第二章  作家の研究

此章に於いて各作家の伝記及製作上の特徴を合わせて記述する。其順序は、

 ・ 雅楽専用期

 ・ 猿楽専用期

  ・ 前期 [い]福原文蔵の時代 [ろ]赤鶴の時代 [は]福来の時代

  ・ 後期 [に]三光坊の時代 [ほ]河内是閑の時代 [へ]友水の時代

       [と]友水以後

に随い、各代表作家の時代へ、其時代の作家をこめて記述する。

 福原文蔵の時代前に、猿面家は神作 唱えて、聖徳太子、弘法大師、春日等を作家として挙げている。古能は是を説明して、 

 ・ 聖徳太子│人皇三十一代敏達天皇元辰年誕生、千二百二十六年

 ・ 淡海公 ・人皇三十八代斉明天皇五未年、千二百三十九年

 ・ 弘法大師・人皇四十九代光仁天皇五虎年生、千十四年

 ・ (トリ作とも云)人皇三十四代推古天皇の御宇、百済国より仏工来

  改名蔵部の登里と云、大和春日里に住す、故に春日と云う、凡千二百年余

と大略の事態をあげて神作の神聖なる所以を説いて居る。伝えに曰く 金剛家には

春日作の翁面、不動面、宝生家には春日作翁面、淡海公作の翁面、金春家には聖徳太子作の天面、翁面三番神、及び弘法大師作の翁面あり と。けれ共是らは何れも取るに足らぬ附曽の説である。聖徳太子は音楽の奨励者であったが為に、音楽と云うとすぐに、聖徳太子に因縁をつける癖がある。此弊が重なって、古面を聖徳太子作等と云うは、頗る当を得ない。古能の如きは神作を疑って、「聖徳太師、淡海公            、弘法大師、春日

右その類見ること稀なり、弁じ難し、適適見ることありといえ共信じ難し、但裏の様子凡作を雑れたるもの稀に有之、是ら真なるものか云々」

と云うて居るが達観である。神作の性質此くの如くであるが、所謂神作なるものを見るに、今日では皆古作であって技の巧拙は二段として、見れば見るほど無限の味のでてくるものである。聖徳太師作とか弘法大師作とか附合せずとも味のあるものである。余は神作に対して、「神作は、大部分は古作に後彩色して、種々の伝来を付記したものである」と解している。

    

     第一節  前期 

 

 (イ)福原文蔵の時代

  福原文蔵より時代は前であるが、朱雀村上天皇頃に、日光、弥勒、夜叉と云う三人の面打師があった。世阿弥元清の遺著猿楽談儀に、「一、面の事、翁は日光打、みろく打也、此座の翁はみろく打なり、伊賀をはたにて、ざをたてそめし時、いかにして尋ね奉りし面なり・・・・恋の重荷の面とて名よせし、わらい尉

は、夜叉が作也」とあって、此三家の非凡の技を賞賛している。日光は近江国三井寺僧であるが、弥勒夜叉に就いて正確なる事歴は不明である。「面目利書細工各伝」に、

日光・・彩色細にて堅き方なり、表鉋目太平なり、堅法鉋目あり。        

弥勒・・彩色少し荒く堅く光沢なき方なり、裏鉋目浅く少き方、日光より平に小さし

夜叉・・彩色細に柔なる方なり、裏日光同様にて堅鉋目細にて赤鶴に似たり。 

とある。能面研究者は、刀法、趣味の研究も必要だが彩色の研究も必要である。刀法は根本であるが、彩色悪くば、其刀法も殺すのだから、刀法と彩色の研究は怠ってはならぬ。日光の彩色は、柚肌である。古能は柚肌について「彩色荒き様なれ共、実は細にて堅く柚の肌の様なる趣あり」と説いている。弥勒の彩色は梨子肌である。梨肌は「彩色荒き様にて堅く光沢なくざらつきある故名づく」夜叉の彩色は作彩色である。「作彩色は至って柔らかに光沢あるを」云うのである。(古能説)三人共別種の彩色である。余は「夜叉の年代に就いて、従来の伝えを疑う者である。其理由は、

 ・ 作彩色は時代の後れた彩色で、一概に云えぬが、梨肌柚肌よりは後のものであ   る。                    

 ・ 申楽談儀に、「越前には石王兵衛、其後龍右衛門、其後夜叉、其後ぶんぞう    云々」とある。

 余は、「朱雀村上の朝よりは遥か後世の人なりと疑いを存して識者の教えを俟つ。

(古来一説に足利義満の頃永和年間の人との説があるこの方が正しくはあるまいか)

 福原文蔵は、後朱雀後冷泉頃の人で、姓に就いても永原?と云う説もあり、又は福原住文蔵主に云う出家なりと云う説もある。然し余は異説を排して、敢えて福原文蔵にて可なりと信ずる。文蔵の事歴は不明である。文蔵の彩色は作彩色である。細工各伝に、「彩色荒く堅き方、光沢あり、裏日光同様堅鉋目もあり、但日光より鉋目細成方なり」と。

 文蔵の面は甚だ少ない。面目利書に以上四人を総括して、

「右四人翁総四面にあり、常の面には至って稀なり。夜叉文蔵はたまさかなり。日光

弥勒は見ず、裏も真塗多し、木地裏は甚だ稀なり尤も危うし」と云うている。古能の調査に依ると、文蔵の面は観世左近家にありしアワ男、及茗荷が著名なもので、特に茗荷は、茗荷悪尉と云うて道明寺杯に用い、重荷悪尉などは別種の趣がある。夫等の人々の伝記が詳で無いことは残念であるが、近来郷土史研究熱が勃興してきたから、或いは多少の材料を得られるかも知れぬ。又猿楽家の所銑謂古作「般若坊、真角、東江、千世若、ヒコイシ、心能、虎明」等に就いても一言しておきたい。是等古作といはるるは、第一作者の歴史的存在すら不明であって、製作品もわからぬのである。古能の如きも古作に就いて、「古能と云い伝ふれど、一面のみ作ると見えて外に聞こえず」と云い又、「右の類世間にある事なし、細工論じ難し」と云うて居る。余は・作者の伝記不明にして、一も史料のなき事、・作の伝わらぬ事に依って是等の作者には重きをおかないのである。

(ロ)赤鶴の時代

猿楽家の所謂十作の一人なる石川龍右衛門重政、日氷宗忠は、共に赤鶴と同時代、正しく弘安頃の人である。此二人は製作の多き点からと、技術の点からして、赤鶴に及ばないのである。

