第二章 前期抑留生活

 平壌地区の収容所は当初、三合里、美勒洞の二個所で秋乙は翌年作られているが、そのほかに平壌市内に数個所及び南浦(旧鎮南浦)等に作業所があった。一方日本海に面した処には古茂山(富寧)、宣徳、富坪、五老里、興南等があった。これらの配置図を付属文書付地図1に示す。
 これらの収容所の大きな特徴はソ連極東軍の直轄であって、ソ連本国に於けるような内務省管轄やモンゴルのような自治国管理下でなかったことである。これがどれだけ幸いだったことか、これは帰国してから知ったことであるが、もし仮に、これが朝鮮人民政府の管理下に置かれていたとすれば、想像するだけでも戦傑を覚えるものがある。
 朝鮮民主主義人民共和国の独立宣言は昭和二十三年九月であるが、二十年十一月には北朝鮮行政局が成立し、翌二十一年二月には北朝鮮人民委員会が成立しているので、モンゴルのような使役形態があっても不思議ではない。 
 想うに最後までソ軍の管轄下に置いたのは本国への人員供給基地であって、北朝鮮の復興に寄与する考えなどなかったと思われる。お蔭でノルマもなければ、政治教育もなかったことが、どれだけ気分的に明るくしたことか。ノルマがなかったのは理解出来るとしても、政治教育がなかった経緯には次のような秘話がある。

 古舘司令の言によれば、ソ軍政治部将校からしばしば共産教育の申し入れがあったが、日本兵はラボートで疲れており、寝る事と食う事以外は頭に入らないから教育しても無駄だ、教育のために作業が休めるというのであればやっても良いかと要求を拒否した。ソ軍の司令部と政治部との意思疎通が悪いのが幸いして、これ以上追求してこなかったという。
 当座の急務な仕事としては、我が軍や民間が残した物資や施設を本国に輸送するための解体、梱包、貨車積みや船積み作業で、これら略奪物資の輸送は帰国時まで続けられたが、終わらなかったという。
 その他軍の施設や居住設備の補修等の僅かな仕事だけであった。

 第一節 三合里収容所の開設

 三合里収容所の管理組織が何時どのような経緯で出来たのかは定かでないが、昭和二十年八月二十八日に平壌師管区司令部の先遣隊が三合里に入ったとあるので、九月二日に本隊が到着する迄に、ある程度の宿舎割当が決まっていたと考えられる。
 しかし、舎営司令古舘勉空軍少佐の証言によると、ソ軍は当初明確な管理組織を考えていた訳ではなく、司令等の意見具申に基づいて逐次整備していったという。 舎営司令部の主な職員は別表1の通りであるが、古舘氏が何故司令に選ばれたかに就いては氏の言によれば、平壌師団は師団以外の航空隊に押し付け、航空隊では新任の少佐に白羽の矢を立てた謂わば貧乏くじであったというが、歴戦の勇士で戦傷を負っておられ、全く舎営司令にうってつけの意志強固な立派な人物であった。副官以下の幹部は平壌師管区工兵隊出身者が多く、設営に便利だと言うことで選ばれたに違いない。
 先ず設営は次の方法で進められたと思う。
 ソ軍との折衝は一番やっかいな、しかも気骨の折れる仕事なので、司令自ら通訳を連れて日参したことであろう。ソ軍の命令はいつも突発的で、しかも意図を明示する訳でもなく直ちに実行と来るから常に驚かされ通しであった。
 内務的な部隊の編成、部屋割り、施設の整備、糧秣、被服、資材の確保や支給等は副官以下の幹部が手分けして事に当だったと思われるが、最初の一週間位は不眠不休の状態が続いたことであったろう。衣、食、住のうち、衣と食は取りあえず間に合っていたが、住だけは幕舎生活者を解消する必要にせまられていた。北朝鮮の九月は秋既に深く、夜露がびっしょり濡れて、やがて霜になる日の近いことを暗示していたからである。

 表1 三合里収容所舎宮司令部組織職員表

職務  元階級 氏名    出身府県
司令  少佐  古舘 勉  北海道

副官  中尉  田村耕作  富山県
書記  曹長  依藤邦雄  兵庫県
〃   〃   若林善良  福井県
軍医  中佐  相沢七男  茨城県
〃   大尉  土井健男  岡山県
糧秣  少尉  阿部鐵太郎 兵庫県
〃   軍曹  真壁良治  神奈川県
被服  少尉  佐藤 廉  兵庫県
〃   軍曹  榊原延一  山口県
技術  少尉  小室鐵雄  東京都
〃   〃   中川俊二  大阪府
通訳      岩本啓一  島根県
〃       池田吟二  福岡県
〃       小浦和男  広島県
獣医  中尉  鈴木武四郎 愛媛県

