以下の方法がありました。
・医学士。明治時代には医科大学を卒業して医者になった者が所謂医学士で、中期までは東大のみ、30年以降に京大、明治末に福岡医科大学がそれに加わりましたが極めて少数で、その多くは、母校或いは全国の医学校、医科専門学校で教鞭を取ることとなります。このうち、更に少数の人(明治35年頃で100人強)が論文を提出して医学博士の称号を得ている。
・ドクトル。明治初年から中期にかけて欧米に留学して医者になった人はドクトルと呼ばれている。極めて少数で、その知識・技量は様々であったらしい。
・大学別科卒業生。是は明治中期に無くなったが東京大学・東京医科大学の別課を卒業した者で、医学士の称号は与えられないが、臨床医の中では重きをなしていた様である。本課と異なるのは、本課生がドイツ語を中心に講義を受けたのに対し、別課は日本語中心の促成授業であった。卒業後更に学問に励み、医学博士になった者も居るとのことである。柳田国夫(本名:松岡国夫)の長兄・鼎は別科の卒業生で、千葉県南相馬郡布佐町で開業し、弟の国夫や静雄、輝夫(英丘)を呼び寄せ、或いは学業を支援し、自身は地域の議会議員、町長、医師会会長を務めた。
・医学得業士。公立、私立の医学専門学校が明治12以降には多数存在し、公立20校、私立25校を数えたという。是も明治20年には整理され、公立は千葉、仙台、岡山、金沢、長崎、その後新潟が文部省の直轄になり、府県立は京都、大阪、名古屋となった。当初、医学士が3人以上教授で教えていると卒業生は無試験で医者になれた。医学士が3人いない私立の専門学校は医術開業試験の予備校化したところも多く、明治末には大半が消滅したが,優秀な教授陣を揃えた順天堂や成医会医学専門学校(現・慈恵医科大学)は今日に至っている。これら専門学校の卒業生を医学得業士と言い、明治後期以後の医師の大半を占めた。
・医術開業試験及第者。明治8年に文部省が医術開業試験の実施を通達し、明治12年から実施したが、この及第者が該当する。このための予備校として最大のものが済世医学舎で、多い時には数百人の学生が在籍していた。これら予備校の教師の多くは東京大学・医科大学の学生で、午前中に大学で聴いた講義を基に夜に予備校で講義していたそうです。ちなみに野口英世も医術開業試験で医者として出発した。この及第者には、医者の書生、代診として医者より見立て・患者の評判が良かった者、予備校通いに明け暮れた者、七科問答のような問題集ばかりを勉強して患者を一度も診ずに及第して途方に暮れた者が含まれる。明治末に廃止された。
・従前医。明治維新以前より医師を業としていた者。多くは漢方医で、明治中期以後急速に減少し、その係累の多くは上記のいずれかの手段で医業を継承する事となった。特例として、明治15年に開業医の子弟でに25歳以上の者に開業免許を与えたが、これ以後急速に漢方は衰えた。
(以上は、小川鼎三著「医学の歴史」、中川恭次郎「現今の療病界の概況」等を参考にしました)