 日氷は越中国日氷郡住の人、一説に法華宗の僧と云われる。氷見は万葉の歌に日美江とあり、古へ蝦夷の住地で又海外人の漂泊地で火見とも書いたが、中古祝融の災あるを以て、氷見と改めたと云われている。此氷見郡に残っている氷見の伝説は二三有るが、史実を取り出すと以上数句になってしまう。四座系圓に、「増阿彌と同時、越中法華寺坊主也、姥、蛙、疲男、景清』とある。増阿彌は永和年中の人、是れに随えば日永は足利義満時代の人となってしまふが、余は製作上から見て、古能の説に賛成し弘安年中の人と信じて疑はぬ。面目利書に「彩色少し荒く至て堅く光澤なし、一体は至て美しく上品に出来たるものなり、俗に梨子肌と云ふ類なり、裏龍右衛門の類にて鉋目強く見えず」とある。石川龍右衛門重政(辰右衛門とも云)は、山城國四條住の人と云はれるが、傳記は不明である。、弘安年中の人と云ふ事は否定する事が出来ぬ。女面を得意としてゐるが、男面。霊物にも非凡の腕をあらはしてゐる。元来能面には偽作が多いが、此人や赤鶴のものに持に多い。偽作は徳川時代ーー模作を主とした時代に可成多量に生産せられた。「申樂談儀」に、「越前には石王兵衛、其後龍右衛門云々………石王兵衛、龍右衛門迄はたれもきるに仔細なし、夜叉より後のはきてをきらふ也、此座に年よりたる尉、龍右衛門云々」とある。彼れの彩色は作彩色である。其特徴は、面目利書に、「彩色至って細かく、至って柔かく、甚光澤あり、毛書其外一体至って美し上品に出来たるものなり、世俗に作彩色と云ふもの是を元とするが、裏平なる方にて鉋目強く児えず、鼻筋、上廣く取りてあり、是を龍石衛門の證とするなり、……小面其外柔なる面の最上なり、強き面の類少なし」と。赤鶴は、前二者と違ひ澤山の傳説があり、余も興昧を以て夫れを集めて居る。越前人物誌、大野郡誌、金剛流秘書筐秘集、大野文書、大野素文談は、是非一読す可きである。傳説の中、前に記した小豆餅の傳説は、可成に古く「越前人物誌」が是を公けにしたのだが、「観世家に住す」などゝ云ふ歴史的の事実に合はぬ記事があり、叉「狂言大倉某などゝ云ふ弘安頃になかった家が出てきたりするが傳説としては面白い。又上野医学士は「破れ笠」の傳説を本として、赤鶴は天才家に通有する瘋癲に悩みし事あ

りとの説を嘗て「能樂書報」で発表された。氏は「赤鶴に就いての新発見」と大看板を廣げられたが、唯傳説を基礎としたる貧弱な説に止って居る。此「破れ笠」の説の大要は、著者雨簑道人が越前の外茂津を通った時夏の事とて、咽喉が乾いた為め、とある一小社の清水を汲んで呑んだ、不圖社内を見ると怖しい顔の面がかゝって居る、社司に謂れを問ふたら「昔此の隣村には赤鶴と云ふ面打師か居た、赤鶴は瘋癲病に罹って困って居たが、或る夜の夢に、外茂津の明神に参籠すれば、平癒疑ひなしとあったので、一心に祈願して終ひに全癒した、そこで御禮として一箇の面を彫って奉納した、この面が即それであると答へた」と云ふのやある。例の筺秘集にある。佐渡にて打し面に白毛書の処に刀目あるなり。一刀齋とも云ふ」のと又信州諏訪へもいったと云ふは、疑問である。要之赤鶴に就いては、石川龍左衛門と同時代、越前国大野佳、一透齋と號したと云ふ歴史事實丈けで「吉成神太夫と云ふ能役者なり」と云ふは箪に一説に止まるのである。彼れの技術は慥かに一天才家である。面目利書に、

「彩色至って細に柔なり、但し龍右衛門よりは少し竪し、光澤あり、毛書其外一体至って強く上品に出来たるものなり、裏鉋目疏なり、稀れに竪鉋目有り、目利口傳あり。強き面の最上なり、柔なる面の類抄少し」と。即ち赤鶴は越前人物誌にある如く「大飛出、小飛出、大癒見、しかみ、鷲鼻。獅子、天神、黒髪等の所謂強き仮面」を以て特技としたのである。亦鶴と龍右衛門との技術を比較して児ると、龍右衛門は小面其外柔なる面に巧みだが、赤鶴は正反對に強き面に巧みである。かく両人の抜は其得意とする所相反して居るが為め、比較は困難であるが。龍右衛門の方がより天才肌と云ひえやう。赤鶴と龍右衛門の輩出は恰も桃山期に於ける河内と是閑との輩出に似て居る。四座系圖に依るに、赤鶴作の著名の面は「般若、飛手、長霊、天神。黒髭大?、獅子口、猿」とある。古能の調査に依れば、金春太夫元信所有−釣眼。蟹しかみ、大天神、小天神、小飛手。金春八左衛門所有−大飛手、小飛手。

大蔵太夫所有−小天神、アマザクロ、小?。小飛手、大?。

春日太夫所有−獅子。

観世左近所有−小?、?、泥眼、天神の大飛手、黒髭、小飛手、山姥、大?。

喜多太夫所有ー悪尉、?、大飛手、黒髭。

金剛太夫所有−蛇。黒髭 獅子口、大飛手、小?、天神、大?。

賓生太夫所有ーキシル、小飛手、小悪尉。般若。大飛手。

鷺穫仮し

鷺権之丞所有−(狂言面)夷、ヲクレ。

大藏彌左衛門所有1(狂言用)昆沙門、武徳、賢徳、猿、黒色。父尉似り、女猿、耳猿、牙武徳、祖父。

大蔵八右門所有−(狂言面)猿、夷。

鷺傳右衛門所有−武悪、賢徳。

龍右衛門作の著名の面は、四座系図に依れば、「小面、邯鄲、姥、童子、狸々、ナカ等

であるが古能の調査に依れば、

金春太夫所有ー小面、中將、狸々、姥、邯鄲男、連童、董子、ヲ、ナカ。

大藏太夫所有-小喝食、中將、邯鄲男。

喜多十太夫所有−曲、曲女、増。

金剛太夫所有−増髪女、小面。

賓生太太所有−十六、笑冠者、喝食、近江女。

鷺権之丞所有1(狂言面)武悪。

大蔵彌右衛所有1(狂言面)白藏主、鼻引、登髪、末社、

大藏八右衛門所有−三番叟、フクレ。等である、維新能樂師瓦解の折、是等の面の中、散佚したものが頗る多い。赤鶴には概して釣眼、顰、大天神、小天神、大飛手、小飛手、大べし見。黒髪、般若の如く、強い面が多い、是れに反して龍右衛門作には小面、中將、童子、小喝食の如く弱いものが多いのでめる・現に金剛宗家は龍右衛門作の小面、般若、赤鶴作の牙べしみ(上杉家より拝領せしもの)大飛出、蛇、叉謹之助氏は龍右衛門作小面、般若、赤鶴作のべし見、悪尉を所有して居る。是等は何れも得難き珍品である。猶記す可きほ、猿樂家は十作の他、四作、八作と云ふ區別をも用みて居る。四作は夜叉、彌勒、文蔵、日光を云ひ、八作の中へは赤鶴龍右衛門もはいって居る。(ハ)福来石王兵衛の時代

