第一章 面の歴史

 

 面は仮面とも書き、能楽道では「オモテ」と呼びならわしている。英語ではマスク(MASK)と言うが、これは、顔を「おおう」と言う意味である。古代においては、何れの国民も歌舞に際し面を使用したもので、西洋諸国においては古くからこれを劇において使用している。ギリシャ劇の起原はヂオニサスと言う酒の神様の祭礼にある。この劇は起原前五世紀頃に至っては、立派なものになり、悲劇喜劇何れにも不出世の作家が輩出したのである。劇の起原が既に祭礼にあるのだからして興行も大低祭礼に行ったものである。就中ヂオニサスの祭は年四回宛あったがその日には勿論奴隷迄も見物に来たのである。面の種類も劇の発達すると共に、増加して、その盛世には、

 悲劇用の者 (約二八種)

 喜劇用の者 (約二八種

 狂言用の者 (数一〇種)

の多きに及んだ。ギリシャ面の材料が、何であったかに就いては、

「イ」金属製「ロ」粘土製 「ハ」木皮製

と三種説がある。然し一般に当時の面打家はリンネル(麻)を多く材料として用いたと思われる。

 当時ギリシャには面打師がいて、専門に此事に従事していた。此事は記録に従って もまた当時の遺物を発掘した者によっても知ることができる。

劇に就いては多く語らぬが、面を使用した目的を考える必要がある(

)ギリシャ面は一体に形状が大であった。女の面、青年の面などは真面目であって、実際の美女、美少年をそのままうつしたものである。喜劇用の面は、誇張的漫画的のもので、滑稽を主としたもので、眼を大きくしたり、口をおおきくしたり種々の技巧が施されている。真面目に写生的につくられた面は、妙齢の処女、青年に関した者のみであった。随って彫刻美は、これにあった。さてギリシャに於いて、仮面の多くもちいられた理由は、

(1)ギリシャ劇は、写実的でなく、写実に遠ざかった点は、我能に似ている。女役者がなかったので、男が女になるには是非面を要した事。

(2)神や幽霊が多くでるので、これらの面を要したこと。

(3)一人の役者で、二役も三役も引き受ける便宜の在りし事。

(4)ギリシャ人の国民性として彫刻式趣味を有した事。

(5ギリシャ劇は大勢に見せるのが主で、四百人五百人は通例である。ペリクリースの治世には三万人を入れる大劇場があった。かく大勢に見せるのが主であるから其人の素顔では遠くまでハッキリとさせる事が出来ぬ、ハッキリさせるためには面が必要なりし事。

(6)舞踏会の席上などで、何か恥ずべき行為をまねようとする時、または婦人などが顔色を装うて、其醜を隠そうとする時には面が必要である。

にあると考える。前述した如くギリシャ面は、処女、青年などは実際の美女、美青年をそのままに写して真面目な作品だが、大部分は、漫画的で写生になっていない。一二の例を挙げるに、頑固な親父の面はデコボコの渋面、病人と恋人の面は青色で凄味を帯ばしてある。丈夫な人は焦げ茶色の面、悪者と奴隷とは赤っ面の赤毛(面には多く髪の毛がついていた)と決まっていた。

 この仮面を要せしギリシャ劇も、ギリシャ滅亡後、写実一方に発展して仮面の必要

なきに至った。それと共に仮面彫刻術は進歩をしなかったのである。()

然るに中世に至り仮面劇が行なわれるに至った。この仮面劇は景と歌と楽

とから出来ていて、時には舞踏も加わるのであるが十四世紀から十六世紀にかけて盛んに行なわれた。勿論一種の興行物であったが祝賀祭礼の折りにも又宮中や大学などでも行なったのである。是は仮面を用いて寓意を専一としたもので、写実劇ではない。祝祭遊戯官の報告に依るにヂェームス一世は六年間に、この劇のために二万一千円を費やしている。是に依るも、如何に盛んに行なわれたかが分かるのである。西洋に於ける仮面の状態は斯くの如くである。我国と一衣帯水の支那も、随分古くから仮面を用い我国へは南部支那から仮面を輸入した物である。外国の事は、是に留めて、日本へうつろう。

