はじめに

 はじめに古事記は我が国の最も古い歴史書の一つであるが、その巻頭(上巻一并序)に古事記を作った目的とそのいきさつ(経緯)が書かれている。これに倣って我々もこの三合里収容所小史を作るに当たり、その目的と作るに至った経緯を明らかにして置きたい。
 古事記は朱鳥元年一西暦六八六年一天武天皇が崩御の折り、天皇の御遺志を継いで書を作ることを霊前にしのびごと一誄一したことから始まると言う。実際は二十五年後先帝の遺業を継いだ元明天皇が和銅四年一西暦七=)九月十八日太安万侶に詔して、稗田阿礼が語るところの旧辞や帝紀を書きとらせ、もって歴史の名分を正しめた、とある。我々も三合里を去るに当たり、亡くなった戦友達の霊前に「必ず骨を拾いに来るからな」と誓った。が不幸にして五十年経った今日、遺骨収拾はもとより、現地墓参すら実現のめどはたっていない。
 復員後我々も生活に追われて他を顧みる余裕が無かった時期もあったが、心の片隅では片時もこの誓いを忘れたことは無かった。このことがあってか、数年前から有志が相寄り何時遺骨収拾があっても良いように、埋葬場所の確認やら、死亡者名簿の整備、遺族の調査等可能な限り準備を進めて来たのであるが、残念ながら我々に残された時間はあと僅かしかない。しかも、その死亡者名簿はソ連当局に没収され、辛うじて解明出来たのは全死亡者千六百余名の内、約八百六十余名に過ぎない。残余の者の解明は、到底我々の手に負えるものではなく、国が外交ルートを通じて名簿の返還を求め、遺族に知らせる義務があると考える。
 我々の亡き後、我々の意志を継いでこれらの運動を進めてくれる人々に後事を託したいので、この書を作ることを思い立ったのである。
 この書には三合里収容所の開設から閉鎖まで僅か一年数カ月の出来事が書かれてあるが、この間に繰り広げられた幾万の将兵の血と涙のドラマは、時間の長さでは計りきれない苦悩の日々であった。ここに収容された三万数千の将兵は煌々と映える秋の明月に家族を想い、故郷を偲び、再び生きてこの月を眺めることが出来ないかも知れない己の運命に涙したものであった。
 事実、その中の幾千人かはシベリアの荒野に屍を晒し、幾千人かは病魔に犯され、その病を癒すべく再び朝鮮民主主義人民共和国(略して北朝鮮以下回じ)に送り帰された人々の中にも、力尽きて還らぬ人となった者が多かった。,まさに、「古来征戦幾人か回る」である。
 幸い元気で帰ることが出来た者は笑って当時の苦労を語ることが出来るけれども、彼の地で亡くなった人々の望郷の想いを誰が語り伝えるであろうか。これら還らぬ人々が抱いたであろう無念の想いは到底筆舌に尽くし難いが、この書は我ら語り部の口を借りて亡き戦友達が語ったものと思って頂きたい。それにしても、書を作るにしては遅きに失した憾は否定できない。戦後五十年になろうとする今日、真実を掘り起こすことは仰々容易ではなかったが、可能な限り真実に近いものとし、解明出来ないものは客観的情勢を踏まえて推論とした。 我々が最も恐れるのは、我々が亡き後この三合里の歴史が、時間の経過の中に埋没して忘れ去られることである。こうなっては亡くなった戦友達に相済まぬ。この書がその歯止めになって、子々孫々まで語り継がれることを願うと共に、この様な暴虐が後世の史家によって糾弾されんことを希うものである。
 五十回忌を迎えるに当たり、本書を霊前に捧げて魂暁天と地に別れると錐も、諸兄の霊安かれと祈ると共に、誓いを新たにするものである。
 なお、全編を通じて主として日時や数量的な出典は、特に断らない限り、防衛庁戦史資料室の資料に拠ったことを付記して置く。

目次

 はじめに
第一編 望郷
 第一章 終戦時北朝鮮に於ける我が軍の概況
  第一節 終戦始末記
   対ソ戦配備、日ソ戦闘、停戦交渉
  第二節 平壌地区に集結した主な部隊
   関東軍直轄部隊関係、その他の関東軍関係、
   第十七方面軍
(朝鮮軍)関係、第五航空軍関係、その他の部隊
  第三節 一般邦人の動向
  第四節 三合里集結命令
   「ある中尉の回想起」抜粋
第二章 前期抑留生活
  第一節 三合里収容所の開設、表1三合軍収容所舎宮司令部組織職員表、部隊の編成、設営、
                柵作り、医務室の開設、使役作業隊について

  第二節 奏勒洞収容所の開設
  第三節 秋乙病院(旧平壌第一陸軍病院)への統合、
       公主筆陸軍病院、新京第二陸軍病院、新京第一陸軍病院、平壌第二陸軍病院

  第四節 シベリア輸送
   第一次シベリア輸送、表2第一次シベリア輸送内訳、
   第二次シベリア輸送、表
3第二次シベリア輸送内訳、
   入ソ後の地区について、表
4死亡者多発地区の概要、
   我が軍の入ソの全貌

  第五節 収容所生活点描
   食料事情、逃亡
  第六節 三合里収容所の組織変更と秋乙収容所の開設、
       表
5秋乙舎営司令部組織職員表、表6三合里収容所舎営司令部組織職員表、
       図
1秋乙収容所配置見取り図
  第七節 三合里病院の開設と秋乙病院の閉鎖、
       図
2三合里病院配置見取り図
 第三章後期抑留生活
  第一節 栄養失調症患者受け入れ、
       シベリアから逆送された者の全体像、
       表
7病弱者逆送状況表、逆送組の輸送状況について、
       「井田義一氏手記」