福来の時代は猿樂革命の時代でめる。此の時代へはいる人は、越智吉舟、小牛清光徳若忠政、増阿彌久玖。春着、寳來、千種、等でめる、(脇餓hw訊捌鰍馳)越智育舟は和泉幽貝塚佳の人と云はれ、能墨世阿彌は「近頃ゑち打とて、ざせんゐんの打。宇治のものなり、女の面じやうすなり」と評して屠る。龍衛石門系続の藪衛で、矢張り弱い厨が得意である。彩色は刷毛目彩色のものも柚肌のものもある。作は一体に強(上品に出来て屠る。厨目利書に「裏目氷同様叉横鉋目もあり、目刺口傳めり」とある。小牛清光は大和竹田の人、小牛尉と云ふ面は小牛創作の型である。彩色は党く柔かな方で、一體に彊い出來だが光澤は乏しい。裏担水色白げたる方で、木目通鉋目はない方である。これ小牛の特徴であって、彩色は梨子肌に似て柔である。徳著忠政は、鎌倉佳の人(俗に大和住)傳記は不詳で、種府の説があり、一説には徳若太夫と云ふ萬歳でめったとも云はれてゐる。彩色は荒く堅く光澤なき梨子肌、徳着の彩色の堅い事は獨特である。一體に強い出来で、裏木地白く鉋目なく、裏には往々「鎌倉安野太子」と刻したのがある、i増阿彌久次は大作の一人で、假面譜に人皇百代後圓融院、永和年中の人、山城國京師在住、足利義満公同朋也と云ひ、一説に久次、永和より今年迄四百廿三年とある・彩色,至って細く、堅く、非常に光澤がある。古能日く「毛書の類上摺ある程なり、一體に至って美しき出来にして、裏は一面にて鉋目少なく赤鶴に類す」と。増女、泥眼、孫玖邸、増髪女、小姫、曲女、近江女、霊女は著名である。若い女面の「増」は増阿彌の型によったものであるからして生まれた名称である。作者の名を其まま面の名にしたものは此処にもある。小牛の小牛尉、石王兵衛の石上尉の如きはこの例である。増阿彌は能役者であったとの説もあるが詳かでない能役者にして面を打ったものもないとは云えないが増阿彌が能役者なりとは不詳である)春若は丹波守とも春若太夫とも云はれるが.徳若の甥である事は信す可きである。彩色は少し荒く、堅さ方である、光澤あって、俗に柚肌と云はれてゐる。寶来は福来の子と云はれるが、確證は無い。古能曰く「彩色細に柔成方にて、光澤あり、赤鶴三光坊などに類す、一體は美しき方なり、裏一面に細き堅さ鉋目なり」と。金剛家の「賢妻」は著名である。作の傳はってゐるものは極めて少ない。千種は、千種大納言との説もあるが、確證はない。鼓筒師であるとも云はれてゐるが之れは事實らしい。彩色は梨子彩色に似て柔かい。一體に美しい方でもなく、強くもなし、中位のものである。.2’凸

一福来は越前の一條住の人と云はれてゐる、福来石玉兵衛一石翁兵衛)に就いては、「福来と石王兵衛とは、別人なるを後世此二人を混じて一人の如く誤れるならん」との説がある。余は是を一人と見て此説には賛成せぬ。世阿彌は「越前に石王兵衛」と云ふて福來の抜を嘆称して居る。其彩色は梨子肌に似て光澤なく柔かである。古能日く、「彩色は荒く柔かにて光澤なし、小牛に類す、一體に強し、裏細なる飽目あり、爾頬に竪鉋目あるもあり」と。福來の作も今日では多くない。古能の調べに、金春家に悪尉、山姥、鼻瘤、石王尉。観世左近家に皺尉、朝倉、大悪尉、金剛家に無鬚尉、中尉、石王。寳生家に舞尉 朝倉、笑尉。等が著名でめると云はれてゐる。彼れの得意とする所は、皺尉、石王、阿瘤尉、無鬚尉、名荷鼻瘤等にある。・

更らに古作に蹴いて記す可きは、古能は、「真の古作と云ふは大方は越前出目萎三代近江井關三代・其外中作太閤時代のものなり」と云ふたが。これは事實の真相を看破した論で敬服に値する・真の古作は甚だ少なく以上(ハ)期に掲げた作家の作も真作は{至って少ないのである。〔イ〕龍右衛門作と云ふは越前出目満照打也。〔口〕赤鶴三光坊と云ふは近江井關親信打也。〔ハ〕徳若小牛等と云ふは近江井関治郎左衛門打也。〔二)福來、千種と云ふ類は、ダンマツマ多し。〔ホ〕増阿彌と云ふは慈雲院角の坊の類也。〔へ〕小牛、福來、千種の類には、大和打多し。の如く後世に古面の模作多く判定に苦しむのである。徳川期模作の時代に。古面のにせものが随分澤山に出來た。古作に模する彩色も中々発達して、「古び薬の如きを用ゐた、洗ひ彩色油彩色の如きは面打家の秘した所のもので、それらは模作に必要なものであった。第二節・後期(二)光坊の時代前の(ハ)期を「猿樂革命」の時代と云へば、三光坊の時代は「大和猿樂革命大成蒔代」と云ふ事が出来る。即革命期と大成期との差がある。この一般的時代変化は、能面製作上にも一変化を輿へ、能面形式の大成をなした。叉職業の上から云へば此期からして假面工は純粋の能面作家となつて、其職を世襲するに至った。三光坊の時代へ猿樂家の所謂中作即愛若、慈雲院、宮野、財蓮、吉常院、智恩坊、大光坊幸賢を入れて論する。猿樂家の謂ふ中作に就いては二様の解釈が出来る。一は「時代の観念からして古作よりは新らしきものなり」との意味、叉一は「作の巧拙品評の語」とも取れる。古人は「中作の中にも上作の物多し」と云って後説を取るものが多い。余は、前説を可なりと信ずる。愛若は、春若の子と云はれ、一説には愛若太夫なりとも云はれてゐる。即ち徳着一、某−春若1!愛若との血統になる、裏、彩色共春若に似て居るが、作は至って少ないのである。裏に「愛若」と彫り付けてあるものがある。慈雲院は、伊豫國ヤカタの住と云はれ、彩色は増阿弼に似、裏は實來に似て居る。観世元章は、「龍左衛門に似たり」と云ふて居る。豊太閤の文禄頃から元和頃迄能界で活躍し(素人ではあったが)自ら面をも打った、下間少進法師は慈雲院作の蛙の面を所持してゐたと元草は記述してゐる。