近来考古学の発達と共に石器時代の遺物が沢山発掘さるるに至ったが、此遺物中に土製仮面形のものがある。是は仮面ならんとおもはるるが実用に供したか否かは疑問である。若し是が実用に供されたものと仮定しても大和民族と異なる人種の遺物だから、我らの祖先との直接の関係は認められないのである。神代に於いて、我が大和民族が、仮面を有せしや否やは一大問題であって、今にわかに判定し難いが、余は「本邦固有に仮面なし」と言う考えをもって居る。ある人は、「吾人の先祖は南方からきた移住民族である、古く日韓支の統合があったのであるから、仮面もあったであろう」と主張するが信じ得られない。天鈿女命、火蘭降命の故事を思い合わすれば、上代に仮面なしとおもわれる。天照大神の天の岩戸隠れの御時、天鈿女命が舞楽を奏せし記事に、「天香山の天日陰を鬘となし、天真折を手繦に繋て、小竹葉を、手草に結び、手に鐸著たる矛を持、槽覆て踏とどろかし云々」とあるにてもわかる。また火闌降命が「犢鼻を著け、赭を面に塗り、足を挙げて其溺苦の状を為し、永く汝の俳優の民たらんと、誓いたりき」とあるを見ても証明できる。我国で仮面を用いるに至ったのは、百済の人味麻之が伎楽を伝えて以来のことである。元来百済から楽人の来たのは、味麻之が始めてでなく、欽明天皇の十五年に施徳三斤、李徳巳麻次、李徳進奴等がきて居る。味麻之は推古の朝廿年に帰化して、大和の桜井に住し、少年を集めて伎楽を授け、其門から真野首弟子、新漢斎文の二人が出ている。要するに記録を元とすれば、面は、味麻之に依って伝えられたこととなる。天平十九年法隆寺資財町、寶亀十一年西大寺資財帳等に伎楽の面料具がある。法隆寺には今尚、其面を伝えている。これ等は味麻之が伝えて伎楽に用いたものを聖徳太子が採って、仏会の資とし給うたのであろう。聖徳太子伝の如きは此説である。故に楽家の書は、舞楽の權興をこの太子に出たかの如く説いている。これがもととなって、猿楽家の面にも聖徳太子御作等と附會したものがままある。金春の家には聖徳太子御作の天面翁面、三番神などありと言われているのが此の例で牽強も又甚しと云うべきだが、そこに猿楽家の面白い思想があるのである。

其後外来楽は年に月に勢力を得て来て、「延喜の聖代」の頃に至っては、本邦古風の舞楽は大歌所へ追いやられ雅楽寮は、唐楽韓楽のみとなってしまった。終いには本邦新製の唐楽も出来、外来楽は本邦固有の楽曲を圧して、気焔を吐くに至った。純大和風の精華なりと云われる内侍所の御神楽の如きも、海外楽の影響を受け、又催馬楽の如きも著しく唐楽の臭味を帯んできた。かく海外伝来楽の盛んとなるや、仮面の必要も多くなり、本邦で盛んに仮面を作るに至った。今でも、奈良の正倉院には貴重な湖面が残っている。是など雅楽で用いた面は「雅楽の面」と言うべきであるが、余は特に「舞楽の面」と云う文字を用いている。元来雅楽とは唐、三韓から伝えた楽の総称であるが、雅楽の中、舞のあるものを舞楽と云うのである。然し乍ら仮面彫刻の盛りを極むるに至ったなは田楽の能、猿楽の能が起こって以来の事である。煎じ詰めてみれば、「観世世阿弥」が応永を中心として行なった「応永猿楽革命」の完成後である。此の点からして、本邦の仮面時代を

(一)舞楽時代 (二)猿楽時代

と二大別することができる。是は恰も日本の音楽を譜に依って(節博士)

(一)折れ線式時代(宴曲以前)