  第二節 秋乙患者収容所の開設、図3秋乙患者収容所建物配置見取り図、
  第三節 患者死亡者多発とコレラ事件、患者死亡の全貌、コレラ発生事件、死体解剖について、埋葬
  第四節 病院生活点描
 第四章 ダモイ(帰国)
  第一節 さらば三合里。帰還準備、帰還第一陣、帰還第二陣、興南残留者
  第二節 想い出は走馬燈の如く。ある日誌より
  第三節 上陸地-佐世保
  第四節 死亡者名簿について。
       原本について、表
8中川氏が持参した原本内容、
       三合里病院関係死亡者、表
9三合里病院死亡者判明数、
       死亡公報について

第二編 追悼
 第一章 三合里戦友会の活動
  第一節 三合聖戦友会の結成と初期活動抗
  第二節 追悼のための資料収集。
       死亡者埋葬場所の調査、図
4三合里収容所埋葬場所見取り図、
       図
5秋乙収容所埋葬場所見取り図、図6秋乙病院埋葬場所見取り図、
       図
7平壌第二陸軍病院埋葬場所見取り図、
       地図上の場所特定について、死亡者名簿と遺族調査

  第三節 追悼法要の開催。
 第二章 付属文書
  第一節 判明した死亡者芳名一覧
  第二節 三合果収容所年表。
      付表
1平壌地区(三合里・美勒洞)に集結した部隊名、
      付表
2平壌陸軍病院群移動概況図表、
      付表
3平壌地区作業大隊移動概況、
      付表
4平壌-延言移動群概況表、
      付表
5作業大隊変遷の概要、
          付表6
地域別・労働種類別割当人員表、
      付表
7関東軍(師団以上・集結地)人ソ状況一覧付表、
      付表
8三合里病院勤務者名簿、
      付表
9病弱者逆送状況明細、
      付表
10秋乙患者収容所勤務者名簿、
      付表
11三合重病院の死亡者統計解析、
      付表
12三合里戦友会会則並びに組織表、
      付表
13三合里戦友会・事業年表、
      付地図
1北朝鮮要地概要因、
      附地図
2三合里地区付近因、
      附地図
3秋乙地区付近図
 あとがき


第一編 望郷

 第一章 終戦時北朝鮮に於ける我が軍の概況

 昭和二十年八月九日、この運命の日は突然やって来た。日ソ戦はいずれ必至であるとは第一線の将兵なら誰もが危倶していただろう。だが、こんなに早く来るとは、軍の高級幹部には判って居たかも知れないが、一般将兵にまで知らされて居たわけではない。いわんや旧満州、朝鮮半島地区の居留民にとっては文字通り寝耳に水であった。事実、関東軍参謀部でも一カ月早かったという。これではすべての人々の周章狼狽ぶりが判ると言うものである。敗戦直後の平壌に於ける混乱ぶりを理解する上で、これらの地区に於ける我が軍の配備と日ソ開戦時の平壌の立地を知っておく方が良いと思われるので、しばし全般の大勢を概説しておきたい。