■■●■財蓮は、西蓮とも書き、越前永年寺の僧でめる。彩色は日氷徳若に類し、裏は黒く黒塗の様に漆でとめ、鉋目がない、元來中作の人々の作は、莫作品少なく、今では徒らに名のみ聞こえると云う有様である、特に宮野(南都若宮社人)、吉常院(南都興福寺僧)、智恩坊(吉常院と同じ)、大光坊幸売(越葡永平寺僧)の類は、存するものが甚だ少ない、古能も是等の人々に封しては、「右の類慥なるもの見ず、論じがたし、尤印判形名等、彫付ある事なし、今世に古作と云ふもの、是等の類を最上とするか、但し中作の裏は黒く漆にて塗摺はがしたる様なるものあり、是を中作裏と云ふ、又木地にて荒木作りなる様なるをも中作裏と言ふ、實には両用とも信じ難し」と云ふて居る、此他この期に属する作家に正作、永椿。紀太新次郎等があるが、現在作品は伝はってゐない。

三光坊は、後土御門天皇の御宇文明中の人、初め越前の平泉に住し、後近江比叡山の某寺に住し、又山城國醍醐最勝院にも住したと傳へて届る。彼れの藝術的傳統は、一三光坊 (上総介親信 二郎左右衛門満照 大光坊幸賢)であって、満照は三光坊の甥であるからして、三光坊の傳続は寧ろ出目家にありと云ひ)得る。三光坊の作は甚だ多く、四座系圖に、「比叡山三光坊(是は醍醐寺に土橋と云う所在其辺に今当跡あり)三光坊、大藩小尉」とある。叉古能の調査に依ると、金春太夫所有の小尉、三光大藩、小藩、大蔵弼右衛門所有の通園の面が著名やある。余金剛謹之助氏所有と云ふ三光の面を見て莫妙抜に驚いた、細工各伝に「彩色至って細に、柔なる方なり、光澤あり、一體は美しく上晶の出来なり、裏木地黒みて古く鉋目なし云々」とある。通例古作の彩色は、柔なる如く見えるが、これは数百年の年月を経たので、自然と彩色が柔なる如・見える事もめるのであらふ、古能はさすが卓見を懐いて居る。「龍右衛門、親信、満照の類は、實に始めより柔なるが、赤鶴、三光坊、春若の類は、初めは堅さ彩色にて、年を経て柔かになりたるかと思はる、所あり云々」と。是等は大いに参考にす可き言である。余はこの期に於いて、便宜上、出目家・井関家の一部の人の研究をしておく。・親信(ちかのぶ)は井關家の租で、近世の名人であるが、彩色は至って細かで柔かで、赤鶴實来に類する点もあるが、性質は三光坊に能く似て居る。額に「イセキ」と彫り付けてある。是は鑑定家の目標とする所でめる。親信作で形のよいものは、古作になったものが多い。全體として形はよい方で無い、古能は、「古作は赤鶴。寳來、龍右衛門、三光坊の類に極まりたるもの多し」とめる。唯此人の欠点とする所は、三光坊に似た点はあるが獨創的分子の少ない事である。

次郎左衛門は親信の傳統や、近江国海津住である。彩色は似親信と違ふて至って荒い方で。至って光澤は無い。梨子肌と云ふものに属する。彩色が薄くて本地の見える程のものもある。裏は黒く墨塗の様である、此人の作で上出来のものは古作に優る。額の裏に「イセキ」と彫り付けてある。鼻の上に三角形の細工印がある。然し形のよいものは、彌勒、日永、徳著の類に似て居る。ビツチウノジャゥ備中縁は、矢張次郎左衛門と同じく近江国海津住の人である。親信から是れ迄を近江井關と云ふ。四代家重は初め近江に居たが、後江戸にうつたのである。備中橡も非凡な作家で無い。彩色は堅く、光澤あって柚肌に出來たものがある。又光澤なく、梨子肌に出来たものもめる。叉河内の如く柔かに出来たものもある。此人には是れと云ふ特徴なく濁創的の才には極めて乏しかった。裏は小さい平鉋目で春若に似て居る。又日光に似たのもある。総じて、此人程判定に苦しむ難物は少ない。要するに、井關三代には古作になつたものが多くて、獨創と云ふ点が乏しい。是れ次郎左衛門は親信の伝統で、近江国海津住である。彩色は親信と違ふて至って荒い方で。至って光澤は無い。梨子肌と云ふものに属する。彩色が薄くて本地の見える程のものもある。裏は黒く墨塗の様である、此人の作で上出来のものは古作に優る。額の裏に「イセキ」と彫り付けてある。鼻の上に三角形の細工印がある。然し形のよいものは、彌勒、日永、徳若の類に似て居る。ピッチウノジヤウ備中橡は、矢張次郎左衛門と同じく近江国海津住の人である。親信から是れ迄を近江井關と云ふ。四代家重は初め近江に居たが、後江戸にうったのである。備中橡も非凡な作家で無い。彩色は堅く、光澤あって柚肌に出來花ものがある。叉光澤なく、梨子肌に出家たものもある。又河内の如く柔かに出来たものもある。此人には是れと云ふ特徴なく獨創的の才には極めて乏しかった。裏は小さい平鉋目で春着に似て居る。叉日光に似たのもある。総じて。此人程判定に昔しむ難物は少ない。要するに、井関三代には合作になったものが多くて、獨創と云ふ点が乏しい。是れが井關三代の特質である。満照は三光坊の甥であるが、細工は至って麗敷上々の作に属する。彩色は至って細かで一柔かで光澤がある、(俗に云ふ作彩色)裏鉋目綱かに竪鉋目も交るのである。鼻の上に竪に鉋目がある。これがこの人の細工印である。形は至ってよく古作になりたるものが多い。古能は「世上に龍右衛門作と云ふは、満照打なり」と云ふて居る。是は古能の鑑識眼の高きを證するもので、満照が如何に古作模倣に巧みでめったか“分る。換言すれば、彼れの作に。龍右衛門に似又赤鶴そっくりのものあるは、模作に巧みな事を證するのである。則満は二郎左衛門と云はれ上々の作である。彩色は梨子肌である。全體としては荒くして光澤はない。裏は鉋目少なく、木地は白く黄ばんでゐる。鼻の上に竪に細工印がある。形は悪いものの方が多く、よいものは、多く古作になって屠る。特に彌勒・日永、福来の類には、多く則満の細工のものがある。故に福米作と云っても・直ちに夫れを以て福來作とは判定し難いのである。秀満は古源助とも云はれる。上作である。彩色は細かな方や、少し荒く堅く、刷毛目の趣きもある、裏は細かな横鉋目が多い。秀満作は残れるもの甚だ少ないので、研究はむづかしいのである。然し日光、越智、春若と云ふ類の中に、古源助即秀満作のものが多いのである。要するに越前出目三代も古作になりたるもの多くして、獨創のに才乏しい。(ホ)河内是閑時代  河内、是関の時代は、工業史から云へば桃山時代である。桃山時代は工藝史上華やかな時代であると共に、能樂史上又大いに注目す可き時期である。特に能美術(面.装束、作物、小道具)の上から見て1興味深い時代である、又能面史上より見たる此時期の価値は、河内、是閑が単に名人であったと云ふ意味のみでなく、この両人が従来の形式の枠を取って是を巧みに換骨脱體し得て、新時代を形成したと云ふにある。