(二)ゴマブシ時代(宴曲謡曲以後

と二大別すると同じ意味である。この分類は余りに漠然過ぎると云う人があろうが其疑いは直ちに氷解できる。(一)の舞楽時代の仮面は大体上一形式でこれを概括する事が出来るし、(二)の猿楽時代又然りである。或る人は里神楽の面もあるではない?と疑いを起こすが今日行わるる里神楽(ここで云う里神楽は近世のまのをさしたのである)は内侍所系統のものではなくして、猿楽系統のものであるからして、其面も又猿楽系統である。してみれば直ちに解決がつく。舞楽時代と猿楽時代との境目は何時であるか?是は折れ線式時代とゴマブシ時代とを明空を以て分けるが如く、客易くはゆかない。そは雅楽衰微して猿楽将に栄えんとする時代を求むればよい。余は暫く「鎌倉の中世」と漠然乍ら定めておく。然し真の意味に於ける仮面の「猿楽時代」は、応永猿楽革命後の新派猿楽が、(観世、宝生、金春、金剛)足利幕府の後押しで確立してからである。舞楽の面と能楽の面との主たる相違点は

 

にある。是は、各々芸の長所を発揮する必要上当然の事である。舞楽の面は其形状頗る大で到底能面の小なるには及ぶ可くもない。栗田博士楽器考に、胡飲酒、大面、(丸面大中小の差あり、其大と云うは身長七尺に及ぶ人の顔面の大きさなり餘は類推すべし)面赤く鼻大に、黄目方眼、髪色黄にして老人の状に似たり、蹙額 目、緑髪高鼻、口を開きはを

現わす、頭上に躍龍首を矯て、火を吐く者を戴く。

菩薩中面、豊 黄色、頂髪曲局、王冠を戴く戲く、吠佛菩薩の如し、楽家録、鶴岡神実園にのする所長七寸六分。

蘇利古、安摩、木面にあらず、白絹に墨もて耳目口鼻の象をなし、鼻下両辺に巴文を書けり。散手大面、朱顔、廣 、髪植ち、目裂け、須髭甚盛なり。(舞楽圖家録)元明帝和銅中、散手寶冠面具を元興寺に蔵す、山階寺にも之を模して蔵すと言い(続教訓抄)鶴岡神寶仮面圖にのする所は、八寸四分、法隆寺なるは一尺三寸余、厳島神社仮面圖にのする所は八寸、裏に銘あり。伊津岐。

抜頭大面、楊眉瞋目、容貌怒るが如し、この降面左近麻生の所蔵なりしを大納言藤原隆季之を借りて家に久しく止めたりしに霊ありしと云う。其背記銘文に延暦二十一年七月一日、右相模司浩之と記せり。伊津岐島社蔵、一面一尺、銘に抜頭面安永三年国勝寺本佛行明とあり、熱田社にも此面あり。採桑老、小面、霜顔ろう眉、鬚髯雪の如し。降面官庫にありしが万治四年焼失、厳島社なるは、長八寸、裏に伊都岐島社、採桑老面、建長元年九月十四日、時右近久賢將監舞之と銘せり。

とある。是に依って舞楽面の一端は想像し得るであろう。(帝室博物館に行かば両者の比較をなし得べし)右の表は、大体に於いてと云う意味であって実際に於いて能面の容貌は静平であるというても必ずしも悉く然りとは行かぬ。もしも特志家が此両者の比較研究をする時には、雅楽は単なる暗示的なものであるが能は腹で見せる芸で、変化無量の複雑なるものである事を、念頭におく必要がある。雅楽面の表情は単一的で変化に乏しいが、能面の表情は一見静平なれ共味へば味うほど、多方面で変化極まりないのである。

仮面の作家は随分古い時代からであるが、猿楽面時代は鎌倉時代の中頃から始まるのである。足利時代になってから大和猿楽山田座に観阿弥清次、世阿弥元清と言う一大天才が出現した。特に世阿弥は、猿楽家として又大文学家として、絶大の力を以て猿楽界に一大革命を与え、終いに今日の能を開いた。これ余の所謂応永猿楽革命であって、これより将軍家始め武家方を頼んだ人として、世阿弥の革命能が確立するのである。(此の形勢は、余の著した能楽全史を参照すれば分かる)この改革能換言すれば