  第一節 終戦始末記

   ()対ソ戦配備
 中華人民共和国東北部(略して中国東北部・旧満州)に於ける関東軍は昭和十八年末頃から兵力の他方面転用が始まり、南方戦線が悪化するに伴いその数は増大し、昭和十九年に入ると地上部隊のみならず空軍までも転用し、陸続として精鋭部隊を南方に送り続け、完全師団だけでも二十個師団を超えたと言われ、しかもそれが昭和二十年三月まで続いたと言う。この結果、さしもの関東軍も蛻の殻同然になってしまった。そこで昭和十九年半ばから二十年四月にかけて転用残留部隊や国境守備隊を改編し、居留在郷兵を召集して兵員を補充し、八個の師団、四個の独立混成旅団を補填し、独立戦車旅団一個を新設したので、一応兵力の増強の格好はついたが、編成、装備、素質いずれの面を見ても劣弱の姿は覆い隠すべくもなかった。
 ところが、昭和二十年四月六日、日ソ中立条約破棄に伴い日ソ開戦必至となるや、急遽華北方面から四個師団を転用し、華中から第三十四軍を朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に移駐させ、更に五月から七月にかけて数次の現地召集を行い、所謂根こそぎ動員を断行して、八個の師団と七個の独立混成旅団及び一独立戦車旅団を新設し、又新たに第三十軍を編成して遼寧地区の守備に当たらしめた。これらの編成は七月末までに完結することになっていたが、訓練はおろか装備さえも整わず開戦を迎えるはめになった。かくして関東軍は猛虎変じて張り子の虎となっていたのである。
 一方北朝鮮は昭和二十年六月十八日武漢に駐留して居た第三十四軍を、七月中旬威興に移駐させて関東軍隷下に入れ、更に七月末日までに現地人を根こそぎ動員して第百三十七師団(定平)、独立混成第百三十三旅団等を新設してその指揮下に入れ、かつ従来からあった永興湾要塞司令部及び同重砲大隊を隷属させた。しかし、第三十四軍の主力である第五十九師団
(衣兵団)は一部は移動途中であり、新設師団は装備の支給が間に合わず、砲兵に一門の砲もなかったという。開戦と同時にソウル(旧京城)の朝鮮第十七方面軍が関東軍隷下に入り、摩下の平壌師管区、羅南師管区各部隊を第三十四軍の指揮下に入れ、自らも第百二十師団、第三百二十師団の一部を戦列に参加させ、併せて第三十四軍をも統括する態勢をとったが、時既に遅しであった。
() 日ソ戦闘
 ソ連は昭和二十年八月九日午前零時を期して対日宣戦布告を通知して来たが、既に八日には西部ハイラル、北朝鮮清漢方面で偵察の跳梁があり、侵攻の近いことを暗示していたという。
 ソ軍は第一戦線軍を東部虎頭及び北朝鮮に、第二戦線軍を北部孫呉に、第三戦線軍を西部ハイラル正面に配備して、全戦線にわたって侵攻して来たのだが、九日中は大本営も関東軍司令部も敵の意図を掴みきれず、関東軍は十日になってやっと全面戦闘を決意し戦闘命令を下達したが、これは中央の廟議なき決定であったという。これには次のような理由があったと言われている。
 今まで関東軍はソ軍に対して攻撃の口実を与えないよう、極力無用の刺激を避け静誼確保が至上命令であったので、日頃の偵察も十分でなかったろうし、中央ではソ連に停戦仲介の労を頼んでいた位だから、出来れば局部戦線で収めたかったのではないだろうか。
 しかし、関東軍は決心すると、かねての予定通りその日の内に長春(旧新京)放棄と臨江遷都と決め、関東軍司令部の通化移転を決定した。関東軍が最も心を痛めたのは邦人の避難の問題であったが、緊急避難命令を出すと共に、同日夕刻までに第一列車が出発出来るよう輸送命令を下した。
 各方面の第一線部隊は十一日から十三日にかけて熾烈な戦闘を展開し、ある者は玉砕し、ある者は斬り込みを敢行して戦ったが形勢の不利は如何ともし難く、次第に後退を余儀なくされた。
 ここで戦闘の模様を記述するのは本旨でないので他言に譲るとして、北朝鮮に於ける戦闘経過に就いてのみ述べておく。
 北朝鮮では八月八日、敵の斥候らしき者が出没したようだが、九日は何事もなかった。翌十日に小部隊が清津港に侵攻して来たが、港湾守備隊に撃退された。二日おいて十三日、今度は六百名もの大部隊で侵攻し、清津港を占領した。清津港守備隊はその夜半挺進斬り込みを敢行すると打電して連絡が途絶えた。翌十四日も兵力の揚陸が続き、約一個師団が上陸して来たが、主力が清津港に上陸したのは十六日であった。第一極東方面軍第二十五軍、ソ連太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊、及び第十機甲軍団の一部の面々である。
 羅南師管区司令官西脇中将は八月十四日管下各部隊を指揮して、後背の既定陣地に拠らしめ敵の侵攻を迎撃し熾烈な戦闘を展開した。一方北方に在った広岡嶺守備隊は会寧方面から侵攻して来た機甲一個旅団と交戦していた。その後羅南師管区司令部とは連絡が途絶えたまま戦闘が続き、十八日夕刻になってやっと停戦命令を伝達出来たという。
 一方、第三十四軍司令官櫛淵中将が咸興に到着したのが七月十二日で、直ちに使用し得る兵力は永興湾要塞守備隊のみだった。従って開戦時の戦力はこの守備隊と主力の第五十九師団であったが、牡丹江重砲聯隊、迫撃砲大隊は移動中で、新設の独立混成第百三十三旅団は着任出来なかった。第百三十七師団は定平に於いて編成を完結したものの、兵に銃無く砲兵に一門の砲も無き有り様で、糧秣も乏しく、第十七方面軍の貨物廠から応援を得て生存しうる状態であった。七月下旬第三十四軍は咸興定平西方の丘に陣地構築をして居たが、幸いにも終戦まで敵の出現は無かった。
 () 停戦交渉
 八月十五日正午、国歌吹奏についで放送された玉音放送ほど、いやしくも日本人なら永久に忘れられない衝撃的な出来事はあるまい。ましてや戦場に在って死闘を繰り広げていた軍人にとってそれは晴天の霹靂以外の何物でもなかった。或いは虚脱放心し、或いは悲憤慷慨し、はた又安堵し、事態の収拾は決して容易ではないと思われた。
 この事があって聖言伝達の為、竹田宮恒徳王殿下を関東軍に派遣し、十七日夕刻長春(旧新京)飛行場に飛来した。その晩在長春部隊長を集めて聖断の伝達が終わり、翌日第一方面軍を訪れると言うのを、不測の事態を考慮して変更してもらい、瀋陽(旧奉天)の第三方面軍のみにして帰京して頂いたが、ソ軍は十九日長春飛行場を制圧し博儀皇帝を拘束しているので、間一髪であった。
 ソ軍に言わしめれば停戦交渉など有り得ないというが、正にその通りで、敗者にとって交渉の余地などあろう筈がなく、有るとすれば一方的な命令の無条件受諾であった。
 関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、八月十九日ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と興凱湖西方で初めて会見し、停戦とそれに伴う武装解除や在留邦人の保護、治安維持等について基本的な話し合いをしたというが、ソ軍が求めたのは平穏な武装解除だけであって、他は殆ど無視されたに等しい。
 その後ハルビン、チチハル、長春、瀋陽等各地で武装解除が進められたが、すべてがスムーズに行われたわけではない。自決あり、逃亡あり、反乱ありで、それ自体止むにやまれぬものがあったであろうが八月末頃までに概ね完了し、ソ軍から見れば極めて平穏裡に行われた事に驚いていたという。
 一方北朝鮮方面では八月二十二日、第三十四軍司令官櫛淵中将は高級参謀扇大佐以下八名を連れて延吉に赴き、ソ軍第二十五軍参謀長と会見し、武装解除の協定をした。ソ軍は北朝鮮の日本軍を古茂山一カ所に集結するよう執勧に要求して来たが、二十五日までかかって各地区ごとに協定出来るようにしたのは希有の事であるという。思うにソ軍は後の本国輸送の便を考えてソ連に近い場所を指定して来たのではないか。お陰で羅南地区は羅南、咸興地区は咸興及び元山、平安南道、北道は平壌の各所で武装解除協定が行われ、それぞれ古茂山、宣徳、富坪、五老里、興南、三合里、美勒洞の各所に収容されることになった。(秋乙はこの時点では未たなかった)
 これより先、最後まで交戦していた羅南師管区部隊は十八日夕刻停戦に応じ、翌朝ソ軍と停戦交渉に入り、二十日羅南に於いて武装解除され、二十三日古茂山に収容された。
 第百三十七師団ほど哀れで惨めな師団はなかった。将兵の食料は二日分しかなく、衣服も満足に与えられていない一万余の将兵の運命は、風前の灯に等しく、為に軍は急遽平壌に待避を命令した。平壌に行けばなんとか命だけは助かると判断したのであろう。師団長秋山義兌中将は八月十七日定平の小高い丘の上で自決し、同行した警備隊長もこれに殉じたという。