横井博士工業史に、「是閑はじめ大野に住し、後京師にうつり、豊太閤の寵をうけて天下一の名誉號を得たり、世にこれを大野出目と云ふ、河内は親信の孫備中橡の子にして、近江に住し、後江戸に移れり、この二人いで、化面彫刻を一新せりと云々」とある。此意味からして此時期の研究に意を尽すのである。便宜上「中作以後」をこの期に於いて論する。中作以後とは、角の坊、ダソマヅマ、山田嘉右衛門、野田新助、棒屋孫次郎を称するのだが、其伝記は甚だ不名瞭である。此期へ入れる適否に就いては、余には確信が無い。四座系圓の面作覚は、「近江」の作と云ふ中に入れてあるが、余は暫らく此期へ入れて論する、角ノ坊は、初め若狭守と云ひ、山城醍醐角ノ坊の住僧で、光盛法印と云ふたと云はれる。。醍醐の土橋に彼れの奮跡ありと云はれてゐる。然しこの人の事歴には三光坊と

 

混じた点があると思ふ。文禄の役に名護屋の陣中、招かれ。金春観世爾太夫持参の面を模作して天下一の號をゆるされたと云ふ話しが、太閣記巻十四に詳記されてゐる。彩色は至って細かで、至って堅く光澤強く、増阿彌に似て猶ほ堅いのでめる。裏は赤鶴に似て居る。特に黒きは赤鶴そつくりである。又鉋目なぎは徳若に類し、木地は鼠色に少し青みあって。是閑に類して居る、これ獨創の力の無い一謹である。ダソマヅマ(檀松間)は如何なる人か詳くは分らぬ。長命徳左衛門の伯父で、圭として狂言面を打った。一貫生太実家にある「冠形悪尉」はこの人の作である、彩色は至って細かで光澤なく柔かで、{家の如くなるものが多い。又堅く光澤あって、作のよいものもめる。裏は鉋目荒く赤鶴に似てこれよりも荒い。先づ「日光彌勘の類に似たり」と云ふがよいと考へる。古能は彼れの鑑定を「但し目の裏四角と取たるなり、是をダソマヅマの證とするなり」において居る。、山田嘉右衛門は、四座系図に山田喜兵衛とあるが、嘉右衛門と云ふ方がよい。ダンマツマの弟子とのみで、名瞭を欠いて居る。彩色は少々荒く、柔かな方である、裏は平鉋目のもあり堅鉋目のもある。木地は黄ばみがある。黒塗もある。。野田新助の事歴は不明である。作も少ないが、「秀能井」と彫付けてあみと云ふが如何にや。古能は「慥なるものを見す、論じ難し」と云ふてあきらめて居る。余も不幸にして、此人の作を論する能はぬのである。棒屋孫十郎の事匿も叉不明である。かの孫家郎と云ふ面は、金剛孫次郎の作と云ぶが定翫であるけれ共、或る人は是を疑って、蘂十郎の作を孫次郎と誤ったものであるまいかと云ふてゐる。猿楽伝記(猿樂由緒列傳)「金剛が幼子右京十四歳にて家を立甚上手なり、渠が妻早世せし時、入棺を暫留め置、其顔粧を面に写し、是甚美人なれば、此面を揚貴妃の能に用みる也」とあるを根據として、美人の妻の病死したのを写したと云ひ傳へて居る。此の孫次郎の面は孫十郎の作では無く正しく孫次郎の作なのである。孫十郎の作は、彩色は龍右衛門に似て居る、但し裏鉋目一面に木の葉の模型の如くでみる、是を孫十郎の細工印と申して居る。桃山時代に河内、是閑の輩出した有様は、恰かも佛師に「定朝運慶の出でたるに比す可きである。河内大橡家重 家重は上纏介親信の孫備中橡の子である。近江に住し後江戸に移住して正保二年迄生存して居る。井闘家の系圖から云ふと、彼れの時代から近江井関を離れるのである。近江から江戸に移った年代は明かに分らぬが、余は秀吉没後と考へる。河内は古今の名人であるからして、この人に関する伝説は甚だ多い。一二を代表にあぐれば、河内は始め鞍師の名人であったが、鞍は馬にかけて跨る者、面は之れに反してかける時に一禮して頂くものである。同じやるなら此方が高尚である」と考へて面打師になったと云ふ説「河内は後に商賣がへをして医者となったと云ふ説」の如きで、何れも名人に附會して作った俗説であるが、前説は多少信するに足ると考へる。又河内を正保年中の人として論ずる人があるが、是れは河内の没年であって、彼れの全盛は、桃山時代から徳川初めへかけてであった。河内の作は・修業時代、・大成時代に依って著しく違ふ。修業時代の作は、模作の範囲を脱する事能はずして、皆古作になってしまってゐる。若し河内にして、古作に模する事に満足して、新機軸を出す事を勉めなかったならば。彼れの名は、先祖親信以上に上る事は出來なかったであらふ。然るに彼れは模作に満足ぜず、鋭意研究を怠らず終ひに河内式の彩色を工夫して、彩色界に新らしき生命を興へた。大にして云へば彩色界の革命である、河内工夫の彩色は、・河内彩色、・打彩色である。古能の言をかりれば、河内彩色と云ふは、彩色至って柔かに光澤少き方にて柚肌の様なるものあり、叉梨子肌の様なるものあり、刷毛目もあり、千変萬化一様ならず、何れも膠薄くほつこりと出來た物」である、此彩色の傳来は河内、大和、近江。洞雲長雲とつゞく。1打彩色と云ふは筆を用ゐず、布に彩色をつけて打ちつけたものである、是らが河内式の彩色である。或る人は打彩色は河内の創始にあらずして、洞白の創始やあると云ふが、余はこの説に不賛成である。河内、大和に打彩色のものが多く存するが論より證據である。是を要するに河内は、獨創の才にとむ天才家であった。面目利書に、「裏は鼻の内は細に取りて穴の所へ深く鉋目二つ有、右の髭の裏の所に菊の花の様なる鉋目有、焼印二色有。銅印は浅し、又金を摺込みたるも有、繊印は深し、木地裏は水色白く所々に黒み有、班裏と云ふ、叉赤く塗りたるも有、叉黒く真塗に致したるは下地を胡粉にて仕立て蝋色の様に仕立て上げたり、是は漆にて地を仕上くれば地をかくる故、水を付くるを彩色の為めに厭ひて河内工夫の塗なり。古びも付易く、叉早く透て見事に見ゆる也、溜塗の様に塗りたるも有。