新派の能が、新座本座の田楽の能、近江の猿楽能 謡物としいては宴曲などを厭倒するや、能面製作も一段の進歩を遂げるのである。猿楽家を尊重する事は、当道の開祖

世阿弥以来今日に至る迄かわらぬ思想であって、足利幕府が手猿楽(大和四座以外のものを称する熟語である)を罪する際にはその面を没収したが、是れが猿楽家にとっては一大恥辱であった。各面は、猿楽家の生命であったのである。通例猿楽家は仮面工を時代分けにして(イ)神作、(ロ)十作、(ハ)六作、(ニ)古作、(ホ)中作、(ヘ)中作以後****としている。(元来此の区別は、面打ち師の間に於いて便宜上用いられていたのであって、能役者が此の述語をもちいるようになったのは比較的新しい時代である。斉藤香村氏は「享保以後である」と説いている。)

(イ)神作=聖徳太子、淡海公、弘法大師、春日。

(ロ)十作=十作に就いては次の二説がある。

 

日     光     特若

弥     勒     増阿彌

夜     叉     春若

福 原 文 蔵     福来石王兵衛

石川龍右衛門重政    石川龍右衛門重政

赤 鶴 吉 成     赤鶴吉成            

越 智 吉 舟     三光坊

小 牛 清 光     小牛清光

徳 若 忠 政     越智吉舟

氷 見 宗 忠     氷見宗忠

爾説中通例は上段をとる。下段の説に随えば、十作六作の区別なく、十作混じて十人を選び、其餘れる人を十作外と称して居る。余は下段の説を取らずして上段の説を取っている。

(ハ)六作   増阿彌久次、福来石王兵衛、春若、宝来、千種、三光坊。

(ニ)古作   般若坊、真角、東江、千世若、ヒコイシ、心能、虎明、等明。

(ホ)中作   愛若、慈院、宮野、財蓮、吉常院、智恩坊、大光坊幸賢。

(へ)中作以後  (太閤時代又は是閑時代)角坊、ダンマツマ、山田嘉右衛門、

          野田新助、棒屋孫十郎。

である。然し此猿楽家の年代別は非科学的の分類で、能面を歴史的に研究せんとするには、これのみに頼ることが出来ない。依って学術的の分類法を定める必要がある。諸先輩の間にも別に是ニ就いての意見は無い。余は種々研究の結果、次の如く面作家の時代を分けている。この新分類法は考古学雑誌(二巻十二号)能楽書報、国楓等で当て発表しておいた。

日本の仮面時代

(一)舞楽専用期   (専用という字に深く拘泥してはならぬ。唯、「比較的」という位の意味に使ったのである。)

(ニ)猿楽専用期

 A前期

 (イ)福原文蔵の時代    (後朱集、後冷泉の朝)

 (ロ)赤鶴の時代      (弘安頃)

 (ハ)福来石王兵衛     (応永頃)

 B後期

 (二)三光坊の時代     (文明頃)

 (ホ)河内是閑の時代    (桃山時代)

 (ヘ)友水の時代      (宝暦頃) 

 (ト)友水以後

此分類に於いて、猿楽専用期を前期後期と分けたのは、

  1三光坊の前と後に於いて製作上大なる相違を認めた事。換言すれば三光坊前後に於いて製作上、新機軸ヲ出した事。

  2三光坊前ノ仮面工は未だ猿楽のみ専門とせず、且つ世襲的で無かった。然るに三光坊後に至って猿楽面のみヲ専門に製し、且つ世襲的になった事。

に據ったのである。(前期)は舞楽、猿楽両面混用時代、(後期)は純猿楽専用時代

と云うも可である。前期、後期の区別内に於ける小区別は、製作上新機軸を出せる主なる仮面工を選んで其代表としたのである。かく余が前期後期と分けた意味は、恰も刀剣家が新刀古刀と区別をたてると同じである。刀剣の方では概して古刀は良いが新刀はなまくらばかり出よくない。能面は是と反対に、「前期の作」必ずしも後期よりよいとはいえぬ。前期の作、例えば赤鶴や文蔵の作にも名作があると云うても、後期の作にも夫れ以上の作が多いのである。後期の作の方が概して精巧であると思う。又猿楽家の云う仮面工の年代は、空漠たるもので信ずるに足らぬ。先考時冬博士著芸窓裸載(仮面彫刻の章に)に、