()部隊の編成
 古舘司令の言によれば、ソ軍は当初、将校と下士官・兵とを分離して収容する計画であった。その意図する所は日本軍の解体にあったことは明確であるが、いざ実施して見ると、一個連隊千名を超える人員を一曹長クラスの者が統率することは到底不可能で、加えて敗戦による武装解除で軍隊組織がなくなった意識が強く、烏合の衆に近い集団と化していたから余計始末が悪かった。
 ソ軍もこの事に気付き、急遽佐官クラスの者を長とする舎営本部を設け、作業大隊の編成を命じたが、その編成内容等に就いては何等の方針も示されなかったと言う。舎営本部と言っても古舘司令、副官田村耕作中尉、森野永朗大尉、田谷信夫大尉、中田恭一主計小尉、依藤邦雄曹長の僅か五人であった。
 そこで先ず、本部要員の増員を要求し、間もなく二十名位が到着した。次いで、作業大隊の編成表を作成してソ軍に認めさせ、幹部要員を確保してから逐次作業大隊の編成に着手した。
 当初の大隊編成の概要は次の通りであった。
  大隊本部(隊長 大尉)
   本部要員 副官、主計、軍医、各将校一名
        下士官、兵
        自動車四面、輜重車十両、駄馬十頭
  中隊は四個中隊編成、各中隊は四個小隊、各小隊は分隊に区分
 部隊の編成は入所した順になるべく旧部隊をまとめて、千名単位の作業大隊を編成していたが、後になってソ軍は意図的に編成替えや移動を行った。その理由は不明だが、旧知の者が集まると団結して悪いことをやる恐れがあるからだろうとの噂であった。
 人員点呼は毎日定時に行われるか、又は突然行われることもあるが、総じて時間がかかり、うんざりする日課であった。五列に並ばせてソ連兵が数を数えるのだが、集計に手間どるのだ。ソ連兵は計算が苦手だということが判ったのもその頃であった。 作業大隊は第一から第三十二まであったようだが、正確には判らない。その理由は編成途中から使役で何処かに移住するし、南浦(旧鎮南浦)や市中に作業隊が長期出張して帰らなかったりしたことによる。厚生省の記録によれば美勒洞の二個大隊を含めて全部で三十二個大隊であったとある。
 十月頃になると、軍人以外の軍属、警察官、司法官、官吏等の民間人まで連行して来たが、中でも気の毒なのは、八月に現地召集した者は終戦直後に召集解除して帰郷させたのだが、朝鮮人の密告によってソ軍に逃亡兵として捕縛され、連行された者が多数あったことである。
 () 設営
 三合里の宿泊設備は元来野営演習用の仮設宿泊施設で、規模にしても師団単位の利用施設だから数千人か、多くても一万人以下の宿泊しか出来ないものであった。そこに三万人近い人員を押し込むのだから天幕生活を余儀なくされる部隊が出るのは当然で、先ず寝るところを確保することが緊急の課題であった。そこで小家屋や不都合な建屋を取り壊し、大家屋を建て増すことにした。幸いにも関東軍建設部隊があらゆる職種の建設要員をかかえていたので、建設は容易であったが建設資材の不足には閉口した。
 しかし、日本人はなんと器用な民族なのだろう。「窮すれば通ず」とはこのような事を言うのだろうか。日頃の創意工夫がこのような時に発揮されるのだから喜劇である。
 例えば、釘はすべて古村から抜いて、真っ直ぐに延ばして使用した。梁などは短い木材を継ぎ足してトラス梁として利用したし、トタン板の穴はハンダで塞いで屋根材とした。風呂桶はトタン板を延ばして大きな五左衛門釜を作った。なにしろ人手はいくらでもあり、しかも自分達の為だから皆喜んで協力してくれた。
 入所以来二週間並で、取りあえず恰好はついたようだが、なおも続々と送り込まれてくる人員のため、幕舎は取り外すことが出来なかった。
  () 柵作り
 捕虜の悲哀を最初に味わったのがこの鉄条網の柵作りであった。元々三合里宿舎の周囲は簡易な鉄条網の柵があったが、ソ軍はこれを二重の高い柵で囲み、要所要所に監視の望楼を設け、この仕事を我々にやらせたのである。籠の鳥が己の籠を編むとは、人を喰った話ではないか。しかもその柵には電線を巡らせ、夜間照明をして夜の逃亡を防止した。その電球の交換も我々にやらせ、誤って射殺される悲劇も起こったことがあった。
 () 医務室の開設
 九月初め三合里収容所で死者が出たので、急遽美勒洞より土井健男軍医大尉が来て病人を診察するようになったが、赤痢や腸チフスのような伝染病は秋乙病院(旧平壌第一陸軍病院)に移送した。疥癬のような軽い病気は隔離病棟を作って隔離し、十月七日美勒洞収容所より相沢七男軍医中佐以下四名の軍医が来て、医務室を開設し、以後継続的に診療するようになった。
 () 使役作業隊について
 ソ軍は三合里収容所に収容する傍ら、一方では直ちに各地に使役班を派遣して各種の作業に従事させた。作業の内容によって大別すると、主に次のように区分される。
  一、占領物資の本国輸送(軍及び民間の集積物資、機械設備等の撤収、梱包、貨車積み、船積み等