 師団長の当番兵であった島根県在住の前田勝義氏の証言によると、同日朝、万年山の中腹に白砂を敷き詰めた台座を作った後、一同の者は退去さぜられたので自決の模様は判らなかったというが、一同は亡骸を一晩かかって火葬に付し、遺骨は参謀長の胸に抱かれて平壌に向かったという。
 遺された辞世の句に曰く
  精鋭將武時既遷 正気凝発青年間 神州遥拝啓魂 晩秋風埋骨高年山
 この老将軍にとって、戦いに死するは武人の本懐であったであろうが、戦わずして敗れ俘虜の辱めを受けるよりは死を選んだことであろうか。部下の将兵は殆どが老兵でこのような悲惨な結末に導いた責任をとったか、はた又このような惨めな作戦に駆り立てた者に対する無言の抗議か、将軍の胸中をこのように察するのは下司の勘繰りに似ているが、「強く生きよ」との遺言に部下の将兵は生き抜く勇気を得たことは確かであった。師団は直ちに反転して平壌に向かったが、途中元山がソ軍に抑えられた為、永興から峻険な山岳を僅か二日で突破して二十日平壌に辿り着いた。
 平壌では八月二十四日、ソ軍先遣隊が平壌飛行場に飛来し、翌二十五日、平壌師管区司令官竹下中将と大橋参謀長がソ軍との折衝に当たり、武装解除を翌二十六日とし、二十八日以降速やかに三合里、美勒洞両収容所に集結するよう命令を受けた。
 しかし、当時平壌は混乱の極に達し、中国東北部
(旧満州)からは関東軍の兵站部隊や病院が南下しており、南からは第十七方面軍の一部が北上して来ていた。更に各地からの避難民が町に溢れ、名状し難い有り様であった。これより先、師管区各部隊は終戦と同時に現地召集者及び朝鮮人兵を解除して帰郷させたので、人員はかなり減り六千余名と推定されたが、これに数倍する人員が集結して来ていたとは、師管区司令部はもとよりソ軍側も知らなかったのではないか。これが武装解除後収容所に入るまでに混乱を来たし、長時間を要した理由の一つではないかと思われる。