「猿楽家が仮面工の時代は実に空漠たるものにして、信ずるに足らざる事は古人も論じおかれしが、予の如き謡曲並びに仮面の事に関し経験なきものと誰も、一読して猿楽家が妄想を看破したりき。例えば赤鶴は鎌倉将軍時代の人なるに、室町時代に一休和尚が作りしと云はるる山姥の謡曲に用いる仮面を打ちたりと云う如き不都合の結果を生ずればなり。故に予の工芸考は三光坊以上を取らざりき。」とある。博士の言の如く、猿楽家の仮面工の時代は信ずるに足りぬ。昔の猿楽役者には(主として舊幕)

時代を指す)無学の物が多く、随って歴史的知識がないから致し方もないが、今日猶誤りをそのまま信じている人が多い。能面作家の研究は後章に譲り、一例として、正確な材料に依って十作の年代を定めておく。

 ・ 日   光 近江国三井寺僧、諸書朱雀村上天皇頃の人と一致している。

 ・ 弥   勒 日光と同時代

 ・ 夜   叉 日光と同時代

 ・ 福原 文蔵 一本永原につくる、諸書後朱雀、後冷泉天皇頃の人と一致してる

 ・ 石川龍右衛門重政 山城国四条住、後宇多天皇弘安中の人。

 ・ 赤鶴 吉成 一透斎、越前国大野住、一説吉成神太夫、弘安中の人。

 ・ 日永 宗忠 越中国日永郡住、法華宗の僧、弘安中の人。

 ・ 越智 吉舟 和泉国貝塚住、後圓融天皇永和中の人。

 ・ 小牛 清光 大和国竹田、時代同前。

 ・ 徳若 忠政 相模国鎌倉住、一説徳若太夫、時代同前。

 ・ 増阿彌久次 山城国京師住、足利義満同明、時代同前。

 ・ 福来石王兵衛 越前国一條住、一説石翁兵衛後小松天皇応永忠の人。    

 ・ 春   若 丹波守と言う、徳若の甥、一説春若太夫。

 ・ 宝   来 福来の子。

 ・ 千   種 千種大納言と云う説がある。

 ・ 三 光 坊 越前国平泉住、後近江国比叡山住、後土御門天皇文明中の人。

 要するに能面は応永の猿楽革命以後、長足の進歩をしたものである。革命前迄は、田楽の能が猿楽能に相拮抗していた。元来田楽と猿楽とは各々其の本芸は別物であった。是を具体的に云えば、田楽能の本芸は手品軽業的、猿楽の本芸は茶番的のものであったが、田楽能と猿楽能とは同じ芸風のものであった。両者共に芸風が写実から遠ざかっていたから、面にも技巧を弄したものが少なかった。革命以後は、写実分子を多く含むに至ったので面も頗る精巧になって技巧を弄するに至り、始めて能面なるものが、一種独特のものになって、舞楽の臭味から脱するものである。大和四座の革命能が勢力を得てくるや終いに専門の仮面工を要求するに至り、其の結果三光坊の輩出となるのである。随って能面歴史研究の興味は、三光坊以後にある。この点は大いに注意せねばならぬ。

 三光坊後の時代の特色は、

 ・作家の家が世襲になった事(養子制度に依って家芸を維持する場合多し)

 ・作の研究が実際的方面に進んだ事。

にある。三光坊は能面史上に一時代を劃す可き人で、其伝統は遥か後世の能面界に漲り溢れている。即ち彼の門より上総介親信、大光坊幸賢、二郎衛門満照を出した。

三光坊の弟子は此三人と言う訳ではないが、此三人は多数の弟子中傑出したものである。上総介親信は近江井関といわれ、満照を越前出目と云う。大光坊の血統は振るわ

ぬが其の門から是閑吉満が出て、大野出目家となるのである。

      上総 介信  (近江井関家)

