三合里収容所

昭和20年4月6日ソ連より一方的に日ソ中立条約の破棄が通告され、ソ連の参戦が必至と考えられていた。8月9日、ソ連軍は日本に対して宣戦布告をし、朝鮮半島北部に進駐、北緯38度線を境に北部(北鮮)を支配した。8月15日の終戦詔勅後北鮮は混乱し、情報が混乱の状態であった。北鮮では9月初旬迄に、旧日本陸軍将兵は、北鮮在住の各部隊毎に武装解除を受け、古茂山、宣徳、富坪、五老里、興南、三合里、美勒洞の各駐屯地に集められた。更に旧関東軍で移動が容易な車輛部隊の幾つかも北鮮内で収容されている。これらの将兵の大半は三合里に集められ、残りは美勒洞に集められた・三合里は、平常の東約15キロの原野の野営演習場で、バラックの兵舎が20棟程有り、美勒洞もこれを縮小したような施設である。数千人の野営宿舎に万を超える将兵が収容されることになったが、ソ連側はシベリアに輸送する一時的な収容所と考えていたようだ。
旧日本軍将兵は「ダモイ」(帰国)と言われて実はシベリアに送られたが、翌年に三合里を始め北鮮の旧収容所に逆送された将兵がいたことは、殆ど知られていない。シベリア抑留中に飢餓・病死者は5万人を超えるが、栄養失調や病弱者の数千人(人数不明)を三合里、美勒洞に送り返している。この逆送された将兵の集団は、幽霊の行列にも例えられ、三合里にたどり着くや亡くなる者が多かったという。三合里で亡くなった将兵の記録は同僚が持ち帰ったり、ソ連の公式記録に観られるようですが、逆送途中に無くなった者は途中の駅で処理(北鮮側に任せ?)され、詳細は不明である。
三合里収容所は、終戦直後から@シベリアへ送る一時収容所とシベリア行が無理な病者の収容所。A21年7月から23年春迄は、シベリアに送れない病者、シベリアで病気になり送り返された病者の収容所 と 捕虜収容所というよりは、病院・療養所の性格が求められるべき施設ですが、食料は勿論、医薬品、医療資材、検査機器など殆ど無い状態であることが伺われます。このような惨状の中、健康を回復し、帰国が叶い亡くなった同僚の記録を秘して日本に持ち帰り、『三合里収容所小史」を編纂された方々に敬意を表し、努力を賞し、その思いの助けになればと思います。

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