 第二節 平壌地区に集結した主な部隊
 かくも多くの部隊が何故平壌に集結したのか。その理由は平壌が置かれた立地条件によると思われる。制海権を持たない者にとって海を越えて脱出することは不可能で、陸路を伝って待避する他はない。遼寧地区から鴨緑江を越えて南下する組も、吉林地区から図們江を越えて南下する組も平壌を目指して待避して来た。平壌はこれら扇の要に当たり、ここまで来れば一応安全だろうと考えたに違いない。しかし残念ながら平壌が三八度線の北側にあることに気付かなかったことが明暗を分けた。確かに平壌を素通りして南下した者も沢山あったが、彼らとて偶然そうなっただけで、三八度線を意識して越えたわけではあるまいと思う。
 今平壌に集結した部隊の詳細を記述するのは煩わしいので主な部隊の行動に留め、他は一覧にして付表1に示したが、すべてを把握することは困難で記載漏れがあるかも知れない。
  () 関東軍直轄部隊関係
 平壌に容易に移動できた部隊は皆車輌を有する者で、関東軍司令部が通化に移転中その直轄???部隊も八月十一日長春(旧新京)を立ち、通化において終戦を聞いたので直ちに南下し十九日から二十二日頃までに逐次平壌に到着した。その内一部は平壌を通過し、一部は南浦(旧領南浦)から海路南下した者もあった。主な部隊は関東軍建設団司令部、同築城部、同材料部、同教育部及び同第二建設部等である。関東軍兵事部本部は各地の兵事部をまとめ、八月十六日長春(旧新京)を立ち、通化経由で二十日平壌に到着、一部は南浦(旧鎮南浦)から釜山に向かった。関東軍補給総監部は建設岡本部と同じ頃平壌に来た。
 その他関東軍の家族輸送の警護班、停車場司令部、及び鉄道大隊関係者等が含まれる。又主に通化に在った関東軍直轄の兵軸部隊は、八月十六日から逐次行動を起こし、二十四日から二十五日頃に平壌に到着している。野戦貨物廠及び長春(旧新京)、通化、四平の各支廠、野戦鉄道廠、独立輜重隊、同自動車隊、陸上勤務隊及び各陸軍病院等である。
 新京第一陸軍病院は八月十二日長春発、十三日吉林に着いたが、十七日主力は長春に戻り、吉林分院のみ重症患者を吉林満鉄病院に預け、二十五日吉林発、翌日平壌に着いている。職員磯部軍医中尉以下二十三名、患者五十余名、平壌第一中学校に開設中の病院に入る。
 新京第二陸軍病院は八月十六日重症者六十余名を病院に残して通化を立ち、二十五日平壌着、職員患者約五百名の内、重症者を平壌第二陸軍病院に移し、輸送中の死亡者をその病院敷地内に埋葬したという。その他の患者は取りあえず平壌第一中学校に病院開設の関東軍衛生下士官候補者隊に入れ、職員は山手国民学校に入り、後二十八日南山国民学校に開設していた公主岑病院に移った。 公主岑陸軍病院は八月十日懐徳(旧公主岑)を立ち、第一陣は十二日に、第二陣は二十二日に平壌着、職員患者併せて三百八十七名、南山国民学校に入居して病院を開設した。
 ()その他の関東軍関係
第一又は第二方面軍隷下の部隊で水豊や通化に在った部隊の一部及び現地解散した者で小グループの行動をし、北朝鮮に入り抑留された者等である。
 () 第十七方面軍(朝鮮軍)関係
 第百三十七師団は既に述べた通り八月十八日足平を立ち、二十日平壌に着き、秋乙、三井飛行機工場、下士官候補者隊宿舎等に分宿し、司令部は兵器部、経理部庁舎に入った。隷下部隊は歩兵補充連隊三個隊、野砲、工兵、通信、軽重各補充連隊、師団挺進大隊、師団兵器勤務隊、及び師団病馬廠等で、二十三日頃までに移動完了した。
 平壌師管区は在平壌師団(第三十師団補充隊)で、一部を除き動員出動がなかったから無傷のまま残って居た。隷下部隊は歩兵補充連隊二個隊、野砲、工兵、通信、軽重各補充連隊、警備大隊四個、特別警備大隊三個、及び特別警備工兵隊三個等である。兵軸部隊は平壌陸軍兵器補給廠、陸軍貨物廠平壌支廠、仁川兵器造兵廠平壌兵器製造所、朝鮮軍管区教育隊、平壌陸軍病院、各地憲兵隊、各地区司令部、及び兵事部等である。第十七方面軍直轄部隊は独立高射砲大隊一個、独立野砲連隊一個、陸上勤務中隊二個、及び独立鉄道大隊等がある。第百二十師団隷下歩兵第二百六十一連隊(遭進第一三九五三)は六郎大邱に在ったが、開戦と同時に北上し、八月十八日平壌に着いた所を抑留された。
 () 第五航空軍関係
 北朝鮮に展開していた航空の地上部隊が主で、航測隊、無線隊、飛行場大隊、航空情報隊、気象隊及び独立整備隊等である。他に航空廠、航空補給廠、飛行戦隊の一部がある。
 () その他の部隊
 寺洞等にあった無煙炭鉱を管理していた平壌海軍燃料廠や、南浦(旧鎮南浦)にあった船舶部隊の一部があるが、詳細は判らない。

第三節 一般邦人の動向
 関東軍は開戦と同時に国境付近の居留民に対し戦禍を避ける為緊急避難命令を出し、ハルビンを目指して集合するように指導し、八月十日夕刻長春(旧新京)から一番列車が出発出来るよう輸送計画を手配した。輸送順位は民、官、軍の家族の順序としたが、一般邦人の集合は遅々として進まず非常集合命令を出して、やっと一番列車が出発できたのは翌十一日午前一時四十分であった。しかもその乗客は殆ど軍人の家族であったと言う。
 避難民の総数は百万人とも言われその内五十万人は遼寧地区に留まり、北朝鮮に入った者は十万人前後と言われているが、戦禍が収まると共に三万人前後が中国東北部(旧満州)に戻ったと言われている。
 しかし、日本軍が抑留され治安を預かる者がいなくなると、略奪、暴行、強姦がまかり通り、しかも十月頃になって一応落ち着きを取り戻したものの、着のみ着のままで彷徨しておるため、恐るべき寒気に対し死をもって對処する以外に手段がない有様であった。
 この冬の死亡者は中国東北部だけでも十三万人に達したと言われている。そしていつも最初に犠牲になるのは幼い命であり、そこには涙も枯れ果てて放心した母の姿があった。まさに国破れて山河ならぬ棄民ありと言うべきか。
 終戦時中国東北部から北朝鮮に避難して来た邦人は七万とも十万とも言われており、しかもその後円満州に帰った者が多いのでその実態は判らないが、少なくとも記録によれば左記のような数字が挙げられている。

地区    既住者   越冬避難民  死亡者
平安北道 二万七千名 二万名      不明
平安南道 五万名   四万名    平壌      六千名
                  南浦(旧鎮南浦)千五百名
威鏡南道 十一万名         威興     六千三百名
                  富坪      千五百名
                  元山      千三百名
                  興南       三千名
威鏡北道 七千乃至一万五千名           四百五十名