                    平壌兵器製造所、同補給所、糧秣廠、被服廠、航空補給廠、
              海軍燃料廠、平壌精糖工場、鎮南浦製鉄所等

  二、軍施設の整備(軍司令部、平壌飛行場、将校家族宿舎)
  三、その他 森林伐採は養徳、石湯温泉等がある。
        地方都市では定州、新義州、安東等があるが、何をしたか詳細は不明である。
 記録によれば八月二十八日、三合里に入所した関東軍整備教育隊が九月八日に秋乙に移り、第一作業大隊となるとあり、又高射砲第百五十二連隊第一大隊は、九月七日三合里から秋乙に移り第五作業大隊に、朝鮮軍教育隊は九月二日直接秋乙第四作業大隊になっている。ここでいう秋乙とは秋乙地区の何処に駐留したのか不明であるが、平壌兵器補給廠、平壌補給廠の積み込みや平壌駅に於ける貨車積み等の使役には、三合里からでは遠いので秋乙地区から通ったのではないかと推論する。平壌飛行場の使役隊の記録によれば、秋乙の慰安所のような所に居たと記述している。
 一方南浦(旧鎮南浦)では早くから使役隊が駐在し、製鉄所の解体、梱包、貨車積みや、続々と送られて来る荷物の船積み等に従事させられ、溶鉱炉の耐火煉瓦まで解体して持って行ったという。
 これら使役班とは別に建設技術者が動員され、主としてソ軍の施設、住宅の改造等に従事した。これには関東軍建設団の技術者が充当され、官民の施設、住宅を問わず、現地人の住宅まで接収して、ソ軍の施設や将校の住宅に改造した。これら軍直轄の作業隊には西脇隊、篠原隊等があり、それぞれ平壌駅近くの旧鉄道官舎、神学校跡に、憲兵隊の作業隊はその近隣に駐留して居たようである。
 これら作業隊の人員補充、交代、連絡、物資補給等は石井自動車隊(石井俊知大尉)が当たっていたようで、使役要員の規模の変遷はあったものの、占領物資の本国輸送業務は帰国直前まで続けられたが、運びきれなかったという。