 ◯三光坊 二郎衛門満照 (越前出目家)

      大光坊幸賢  是閑吉満 (大野出目家)

右の中二郎衛門満照は、三光坊の甥であるけれども、別に其の養子となったと云う事実もなく、随って三光坊の直流と云うわけで無い。親信や幸賢は弟子であるからして、血統上からみて副流と云うわけでも無い。此三人共三光坊の芸は受け継いだが、決して系圖上の関係は無いのである。

 此の三家中満照の子孫即ち出目家は長く存在するが、親信及び幸賢派程に、天才的作家が、輩出していない。出目家が比較的平凡に終わったに反して近江井関家からは河内大橡家重と云う不出世の名人が出、幸賢の門からは、是閑吉満が出ている。家重、吉満の時代は太閤時代とも、是閑時代とも云われて、能面製作研究の頂点である。

□井関家

  上野介親信  近江国浄津住三光坊弟子

  次郎左右衛門 住所同前

  備 中 椽  住所同前

  河内大椽家重 初近江国に住、後武蔵国江戸に住正保二年没

  大宮大和真盛 河内弟子、南都の社人後武州江戸に住寛文十二年没

親信から備中椽迄を近江井関と云い、此の三代の作はイセキと片仮名で彫りつけてあるからして、俗に片仮名イセキとも云うのである。真盛は家重の門弟であって芸事の伝統者である。

□出目家

  二左右衛門満照 越前府中新町に住

  二左右衛門則満 住所同前

  源 助 秀 満 古源助と称す初名源次郎後常心坊又常慶とも云う満照より秀満          まで越前出目という

  元 休 満 永 又満長初名源助京師に住後江戸住古元休と号す

          寛文十二年没

  元 休 満 茂 初名源兵衛

  元 休 満 総 初名休兵衛

  元 休 満 真 初名八十八

  仲   満 忠 

満照から源助秀満迄を越前出目と云うて居る

□大野出目家

  是 閑 吉 満 初越前大野住、後山城国京師に住元和二年没   

  友 閑 満 庸 承応元年没

  助 左 衛 門 

  洞 白 満 喬 初名加兵衛、後備後椽又淡路椽、初満永弟子、それより

          後助左衛門養子となる、正徳五年没

  洞 水 満 矩 又満昆初杢之助、享保十四年没

  甫 閑 満 楢 初名半蔵、寛延三年没

  友 水 庸 久 初杢之助義恩と号す

  長 雲 庸 吉 初名杢之助、安永三年没

  洞 雲 庸 隆

□児 玉 家 

  近 江 満 昌 初名源太満永養子となり出目と号す、

          後離縁して児玉と号す初江戸に住後京師に住す

  長右衛門 明満 満貞後近江と改京師に住

  長右衛門 能満 初名市郎右衛門

児玉家は芸事上出目の伝統を受けている。所謂出目家の製法を換骨脱體したものが児玉家の芸法である。満昌は満永の養子となった人であるが、子細あって離別して独立し児玉家と云うに至ったのである。

□弟子出目家

  満永智

  元 利 栄 満 江戸に住、古元利と称す、寛永二年没

  元 利 壽 満 初名浅右衛門

  源 助 上 満 天下一御面所、三光入道末孫若狭大椽上満と記すものあり壽満          の弟

  元 利 右 満 

 弟子出目家の祖元利栄満は、満永の聟であって、出目の伝統をひいて居る。

 前記の如く製作上の研究の頂点は、河内是閑時代である。応永の猿楽革命以来、作家は鋭意刀法容貌形式に就いて研究しきった。此研究は河内、是閑に至って大成せられたと見て宜しい。勿論此二天才の後の時代に至っても刀法容貌形式其他彩色等の研究は怠っては居なかった。新機軸を出そうと云う研究即ち新しい形のものを打とうと云う研究は、是閑の時代に大成し、徳川中期後はやんでしまう。徳川初期の状況猶然りであるが、厳密な意味では徳川中期後は従来と異なった新形式の面を打って見んとの研究心なく、推古作の面をモデルとして夫れに寸分違わず似せようと云う模作の時代である。