 一方、厚生省による北朝鮮に於ける死亡者の総数は
軍人、軍属    一般邦人     計
一万六百名   二万四千名    三万四千六百名

 この内、帰還時に遺骨を持って帰った者は一万三千人と言われ、残りは未帰還である。
 平壌では入獄朝鮮人を解放したので彼らが治安組織を結成し、警察署を占拠して権力を握り在留邦人に対し迫害、略奪、暴行等を欲しいままにし、有力日本人を留置して日夜拷問を加え往年の恨みを晴らしていた。ソ軍は日本軍人及び在留邦人に対し一般に穏やかに対処していたが、このような朝鮮人の行為に対して見て見ぬふりをしていたようだった。
 在留邦人の家屋はソ軍家族及び不良朝鮮人に占拠され、追い出された邦人と遼寧地区から南下した避難民と平安南北両道から避難して来た人達を加えて、極度の住宅不足に陥り、治安の悪化と食料不足と迫り来る寒気とを前にして絶望に近い状況に置かれて居た。この困窮を打開すべくソウル(京城)より第十七方面軍参謀長井原少将が来壌して、ソ軍側と交渉したがさしたる効果も見いだせなかった。
 長春(旧新京)より避難して来た者は関東軍直轄部隊の家族が多く、当初秋乙その他の軍官舎に分散止宿していたが次第に追われ、遊廓や工場施設に集団で自衛生活を余儀なくされたが、この人達を統括していたのが関東軍総参謀長秦彦三郎中将の夫人であった。これより先八月十九日、一機の飛行機が平壌飛行場で密かに待機していた。その任務は旧満州国の薄儀皇帝を乗せて東京に帰る便であった。
 しかしその日皇帝は、長春飛行場に来たところをソ軍に捕縛されていた。待ちぼうけを喰った飛行機は空で帰るよりはと、たまたま秋乙に疎開して居た関東軍総司令官山田乙三大将の夫人と供の者を便乗させて東京に戻ったという。同日夕刻ソ軍軽爆機数機が平壌飛行場に初めて飛来して来たが、それは前記飛行機が飛び立った数時間後であったという。捕縛されるもされないも、天なり命なりというべきか。
 十月頃になると一応落ち着きを取り戻して来たものの、この冬をどう越すかが焦眉の急となり、行くも地獄、留まるも地獄の中で、中国東北部に戻る者、三八度線を歩いて突破する者、平壌に留まる者、各自必死の思いでおのおのの行動を取るようになった。三合里収容所から見通せる前方の国道を、これら難民の親子が幼い子の手を引いて三々近々南下する姿を見て"前途三千里の思い胸ふさがりて"何の手助けも出来ない口惜しさに慟哭した想い出は、永遠に脳裏から消し去ることは出来ない。
 後世関東軍が執った避難措置の是非が問われているが、戦争に敗れた経験のない者にとってその後に起こり得る事態を予測することは困難であったろうし、ではその場に立ってどのような措置を取れば一番良かったのかも、容易に見い出せない上は、止むを得ない措置だったかも知れない。結果論ではあるが、貴重な経験則として捉えるならば、無策の策むが一番良かったのではなかったか。如何なる国と雖も無辜の民をみだりに殺すことは出来ないであろうし、例え羊の群れを襲う狼があったとしても、荒野に流浪して冬将軍と戦うよりは、犠牲者が少なかったであろうと思われるからである。この教訓がこの貴い犠牲者達の後世に残してくれた遺言と、受けとめてやらねば余りにも哀れである。

 第四節 三合里集結命令
 三合里とは平壌から東方約十五キロの所にある旧平壌師団の野営演習場で、バラック建ての廠舎が十数棟あり、それより少し離れて美勒洞という所に同じような施設がある。規模は後者の方がやや小さいが、両方今わせても数千人が宿泊出来る程度の粗末な施設であった。
 そのような施設に数万単位の将兵を収容しようとしたのだから、どだい無理な話で、混乱の起きない方が不思議であった。後から考えると、どうせそのうちシベリアに送るのだから少々きつくても我慢できるであろうと安易に考えたのかも知れない。
 さて、八月二十六日の武装解除は原隊または所在地で行われ、翌日から秋乙の師団兵舎に移されソ軍の監視下に置かれた。しかし後から来た部隊は宿舎などあろう筈もなく、軒下に身を寄せて仮眠する始末で、夏だから未だ夜は我慢出来るものの、日中の暑さには誰もがうんざりして、迫り来る不吉な己の運命に対処する余裕などなかった。そんな最中、九月二日三合里に集結せよとの命令が出た。実はこれからが大変だったのだ。三合里に入るまでの状況を高槻市在住の手塚美義氏が「ある中尉の回想起」に詳しく描写しておられるので、氏の許しを得て次に採録したい。 