第二節 美勒洞収容所の開設
 美勒洞収容所は三合里地区野営演習場の一角に美勒洞と言う地名があり、三合里よりやや小さい舎営施設があった所で、主として将校達を収容した施設である。
 この収容所は存続期間が短かったこともあって、どのような舎営組織で運営されたのかは明らかでないが、推定するに平壌師管区司令部参謀長大橋大佐が中心となり、二つの作業大隊が編成されていたようである。収容された部隊の主なものは、
  平壌師管区司令部及び隷下各部隊将校
  関東軍直轄部隊及び兵站各部将校
  朝鮮軍隷下兵站各部将校
  第十七方面軍隷下第百二十師団及び第三百二十師団の一部将校
  第三十四軍管下第百三十七師団司令部及び隷下各部隊将校
  第五航空軍隷下各部隊将校
  海軍第五燃料廠将校
  道知事及び警察署長
 なお、詳細に就いては付属文書付表1の部隊名一覧を参照せられたい。
 美勒洞の設営に就いては当初こそ天幕生活を強いられた者もあったが、三合里の作業大隊編成に伴い、若手将校が大隊長や副官として次々と転出して行き、かつ平壌や南浦(旧鎮南浦)に長期使役の作業隊の責任者に転出する者等があって、特に宿舎の増設等は必要なかったようで、当初の仕事と言えば周囲の柵作り程度であった。
 この鉄条網で思い出すのは、大橋少尉(見習士官ともいう)がこの鉄条網に近づいて誤射されるという痛ましい事故が起きた。収容所に落ち着いて間もなくのことだから九月半ば頃だと思われるが、鉄条網に寄って来た現地の人から物を買おうとしたらしい、と言うことであった。彼の遺体はどうなったか伝えられていないが、多分収容所内の一隅に埋葬されたに違いない。
 その後は、毎日「これからどうなるか」の状況判断の議論に終始したものであった。大方の意見としては、ソ軍とは戦闘らしい戦闘もしていないのだから、間もなく帰してもらえるだろうという楽観論であったが、中には第一次欧州戦争時のドイツの捕虜の例を引き、十五年は帰れないという悲観論者もいた。何しろ判断に資する情報が皆無の中の議論だから、不毛の論議といっても過言ではない。
 ここで参考までにソ連解体後の極秘資料が示す「捕虜管理綱領」に就いて概説しておきたい。この綱領がスターリンが統括する大本営防衛委員会に採択されたのは一九四五年八月二十三日で、立案は七月二十日頃であるという。日ソ開戦に先立つこと僅か二十日余りである。その中の日本軍に対する措置の骨子を挙げれば次のようなものである。
 一、旧日本軍の捕虜の中より労働可能な最低五十万人を選定しておくこと。
 二、一千名単位の作業大隊の編成、及びその大隊長、中隊長は下級将校又は下士官より選抜し、被服等は戦利品より調達すること。 三、ニカ月分の食糧、輸送方法、戦利品の保管、警備等の規約
 四、地域別、労働種類別割当人員の一覧表
 この割当表の一覧を付属文書の付表6に示した。
 なお、これより先一九三九年九月十九日「外国人捕虜に関する収容所設置令」を発令している。これによると、収容所には所長のほか政治部員を置くとか、収容所の管理は中央及び地方の内務省が共同であたる等が規約されている。発令者はNKVD長官ベリヤであり、ドイツがポーランドに侵攻した十八日後の事である。これを見てもスターリンが国家再建のため、早くから外国人捕虜の使用を計画し、如何に日本軍の捕虜を重要視していたかが判ると共に、我々の運命は、既にこの時に決まっていたことを思い知らされるのである。
 第三節 秋乙病院(旧平壌第一陸軍病院)への統合
 平壌には朝鮮軍の兵站病院として、平壌第一陸軍病院と第二病院があった。前者は平壌師団が設立された時期に新設された病院で秋乙にあり、後者は平壌衛戌病院と呼ばれていた羅南師団以来の古い由緒ある病院で、平壌市内にあった。
 ところが、日ソ開戦直後関東軍直轄の病院が、患者を連れて続々平壌に避難して来た。これら諸病院は武装解除後もソ軍管理下に於いて業務を続けたが、逐次統合させられて最後には平壌第一陸軍病院に集結し、秋乙病院として翌年三月まで存続した。各病院の経緯を以下に述べる。
 () 公主岑陸軍病院
 昭和二十年八月十日、先遣隊が職員患者併せて百八十七名懐徳(一旧公主岑)を出発し、八月十二日平壌着、主力は八月二十日、職員患者併せて二百名懐徳発、同二十二日平壌に着いている。先遣隊が南山国民学校に病院を開設していたので、合流して病院業務を継続した。次いで九月十日同病院を閉鎖し、患者と看護婦を平壌第一陸軍病院に移し、職員は三合里に、将校は美勒洞にそれぞれ収容された。