 広義に於いて太閤時代、厳密な意味に於いて、徳川中期以前は、製作上進取の時代

で、新形式のものでもよいから、よりよきものを打とうと研究した時代である。是以後は製作上の保守の時代模作の時代である。総て芸術は保守になっては末である絵画の如きも雪舟や応挙にあこがれて、夫れなどに模する事のみを勤めれば、新機軸をだすことが できないから進歩発展は望み得ぬ。能面も元禄の能楽全盛以来、古能面に寸分違わぬ様に打つことを以て、作家の名誉とするに至った。(諸大名の好みに依って新しい型のものを製作することもあったが、作家の腕がにぶいので上作は殆どない)太夫から或る面を打ってくれよと頼んでくると、能面工は専心、模せんと努力する、出来上がると太夫の使いに、古面と新作面とを共に見せる。そして何れが古面、何れが新作面なりやと尋ね使いのものに見分けがつかぬと、「貴君では駄目だとて渡さぬ、終いに見分ける迄渡さなかった」と云う話さえある。是は座談に過ぎぬが、この話しに依って当時の能面工の精神が分かるのである。彼らは使いの者に何れが古面なるか見分けのつき兼ねた程巧みに模し得た事を以て無上の光栄なりと信じていたのである。

 時代恩潮此くの如し。故に能面の歴史的研究、主として、工芸と云う土台から観察した能面の研究は、徳川中期迄が主である。中期以前は研究して面白いが模作の時代換言すれば、鸚鵡返しの時代になってからは面白くないのである。

 幕末の天下乱れに乱れた時代にも面打ち家は存在していた。出目久作の如きは御扶持方五人を賜わって居た。然るに王政維新と共に能楽は頓に衰微した。能楽は、封建政府の保護の下に存在し、而して発達したものである。今や武家と云う頼んだ人を失ったのであるから衰微するのは当然であるが、この際面打ち家絶え、沢山の蔵面も散逸し中には海外に出てしまったものさえある。かく千金にもかえられぬ能面を、二束三文で売り飛ばしたと云う事は、残念の至りである。その後暫く面打ち師はなかったが、明治の末下村豊山面打ち師としてたち、続いて中村直彦も能面の研究を始めた。

 能面の模作と云うことは、よいかわるいか一週間であるが、彫刻と云う方面から観察すれば、古作に模する事のみ従事していては、進歩発達、主として形式上の進歩は望まれぬ。然し是を今日の能楽から見れば、「模作」と云う事は必要である。能楽は足利時代から徳川中世頃迄に大成せられ、今では結晶した芸術であって、現世とかけ離れた所に無量の味わいがある。既に結晶芸術であって見れば、万事保守的であらねばならぬ。随って夫れに用いる面の如きも新しい形式のものを用いる要はない。否反って能楽の幽玄を破壊する恐れがある。依って昔は別として、今日の面打家は「模作」を根本精神と考える必要があると思う。次に能面研究の参考書を、

・ 直接に必要な参考書

[イ]面目利三部  喜多古能の書いたもので、・一・面目利書細工各伝・二)面目利奥入面目利伝由来(三)面目利書彩色裏大握細工類寄と分けて記載してある。古能は、児玉近江の説をもとにして、夫れに自家の説をまじえたのである。喜多宗家の秘本で、上野図書館に其の写しがある。