 以下は「ある中尉の回想起」の抜粋である。(原文のまま)
 さて三合里集結の命令は参謀長より、隷下の各部隊長あてに詳細な説明が伝えられる。私達も各自将校行李に一切の私物をつめて、私は電報班に持って来ており、各部の将校は各部の部屋に持って来ていた。そして出発の前日輜重車に積み込み、運ばせるよう準備をしている。私は明くる朝大杉参謀(1)に呼ばれ「貴公は馬に乗れるのだから、電報班の兵隊は下士官に任せて、伝令として俺に随行してくれ」と言われる。司令部は誰か部長が先頭に立ち、(閣下〈2〉は既に前述の如くソ連へ出発しており、実質的には大橋参謀長が全部隊の指揮者になっている。しかし私は忘れていたが、大橋大佐はこの時はソ軍の命令で若干の将校とともに司令部に残り、後で三合里に来たらしい)その後を大杉参謀(実質の指揮者)が続き、高級副官や各部長が馬で後に続いていた。
 私は元々馬部隊出身だったから伝令として使ったものと思う。
 その日は朝からカンカン照りであった。雨は大分永く降っていないので、道路は大部隊が移動するのには都合がいい。大部隊であるから参謀部では前夜から大変だった。隷下の各部隊はもちろん満州及び北支の一部より下がって来た部隊まで全部の出発順位、時間等予め決めていた通りを通達した模様である。
 我々は先頭だったが我々以外は皆徒歩であり、各部隊長のみが馬で他は輜重車に荷物を積み、これを馬で引かせて全員徒歩で行軍していたようである。秋乙より三合里まで約二十粁近くはあったろうか。私も一度も行ったことがないのでよく判らない。随分速かったように思うが、正確に何粁か知らない。道の両側右も左も高梁と粟の畑が続き、殆ど人家らしいものは見当たらない。赤土の挨っぽい道をのろのろ歩いて行く。途中の道幅は広い所で精々四米前後である。食事も取らずに歩き詰めに歩いて来ておるのだ。
 やがて三合里の近くへ着く。演習場への進入路に入りかけた時、道路偵察のためずっと先へ出て行っていた大杉参謀が帰って来て、私を呼ぶのでそばによると、「見て見ろ」と指差す方を見ると、山の方の小高くなった所に自走カノン砲をずらりと十二門、砲口を部隊のやって来る方向に向けて並べておるのが見える。
 「今ソ連の将校が通訳を連れてやって来て、次の如く命令して行ったよ」「今夕までに全部の部隊を演習場に入れなければ、あのカノン砲が火を吹くぞ、早く収容させるんだ」と。もうこの頃から「ブィストラ!ブィストラ!(早く、早く)。「ブィストラ、ダハイ!」とやっていたに違いない。後から思えば、その時以来入ソしてからこの「ブィストラ、タバイ!」で追いまくられることになるのだが、これは後で判ることである。
 その時はまだこのロシア語は誰にも判っていなかったことである。その時は参謀の話を聞いて「兎に名無茶を言うものだなあ」、とてもじやないがこのような状態だと、そのようなこと出来るものではないと思った。とは言ってもカノン砲を向けられたのではかなわない。参謀は私に向かって貴公は後方から来る各部隊の所へ行き、各部隊長にソ連の言うことを伝えて廻ってくれ、と命令される。
 道路一ッパイに広がってやって来ているので、道を逆行することは至難である。仕方がないので道の傍らの畑の中を横切って行かざるを得ない。畑の中は当分雨がなかったから乾燥はしているものの、耕された所だから地面は柔らかく、ともすれば馬が足を取られるので膝をつこうとする。手綱を引き締めながら馬の足を折っては動けなくなるので、用心して余り駆けるわけにも行かない。なるべく道路沿いの畦道の堅そうな所を選んで走って行く。それでも畦道だから普通の道路のようには行かない。気はいらいらするし、馬の蹄を見ると蹄鉄が外れそうになっている。しかしどうすることも出来ない。いずれ馬は駄目になるが背に腹は替えられぬ。人の命に係わることだと思い、走れる所迄走れば馬を乗り捨てれば良いと考え、背後に向けて逆行して行く。敗者に対する勝者のソ連の言うことである。一種の脅かしだとは思うが、敗れた我々に対してはどんな惨いことをやるか判ったものでない。その時はあの十二門のカノン砲が目にこびりついて、全く恐怖が先に立ち、まともに信じ込んでいたから本当にいらいらのしどうしだ。砲兵部隊(私の原隊)の所まで来て「部隊長の加藤中佐殿はおられるか」と聞いた所、もっと後ろの方だと言うので再び畑の中に入り後方に行く。
 馬でゆっくりと見覚えのある日焼けした顔がやって来る。近付いてさきの参謀の言を伝え、部隊を急がせて下さいと言うと、彼は厳しい顔になり「何ツ!一体師管区司令部のやり方はなんだ!部隊を何と、心得ているのだ。帰って参謀に言え、こんな状態では今晩はおろか明日になっても入れたものではない。何を寝ぼけたことを言っているのだ。この状態をよく見て見ろ!と、えらい剣幕で怒鳴られた。そらそうだろう。朝早くから整列させられ、司令部と歩兵一個連隊及び秋乙の各部隊が次々と歩き出して、それも永いこと待たされたあげく、遅々として進まぬ行列の後をたどって来ているのだ。立ちどまって前の空くのを待っていた時間の方が永かったかも知れない。糞づまりの状態にあり進む道は細いのが一本ある切りだもの。昼食も取らずに小休止も禄に取らないで歩いて来ているのである。無理もない、加藤中佐ならずとも各部隊長の憤りは怒髪天を衝くと言うところだ。恐くて近寄れない位だ。結局参謀部で前に練った計画も一本道を三合里迄向かわせることなど初めから無理なことで、ソ連からの有無を言わさぬ急な命令なので、十分検討も出来ないままである。各部隊とも十分相談もし、三合里に明るい者が参謀部におれば問題もなかったのだろうが、これも我々が人ソして初めてソ連軍のやり方が判ることになる。何しろ急で言い出したら有無を言わせない、ソ連の命令の仕方である。
 如何ともすることが出来ない。馬を少し遠くの小高い所に乗り上げて後方を見ると、土煙が上がっており、後に延々と行列が続いている。これではこのようなことを各部隊長に伝えに行っても何の役にも立たぬ。唯怒鳴られるだけだと思う。これは無理だと勝手に判断せざるを得ない。
 この状態を一先ず帰って参謀に伝え、馬を取り替えてまた後ろに伝えに行こうと考え、三合里の演習場の入口の三叉路まで引き返して来る。付近にいる者に問い合わせた処、司令部の人達はもう大分前に美勒洞の方へ入ったのと違うか、と言っている。多分歩兵聯隊の将校だったと記憶する。急いで厩舎の方へ登って行くと大杉参謀が待っていた。直ちに前記の状況を報告すると、しばらく考えていたが、「仕方がない。だがご苦労だがもう一度後方へ行き、伝えるだけは伝えてくれ。他の司令部所属の将校も徒歩で皆次から次へと伝えに行っているのだ」と話していた。
 途中合わなかったが、この道を徒歩で逆方向に向かっているのかも知れない。仕方がないのでその辺に繋いである馬に鞍を置き替えてまた出かけて行くことにする。今度は前の如く遮二無二走ると言うのではなく、急いで行っても仕方がないのでゆっくりと畑の中を横切って後の部隊の方へ出て行く。
 段々日が陰りだした。途中まで来ると司令部の連中が帰って来るのに出会う。声を掛けると私が最初部隊長に怒鳴られたと同じで、みんなからひどく非難されたと語っており、部隊はまだ秋乙を離れてはいないだろうと言っていた。秋乙に駐留していた部隊と満州、北支から下がってきた部隊の一部が出て来たばかりだろう。この調子で行くと全く幾日かかるか判らない。
 ソ連はそれが判ったものだから、参謀にあのような事を命じたのだろうと話していた。もう参謀がやきもきしても各部隊はそれを聞こうとはしない。ひどいのになると、「もう戦争は終わったので、司令部も糞もあるか、そんな無茶な話ってあるか」と、「反発を食らうばかりだ。仕方がないから帰るのだ」と言っている。「自分は参謀から二度も言われたのでもう少し伝えて来る」とまた畑の中を後方へ伝えに出かける。
 一体部隊は全部で幾らいたのだろう、これは想像でよく判らないが隷下の部隊と直轄の部隊だけでも一万四、五千は下るまい。満州や北支の一部から下って来た部隊を合わせると、その二倍、いやもっと居たのかもしれない。大変な行列になっている。結局暗くなって来たので、暗くなれば畑の中の道もない所を帰って行く訳には行かない。危なくて困るので引き返すことにする。
 我々の入る廠舎の前迄来ると司令部の将校が二、三人立っていて早く入ってくれ、もうみんな入っている、一旦入るともうソ軍の歩哨が出してくれない。俺達はソ軍の許可を受け、たどり着く将校を誘導しているのだ、と名簿を作るためだろう、肩から図板を掛けて懐中電灯を頼りに、一々部隊名と名前階級を記入している。下馬して馬は鞍を外してやりその辺に放馬させて置き、収容所の中に入った。一番入り口に近い所にある小さな建物が司令部の者が入る場所である。
 夕食を各自飯盒を持って臨時の炊事に取りに行き、車座になって食事をしていたが、まだ全員はそろっていないようである。これではまだ寝る訳にも行かないし、裸電球の薄暗い光のなかで一体これからどうなるだろうと、みんな不安げにぼそぼそと話しあって居た。(以下略)