 () 新京第二陸軍病院
 昭和二十年八月十二日主力は通化移転の為、職員七十名、患者九十六名を残して長春(旧新京)を出発、通化にて停戦を知り、重症患者六十名を通化病院に移し、職員患者併せて五百名の本隊は八月二十日通化を立って平壌に向かった。翌二十一日平壌に着き、重症患者を平壌第二病院に移し、その他の患者を平壌第一中学校に病院を開設中の関東軍衛生下士官候補者隊に入れ、本隊は山手国民学校に宿泊して引続き病院を開設した。
 八月二十八日山手国民学校より南山国民学校に移り、以後公主岑陸軍病院の者と同一行動をとった。一方平壌第一中学校に病院開設中の関東軍衛生下士官候補者隊は九月十三日病院を閉鎖して、患者看護婦を平壌第一病院に移し、他の職員は三合里に、将校は美勒洞に移った。
 () 新京第一陸軍病院
 病院の主力は日ソ開戦と共に吉林に移転したが、停戦に伴い旧地に戻り、吉林分院の磯部軍医中尉以下職員二十三名、患者五十名が八月二十五日平壌に到着した。
 一度は三合里に収容されたが、後で患者を平壌第一中学校に病院を開設中の関東軍衛生下士官候補者隊に移し、以後同一行動をとった。
 これより先、関東軍衛生下士官候補者隊一職員のみ一は通化で停戦を知ると直ちに南下して八月十八日平壌に到着し、平壌第一中学校に宿泊して病院を開設していた。
 () 平壌第二陸軍病院
 昭和二十年八月二十一日新京第二陸軍病院の重症患者を受け入れ、輸送中の死亡者二名を敷地内の松林に埋葬し、二十六日の武装解除後も引続き業務を継続した。
 九月七日同病院を閉鎖し、翌八日職員、患者(約百名)とも平壌第一病院に移動して、以後同病院の者と行動を共にした。以上の結果、九月十三日以降はすべての患者が平壌第一陸軍病院に収容されたので、病院内は千七百名を超える患者で溢れる有り様であった。この状態は病弱者が延吉に送られる十月末日まで続いた。よってこれ以降この平壌第一陸軍病院を秋乙病院と呼ぶことにする。
 当時三合里や美勒洞で発生した病人は秋乙病院に転送することになっていたが、秋乙病院ではこれ以上の患者の受け入れが困難になっていたので、重症患者を除き、軽症患者は現地で診療出来るようにした。九月初め頃、三合里収容所で死亡者が発生したので、美勒洞収容所より土井健男軍医大尉他一名の医者が来て、診療を開始したが、本格的に医務室を開設したのは、十月七日、美勒洞収容所から相沢軍医中佐以下四名が三合里収容所に来て患者を診るようになってからである。これが後の三合里病院の前身であり、前記病院の統合により配転された看護婦や衛生下士官が追々増員されて、医務室の組織が充実されていったものと思われるが、正規に三合重病院となるのは昭和二十一年四月秋乙病院の閉鎖後のことである。
 当時の患者の発生状況を見ると、三合里収容所では癖癬患者が多く、疥癬病棟なるものがあったようである。赤痢や腸チフスのような伝染病患者は秋乙病院に移されていたので、初期の死亡者は主に秋乙病院で発生していた。
 秋乙病院の死亡者は石田准尉が調整者となって名簿に記載されているが、何故か病名が記載されていない。別に死亡診断書があったようなので、病名はそちらに記載されていたかもれないが、これはソ軍に没収されてしまった。それ故何病の死亡者が一番多かったのかは推定の域を出ない。
 病名として考えられるものは、結核、赤痢、腸チフス及び栄養失調であるが、栄養失調は食料が無くてなったのではなく、過労により栄養摂取ができなくなったものと思われる。
 死亡者名簿によれば、十月の死亡者が一番多く、次いで九月が多い。十一月からは極端に少なくなっている。八月の死亡者は何故か一名しか記載されていないが、若干の死亡者があったことが判っているので、記載漏れがあるものと考えられる。これらに就いては四章に於いて詳しく記述することにする。
 敗戦に伴う精神的なショックと、避難や移動による肉体的疲労とが重なって、結核患者のような長期療養患者は生きる望みを失い、親しい戦友に看とられることもなく、ひっそりと亡くなっていったであろうことを想うと哀れである。以上の陸軍病院群の移動状況を図示したものを付属文書の付表2に表示した。