是等の工夫手段凡人の及ぶべき所にあらず、都て河内は古作にもならず、後世に腐せべき者もなく古今へ獨立の望なりと見えたり、焼印の事は初め鐵印を用ゐ余り深く焼き入れ見苦敷として銅印にかへたらと云ひ伝へたり、但し古能考ふるに鐵印の物の細工銅印の物より遥に勝りたり、然者銅印の方前にして鐵印は後なる事明かなり、叉考ふるに河内焼印委しく見れば、印中少しづ、違ひたる所あり、是は印を押さず細工に彫りて跡へ火薬を詰めて焼きたる物ありと考へらる>なり、河内が細工深く微妙云ひ尽す可らず書き尽す可らず。」とある。是閑吉満は、始め越前大野に住み後京師に出たのである。越前は古来能面工を多く産した地で、能面作家の地理的分布上面白い地点である。京師にうつるや大光坊幸賢の門に入った。幸賢は血続上の相続者においては失敗したが、藝術上の傳統者において成功して居る。吉満の藝は群をぬいた為め豊太閤の寵を一身にあつめ天下一の名誉號を許された。河内も豊太閤の寵を受けたが、是閑に及ばなかつた。彼れの人格は豊公薨後に於いて。光りを発した。梵舜日記に、「五月十八日、天晴。豊國神事如常、、越州住人出目助左衛門之云ふ者大明神依御霊夢、今春之面一、奉納了」とある如く、彼れは慶長八年五月十八日に、能面を豊國神社に奉納して、太閤の恩義を忘れなかったのである。吉満も非凡の作家であるが、獨創と云ふ点に於いては、河内に一歩譲って居る。面目利書に、「上作なり、彩色至で堅く細にて光澤あり、古ぴ一向に不用、堅さ事は古今無類なり。夫れ故古作にならす裏は木色鼠色にて少し青みあり、鼻の下に左へ筋かへに鉋目三あり、(稀れに鼻のあるもあり、ロの下にあるも有り、鼻の穴の内墨をぬりて有り、稀れには彩色の裏へえりたるも有り)是等の類目利口傳あり、都て細工至って強き最上なり、故に小面の類弱き面に優れたる物を見ば大和と表裏の上作なり、古作龍右衛門、赤鶴に比す可し、上作にて時代もよく、但し彩色堅すぎたるもの是閑

なり」とある。吉満の藝事上の伝統は、大野出目家として連線と続くを得た。しかも比較的に名人が続いて居る。この点に於いては河内の傳統よりは、運が善いわけである。河内、是閑就いての批評は古人の間に少なくないが出目洞水の評が最も当を得て居る。「是閑は名人なり、河内は上手なり、是閑は優れたるものあり古作にも優るものあり、又不出来なるものあり、是名人と云ふ可し、河内は何にても不出来なるものなし、是上手と云ふべし」と。洞水は大野出目五代の人だと云ふので、古來此評の価値を疑ふ人もあるが、余は洞水の説を採る。ヤマト大和は河内の弟子で、河内に続いた名人である。南都の社人であったが壮にして、江戸に出で著名な能面師となったのである。寛文十一年に没した。大和真盛は河内唯一の傳統者で、これ以後河内系は振は無いのである。彩色は柔かな方で特に小面の如きは、河内以上と云はれる。強い面は不得意で、優れた作に乏しい。裏は平鉋目もある。又横に細き飽目のものもある。木地も様々あるが総て河内に似て至って弱いのである。大和には模倣的天才はあったが、獨創の才に乏しい。これ大和作に古作に似たものの多い理由である。古能は、「大和は上手故多くは古作になりたるなり、今世古作と云ふ吻に大和打多し、然れ共時代新らしく見ゆるなり、上手にて時代若きものに大和多し、千種福来の類に大和打と見ゆる物多し、叉大和打と云ふ物に洞白打あり、是等の類目利口伝多し、叉大和打に河内の如く鼻の内に深き鉋目あるもの稀れにあり、是を大和河内と云ふなり、目利六かしきなり」と云ふて居る。友閑は、友閑満庸とて著名な人である。是閑に比すれば作は劣って居るが、是閑の伝統者やあるからして恰かも大和が(天下一大和)と丸き瓢箪形の焼印を用ゐたと同じく、(天下一友閑)の焼印を用ゐて居た。是閑は細工強きに過ぎて・古作にならないですんだが・友閑ものは是閑より柔かであるが為め古作になったものが多い、然し作は是閑に似て弱く彩色も細かで、是閑よら柔かである。古能は「友閑の細工しめりに合ひて少し浮きたるは多く古作になるものなり、心をつけて見るべし。然れ共不出来のもの多し、上作と云ひ難し」と述べて居る。助左衛門は、是閑三代に当る人であるが、観世流地謡方となつて職分をつがなかった。洞白を養子として、家業をつがせた。洞白は満喬と云ひ、面白い経歴をもって居る人である。面目利傳由来」に「洞白は満永弟子にて居り候、其頃は公儀の御用は総べて満永相勤の候、然処近江事初め満永の養子になら居り候処、細工満永より宜しく其上河内を手本に打ち候故自然と満永と不和に相成り、殊に満永に實子満茂由来候に付き揉合出来、終ひに近江を離縁致し候。其際豫て壽硯儀近江と入魂にて近江は京都へ上り壽硯に立入り候て喜多流の面を專ら打しなり、其故に近江打多く喜多流の形なり、此時満永は賓生家へ立入り、寮生涜の面を折ちしなり、それ敬満茂打は賓生に多し、此頃洞自儀京都へ上ら近江に從って修行致し居り侯、其後古能(山祐)江戸に下り常憲隠様御稽古被仰付候頃は、近江は残し候につき洞白江戸へ下り喜多家へ立入り、宗能権挙にて御用を専ら洞白へ被仰付候、然る処出目助左衛門儀友閑子にて、是閑より伝はり候品とも持伝へ侯間、洞白儀助左衛門へ金子遣し養子に相成b相続致し居り候、右由緒にて喜多家へ代々別懇に立入り弟子同様に心易く立入り候。叉観世座地謡の家故観世座へも心易く立入り候」とある。洞白は初名を加兵衛と云ひ後、備後橡又淡路橡と云ふた。初め溝永の弟子となり後満昌の弟子となり、つひに助左衛門の養子になったのである。藝術の家では、養子制度はさく可らざる現象やある。彼れと助左衛門の關係は、系圃に現れて居る程親密で無く。洞白が職分株を金を出して。助左衛門から買って養子となったのである。洞白の経歴此くの如くであるからして、洞白の作は年代に依って薯しき変化がある。細工は