〈注〉
1 大杉市之輔少佐、平壌師管区司令部参謀、武装解除後一時美勒洞収容所に入り、その後、昭和二十年十二月十五日第二十九作業大隊長として三合里収容所から延吉に出発、翌年一月二日延吉第二八収容所に入所、以後大隊長を高橋大尉と交代し、第六四六収容所将校宿舎に移った。
 以後は未確認情報であるが、昭和二十一年四月ソ軍が中国東北部を撤退して、以後の管理を中華人民解放軍
(中共軍)に移管した際、朝鮮系共産軍(吉東軍と呼称)に拘束され、数名の幹部将校と共に延吉刑務所に投獄された。
 その後、同年六月十三日中共軍に実権が渡る前に、一同は帽子山付近で銃殺刑に処せられたと言われているが、確認するに至っていない。

2 平壌師管区司令官竹下義晴中将
 昭和二十年八月二十五日ソ軍と停戦協定した後、将官達は平壌飛行場に集結させられ、ハバロフスクに連行されたという。

 では何故このように時間がかかったのか。
 ソ軍が最も恐れているのは収容所内の反乱、暴動、集団自殺等の不祥事である。これは後で判ったことであるが、人質は大切な労働資源であるから、自殺でもされたらそれこそ管理者は大変だ。「はらきり」と言う言葉が彼等の口から出たのは意外であったが、武士は捕虜になるのを恥じて切腹すると教えられていたのかも知れない。だからその後将校の軍刀こそ取り上げなかったが、再三持ち物検査をして針までも取り上げていた。

 このような訳で三合里収容所に入る前に身のまわりの物以外は捨てさせるか、没収するか、てんやわんやで、検査して入れたのだ。だから三合里への道路の両側はおびただしい車両や行李や鍋釜類が捨てられていて、それをソ連兵や現地人が漁っていたという。ある者はこれを称してナポレオンのモスクワ撤退もかくやと想う、と書いている。
 我々はソ軍と戦闘をした訳でないので、戦争に敗けるとはどんなことか実感としては判こたっていなかったが、今日一日でいやというほど身にしみて堪えた。だがこれはほんの序の口であることを悲しいかな知らなかった。
 こ
のことはそれまで逃亡者が少なかったことでも判る。三八度線までは車で数時間で突破出来るのだからやろうと思えば簡単であった。しかしそれも八月二十三日頃までで、その後は難しくなったらしい。これは帰国してからの話であるが、土地勘があり、朝鮮語が話せる者ならば三合里集結直前でも逃亡出来たようだが、三八度線を越えるのに大変苦労したと聞く。このことは収容所に入ってからでも使役先から幾十人かが逃亡したが、南下した者よりはむしろ北上して中国東北部に入った者の方が成功したようであった。

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