 第四節 シベリア輸送 
 収容所での生活は単調にして、しかも情報不足の毎日だから苦痛以外の何物でもなかったが、十月に入ると事態は一変し急に慌しくなった。ソ連のやり方は常に突発的で何の説明もないのには馴れていたが、急に「東京ダモイ」と言われて面喰ったものであった。これがシベリア輸送の始まりであるとは、誰一人気付く者はいなかったし、興南から出帆しても日本に向かうと希望的観測をしていたという。ただ警戒がやけに厳重なのが、故国に帰るにしてはおかしいと気付く者が居た位だった。
 ましてや収容所に残された者が知る由もない。古舘司令の言によれば、「東京ダモイ」が真っ赤な嘘であったとの情報が判った真相は、最初のシベリア輸送の際、通訳として興南まで同行した池田吟二氏が暫くして戻って来て伝えたという。
 シベリア輸送は時期的に一次と二次の二回に分けて行われたようである。第一次輸送は終戦の年及び翌年初め頃までに実施され、総勢五十万人に達すると一時中断されたようである。この組は現地の受け入れ態勢が不備の上、食料事情も悪く、加えて厳寒の極東地区に夏服のまま送り込まれたので、寒さと飢えのため傷病者が続出した。
 第二次輸送は昭和二十一年春から夏にかけて残りの人員を輸送したもので、九千名足らずで、主として中央アジアの遠方まで送られたが、温暖な地区と食料事情の好転と相まって死傷者は少なかった。
  () 第一次シベリア輸送
 第一陣は昭和二十年十月五日三合里収容所から千名の一作業大隊が出発した。以後急ピッチに輸送が進み、年末までに大部分の輸送が終了した。その内容を表2に示す。
 この表によると、三合里から十二月に出立した者は一個大隊であるが、会員の証言によれば、十二月十二日に第十二、十三大隊、同十九日に第二十、二十一大隊が出発したという。この真相は定かでないが、直接興南に行って、そこで編成替えになったか(興南第十三大隊等)、あるいは秋乙地区で使役に従事して居て、秋乙の作業大隊に編入されたか、確証が得られない。
 表2 第一次シベリア輸送内訳