近江を學んだが、後年足閑の作を崇拝したので、随而其威化を受けて居る。古能は。「洞白近江を学ぷといへとも其応底は大和に寄ると見えたり、彩色裏鉋目等大和を模したりと見ゆるなり、故に大和にまがふものあり」と云ふて居る。猶古能は「密に日く洞白左衛門養子に成らず、以前流浪の節古作を贋せたる物あり、是は細工甚だ宜しく見分け難きものなり、古作の内表甚見事に、裏贋物と見ゆるものあり。是関洞自行也」と云ったのは、予見の明がある。彩色は荒く至って柔かに、叉細なるは少し堅く至って細である。彼れは實に近世の上手である。裏は木色至って黒く赤昧がある。此赤味は紫土を木地に摺込んで上に漆を摺ったものである。か、る点に洞白の苦心がめるのである。古能が、「洞白は誉名の志厚く絵の具等費を惜まず、故に泥彩色類比ぷ物なし、小面杯は胡粉のこなし、自身に三四日程掛りたりと云ひ伝へたり」と云ったが、是れ洞白の美点である。(正徳二年没)

洞水は洞白の子である。満短文は満毘と云ひ。初名は杢之助である。享保十四年に没した人である。父洞白に比して著しく見劣りがする。細工は洞白と同様で劣って居る。裏も洞白に似て居るが、鉋目が少し細かでめる、躍飽目一面である。但し赤味は、無い、(稀には少しあるが)彩色も洞白同様で、洞白より少し堅いのである。甫閑は満猶と云ひ、初名は半蔵と云ふ。撒水の子である。寛延三年に没した人である。伎倆は父洞水より劣って居る。此例が示す如く、「藝術上血族世襲は不可能なり」

と云ふ藝術史上の原則には千貫の重みがある。近世の名人洞白は一時大野出目家に花を咲かせたが、子の洞水孫の甫閑に至って段々と平凡の境に向って居る。古能は「総べて細工洞水同様にて叉劣るなり、彩色細にて洞水より堅く是閑の趣き少しあり、刷毛目ある物稀れなり、裏は洞水より鉋目細なり尤も赤みなし」と云ふて居る。元休構永は満長とも書き、初名を源助と云ふ。初め京師に住み後江戸に出て古元休と云ふた。寛文十二年に没した人であるが、出目家の江戸住は此時が拾めである。公儀の御用は絶べて満永が動めて居た。近江も一時満永の養子となったが、・満永の技術が近江に勝って居なかった事、・近江が河内を手本に打った事の為めに離縁となってしまった。作も不作で、彩色は細に堅く味の少ない打方である。面目利書に「裏は細なる横飽目なり、又堅鉋目有るもあり、黄紅をひいて漆にて塗りたるもあり、叉一面に鉋目なきもあり、此頃より細工印も止めしなり」とある。元休満茂は出目家の傳統者で、幼少の頃源兵衛と云はれ、享保四年に没した。満永の實子で、近江離縁の一因もここにあったのである。父の後を受けて寶生座の面を打って居る。焼印には出目とある、(満永のより大きい)彩色は至って細に且つ柔かである、面目利書に「又少し堅きもめり、作彩色もありじゞむさし、裏は鉋目淺く見えがたき程なり黒ぐ墨塗りの様にて光澤少なし、惣じて満永より劣るなり、此頃より寫しもの多く細工定め難し」とある。元休満總は初名伏兵衛、寳歴八年に歿した。嘗て満永以来不和になつた喜多家とも

此頃から關係を生じた。当時彼れは、定能へ取り入って喜多家へ出入したのだが、これには黒川市三郎の努力も興って力あったのである、叉杉村助之進とも入懇であって讃州侯の御用向を承って居た。作は甚だ宣しくなく、満永よりは満茂、満茂よりは満総と段々と低下して来る。面目利害に「惣而細工満永に似たり、彩色堅し、又柔なるも有り、細なるもあり、刷毛目有るもあり、満茂より勝るといへどもむさき方なり、裏は細なる横鉋目なりとある。元休満真は友水時代に論す可き人であるが便宜上ここで論ずる。初名は十八と云ふたが、この時期通有の能面作家で、特別に取立て云ふ程の事は無い。細工はこの時期としてよい方で満永より勝れて居る。面目利書に「彩色堅く近江に似たるもあり、様々なり、定め難し」とあるが、さすが古能は卓見である。元休満忠は模作のみ是れつとめた人や、論する程の事は無い。元利榮満は弟子出目家の祖で、古元利と云はれ、寳永二年に歿した。榮満は蒲永の