[ロ]仮 面 譜  喜多古能の書いたもので、能面歴史の研究上最も貴重な材料である。

[ハ]能楽仮面号  雑誌能楽第七卷第一号で、面に関する事ばかりを集めたものである。

[ニ]芸窓集載   故横井博士の著で、明治書院の発行である。「仮面彫刻」と云う論文を参照すべきである。

[ホ]工 業 史  故横井博士の著で、桃山時代徳川時代に於ける能面の工業上の地位が分かる。弘文館の発行である。

[へ]工 業 鏡  故横井博士の著で、能面作家の伝記を研究するには、重要な参考書である。

[ト]能面 古図  写本で内閣図書庫にある。

[チ]名作古面図  之れも写本で、内閣図書庫にある。

[リ]能面代表作家の研究 是れは余の書いた論文で、能楽書報、考古学雑誌に掲載してある。

[ヌ]能楽大観   広田花月の著で、能面作家の事が載せてある。二三の誤りを除けば、参考になる。

[ル]舞楽蕊葉大全 是は六冊本で、衣装、面、作物、小道具に至る迄記載しあり好参考書である。

[ヲ]筺 秘 集  金剛流の秘書である。

[ワ]大野 文書  赤鶴是閑に関する史料がある。 

[カ]能面使用別  斉藤香村氏の研究で、謡曲講座中の一編をなしている。

[ヨ]能面概説   余の著述で、発行所は「わんや」」である。

  斉藤香村氏は、宝生古將監著面謁記、観世太夫元章手写本、観世太夫清尚手写本

  児玉近江家伝書、出目元久家伝書、大野出目家伝書、享保六年四座太夫及喜多十太夫書上。出目壽満手写本、柳庵随筆等を蔵している。

(2)間接に必要な参考書

  是は随筆、文書類を指したもので、例えば大野素文談、越前人物誌、大野郡誌翁  草の如き種類を指したものである。

  是等の史料を引用するに際し、如何なる注意を要する?古来能面の事を書いたも のは多いが、信用す可らざる事実が多い。依って玉石混淆の材料を一々鵜呑みにし ては無らぬ。慎重なる注意を要するのである。誤りの一例を云うと、赤鶴は弘安年 中の人であって、越前大野の仮面師である。越前人物誌は、赤鶴に就いて、

 「會て観世家に住す、一日狂言師大倉某吉成を訪い、武悪の仮面を作らん事を乞う吉成事を以て之を辞す、後又大倉到り贈るに小豆餅を以てす、吉成性酒を嗜まず、最も餅を好み、この小豆餅を得て欣々然是を諾す、偶々小豆餅のびて異常をなすをみて大いに悟る所あり、機敏うぃ利用し、意匠立ちどころに成り、彫刻功をねり、塗るに赤色を以てし、斬新奇抜の武悪をつくる、之を大倉に示す、大倉掌をうって妙とよ  ぶ、後狂言師鷲尾宇衛門の所有となり、又東京博物館に転じ、今猶同館に存せ   り。」

と記載している。以上は伝説であって歴史事実でないのを、某氏は直ちに「赤鶴は江戸時代に観世家に住す云々」と書いて、世を惑わした。是は能楽史の知識ある人なら

信じ得られぬ事である。弘安中の赤鶴が観世家に住すと云う事もなければ、況や江戸時代に住んだ筈が無い。是は古書を見て、伝説?を見分けなかったから生じた誤りである。金剛流秘書筐秘集に、

「息、赤鶴吉成越前大野のものなり、後宇多院弘安頃の人なり、佐渡に住せし事あり佐渡にて打し面に白毛書のところに刀目あるなり、一刀とも云う又云う信州諏訪の湖に浮木あり、そを得、般若の形あるより手を入れて彩色したる事あり、赤鶴天狗面を打ちたく所願したれば、天狗顕れて、一日半顔つつみせ、雨度に面成就す云々」

とある。此中から歴史材料を得んとするには、此書物の年代を定める必要がある。次に史実と伝説とを分類して見る。伝説の価値は書物の出来た年代の古い新しいに依って違う。出来た年代が古ければ古いだけ伝説の相場は高くなる。この中、諸書と比較研究した上永世動きなき史実は、「佐渡に住せしことあり云々」は、第二の史料とはなるが確実とは云はれぬ。その他は皆伝説であって、史料とはならぬが参考にはなる。依って史実を直ちにとって歴史の材料とし、伝説をばそのまま参考に供するのである。


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