智で、弟子出目と云はれ、可成の勢ガがあった。作は中位や、満永に似て居る。彩色は概して至って細かに且つ柔な方で光澤が有る。俗に云ふ作彩色やある。ー見龍有衛門、寳来の趣きがある。矢張模作時代の人であるから獨創の才なく、中には光澤なく福來などの如く出来たものがある、いづれも柔な出来やある。裏は大きなる横鉋目で赤のある紫土を摺込んである。叉躍鉋目もあるが、之れは洞白に似て居るかく榮満は弟子家ではあるが、其技倆に於いては光休家に劣る所はないのだがし家柄が弟子家と云ふので世人は多く用ゐなかった。そこで彼れは、新工夫のもとに狂言面を打った。之れは稍々獨創的の所がある。特に彼れが狂言面の古作に模したのは、頗る巧みを極めて、まゝ古作が榮満打かわからぬものがある。弟子出目は、元利榮満−元利壽満−源肋上満−元利右満近江満昌は児玉家の祖で、幼名左源太と云ひ、満永の養子となったが仔細あって離縁された。離縁後児玉と號した、始め江戸に住し後、京都にうつり寳永元年に没した。満昌は、満永よりも細工よく、河内を手本として作の研究をした。此人の作は、近江打と云はれ喜多家に多い。近江の作を年代的に見ると、初めは、満永に随って居たので、彩色も細かく、満永に似て居る、中年以後河内を模倣したので、彩色荒く柔に刷毛目あり、河内そつくりである。中には細かに堅く光澤あって増阿弼に似たもの−がある。要するに、彩色は河内そっくりで、唯違ふ所は少し堅い点のみである。面目利書に、「裏は細に横鉋目めり、少し廣き横鉋目のものもあり、躍鉋目も竪鉋目もあり黒く漆にて塗るは満永に似たり、木地は河内に似たり、又河内の如く赤く塗りたるもあり、別に春慶色に漆をすかせて塗りたるもあり、これは下地に黄紅粉を強く引きたるものなり、河内を信仰して學ひだる故、細工も千変萬北極め難し、近世の上作なり叉近江打に河内の如く鼻の中と髪とに細工印をつけたるものあり、是は近江河内と云ふなり」とある。満昌の書判は初めは焼印撫角に児玉近江とあり、後には天下一近江とある、児玉近江は寶に近世の名人であって、是閑、河内以後に出た珍らし腕のあった人である。他の作家と違うて獨創の昧のあるは、彼れの特徴である。近江の如きは。友水時代に論ず可きだが便宜上、児玉家の人を此期に入れて論する事にした。長右衛門朋満は児玉家二代の人で、満昌とも近江とも云ふ。京都に住して居た。作は中等であるが近江に比すれば敷段の差がある。彼れの作で上出來のものは、洞白に似て居るが、彩色は裏ともに、近江にそっくりである。古能の説に「元休満総説に、朋満後に近江、改名して父の焼印も用ぴたりと云へり、近世近江打に甚だ不出来のものあり、この説實説なる可し」とある。長右衛門能満は初名市郎右衛門と云ふ。細工は朋満に似ておるが数等落ちてゐる。児玉家も元休家と同じく一代くと技能が低下して來て居る。此他猶近江の弟子に、富田筑後と云ふものがめる。京都に住んで面を打った。然し何事につけても家柄を重んじた当時の事であるから、弟子打ははやらなかった。又近江の弟子に梅岡次郎兵衛と云ふものが居て、江戸に住んで居たが矢張はやらなかつ

た。洞白の弟子には兼子儀右衛門と云ふのが居た。是等は、弟子家中著名なものである。思ふに是等の弟子家は、師家の代作を主としてやったものやあらうふ。(へ)友閑の時代地時代に至っては、作家は悉く古面の模倣を事とするに至り、形式上の進歩は亳も認められ無いのであ」る。友水は大野出目の傳統者であって、是閑以来の名家である。初名杢之助、後義恩と號し、明和三年に没して居る。大野出目の血統は助左衛門後絶えたが、藝術のみは伝はつて居るのである。洞白以來喜多家とは眤近の間柄で、出目の人々は弟子同様に喜多家へ出入し、又一方観世へも出入して居る。友水は喜多流の能を稽背して居る。其子長雲の如きは古能と竹馬之友やある。喜多古能が近世稀れに見る面の目利を有して斯道無二の書物を書きのこしたのも、全く友水長雲から其技を習ったからである。明和の改正を以て史上著名な元章の如きも友水から能面を打つ事を習って居る。面目利

一・■書に「細工洞水に比すべし、是閑を手本にして打ちたり、故に彩色至って堅く細なり又荒きもあり、荒きは柚肌なり、裏洞水の如ぐにで鉋目淺く躍飽目も淺し、叉紫土にて赤く塗りたるもあり、近世の上手なり」とある。彼れの祖洞白は助左衛門の養子で近江を模倣し晩年に是閑をモデルとして研究した人であったから、純粋なる是閑伝統者とは云へぬ。(藝事上)。友水甫閑に至って段々と是閑の作に接近して來て、つひに友水に至って是閑模倣の極に達して屠る。是閑の作を徳川中期に代表せる人が即ち友水である。畏雲は友水の子供で、初名杢之助、安永三年に没した。焼印撫角に出目廣吉叉は出目長雲とある、面目利書に「前打は友水の如く是閑の風あり、後打は洞白の前打に似て専ら河内を學ぷ、彩色荒く柔に刷毛目あり栖あり、近世の上作とも云ぶべし、裏は犬亭鉋目にて躍鉋目少し、又班裏もあり」とある。かく長雲は前年生に於いては父の作をまねたが、後には河内を慕って研究したのである。これ余が洞白以來是閣の模倣

る。は、友水に極まれりと云った所以でめる。喜多古能とは竹馬の友で、親友でめった・洞雲は長雲の養子で、焼印撫角に、出目廣隆とあるが、細工は下作である。大野出目は是れ以後振はないのである。三右衛門は友水の弟で、斯道の人であるが、細工は下手で、旦つ余り多く作らなかったのである・壽満は弟子曲目家の人で、焼印は丸に出目壽満とある。細工は裏表共に榮満同様であるが、細工は遥かに劣って居る。古作の模倣につとめて居るが作がわるいので見違へる様な憂ひは少しも無いのである。古能の如きは「細工は遥かに劣りて、用ぶべき者なし」と云って居る。上満は元利の子孫であるが、其作は見るに足らないのである。右満は焼印丸に、出目右満とある。作は極めて平凡である。(ト)友本以後 此時期は純然たる模作の時代であるのみならず、傑出した作家が輩出しないのであるから、特に研究する丈けの必要が無いのである。


第3章 鑑識へ

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