年月    作業大隊 人員 収容所  経由地 上陸地  備考
昭和二十年 五    五千 三合里  興南  ナホトカ
十月    五    五千 〃    〃   ポセツト
      ニ   ニ千百十 美勒洞 〃   〃    将校団
      一   千    三合里 〃   ウラジオ 期日不明

      一   千    〃   〃   ポセツト
十一月   五   五千   〃   延吉
      二   千百二十五秋乙病院〃        病院・患者
      一   千    秋乙  興南
十二月   一   千    三合里 延吉  クラスキーノ
翌年一月  二   二千   〃   興南  ポセツト
 計   二十五  二万四千二百三十五名

 いずれにせよ、付属文書付表3には三合里で編成された三十二個作業大隊の内、欠番のものが十二個大隊あり、その内秋乙で編成されたものが九個大隊あるので、都合三個大隊が欠落している。
 () 第二次シベリア輸送 
 昭和二十一年四月残された者の内、舎営司令部、病院勤務者、患者及び若干の使役要員を除き全ての人員をソ連本国に送った。その内容を表3に示す。
 古舘司令の言によれば、シベリアからの逆送者の代替要員七千名を送れと言う指令であったと言う。
 表3 第二次シベリア輸送内訳
昭和二十一年 作業大隊 人員  収容所 経由地 上陸地  備考
 四月     一   千   三合里 延吉
 六月     七   七千  秋乙  興南  ポセツト
 八月     一   千   〃   洪儀  クラスキーノ
 計      九   九千
 合計    三十四  三万三千二百三十五名
 以上の移動状況の詳細を付属文書付表3に、延吉に移動した者の詳細を同4に表示した。
 この内、ソ連の意図が不可解なのは延吉に送られた人達の内容である。記録によれば、軍人では老齢者で且つ病弱者、非軍人では警察官、官吏、軍属、在郷軍人等の者ばかりを選んで送り込んでいる。元来、この者達は労働に耐えないばかりか、非軍人は抑留出来ない筈の人達である。案の定、非軍人達は間もなく昭和二十年十二月三十一日延吉で解放されている。しかし、酷寒の地で追放同様のやり方は死ねと言うに等しい。作家の新田次郎氏もこの中の一人で、著書「望郷」に当時の様子を伺い知ることが出来る。
 中でも最も哀れをとどめたのは、延吉に送られた病弱者と病院勤務者である。第一梯団は別所軍医中佐以下職員百二十二名、患者四百三十名の編成で、十月三十日秋乙病院を出発し、第二梯団は水野軍医大佐以下職員八十六名、患者四百八十七名の編成で十一月一日出発し、約一週間かけてそれぞれ延吉の六四六収容所に入所している。
 水野梯団に同行した通訳中野荒太郎氏(萩市在住)の証言によれば、ソ連政治部将校の指示により延吉までの輸送の通訳として同行したが、「東京ダモイ」と言ってあるので、延吉に行くことは絶対に口外してはならないと厳命され、任務終了後必ず平壌に戻すから私物はそのままにして置くようにとのことであった。延吉に暫く滞在した後、護衛兵と共に約一カ月ぶりに平壌に戻って見ると、私物の大半は日本に帰ったものとして処分されていたと言う。 当時延吉は陸路ソ連に送り込む兵站基地となっており、次々と送られて来る人員の内、病人を残して人ソするため、病人の溜り場の感があった。延吉には正規の病院は延吉陸軍病院だけであったが、東軍から来た東軍病院や、平壌から来た平壌病院、そのほか各地から来た病院がそれぞれ診療所を開設していた。しかし、この冬に起こった発疹チフスの猛威には手の打ちようがなく、数万の死亡者を出し、水野大佐も別所中佐も同じ病で死亡したという。病院長が死亡する程とは異常の事態と言わざるを得ない。
 () 入ソ後の地区について
 一次と二次の人ソ時期について、明暗を分けたことは既に述べたが、人ソして何処に居たかによっては生死を分けたと言っても過言ではないと思われる。 資料によれば、興南から人ソした者及び延吉から人ソした者の大略の行き先は判るが、上陸地によって異なるし、同じ地区でも作業所が数十個所に分かれており、かつ年に数回移動を繰り返しているので、特定することは困難である。
 参考までに人ソ地を挙げれば左記のような所である。
 興南組 *ソフガワニ、*セミョノフカ、*ウラジオストーク、*ウォロシロフ、ウクライナ、*スーチャン、*アルチョム、テチューハ、アンジジャン、ベグワード
 延吉組 *コムソモリスク、*ムリー、*ハバロフスク、*ホール、*ホルモリン、モスクワ
 これによると第一次輸送の場合、興南組は主として沿海州に、延吉組はハバロフスク州に送られたようである。第二次輸送の場合、興南組は中央アジアに、延吉組はモスクワに行ったようである。ところが、前述したように第一次輸送組は厳寒の地域にも拘らず、衣、食、住の劣悪さのため、多数の死亡者と栄養失調症患者が出た。
 そのうち死亡者は表4に示す如くであるが、栄養失調症患者(*印のついているのが発生個所)はやがて暖かくなると北朝鮮に送り帰されて来るようになる。これに就いては第三章に於いて述べる。
 表4 死亡者多発地区の概要
 沿海州地区     推定死亡者   分所数   病院
ウォロシロフ      三千      二一    一 
セミョノフカ      千七百     二一    一
スーチャン       千二百     一二    一
アルチョム       八百九十六    八    一
ウラジオ        百八十二    一八    一
ハバロフスク州地区  推定死亡者   分所数   病院
コムンモリスク     二千五百    一四    ニ
ムリー         二千三百   一二九    三
ハバロフスク       千百     二四    二
ホルモリン        千五百    五七    三
ホール          千      一四    二

 () 我が軍の人ソの全貌
 ここでソ連に抑留された我が軍の全体像について、簡単ながら触れておきたい。その理由は、やがてこれらシベリア全土から栄養失調症になった患者が、続々と北朝鮮に送り帰され、その数二万七千名に達したことと密接に関係しているからである。平壌には七千五百名が来たが、.これらに就いては次章で詳しく述べることにする。
 終戦後、関東軍はどの様な状況下で何処に連行されたかは、しばらくの間情報が途絶えて判らなかった。最も早い情報の一つに昭和二十一年十月頃中国東北部(旧満州)コロ島より博多に上陸した第一陣の復員者によってもたらされた情報があり、以後朧げながら中国東北部の様子が判るようになった。
 それによると、ソ連軍は昭和二十一年四月中旬頃中国東北部を撤退し、それまでに健康者をすべて本国に移送し、病弱者の軍人と在留邦人を現地に残置し、以後の管理を中共軍にまかせたようである。 しかし、当時中共軍は国府軍と政権抗争の最中で、これら日本人は足手まといとなり、少数の医療技術者や看護婦等は徴用して拘束したが、他の者は解放して帰国させたようである。これらが前記帰還組であった。
 これからすると、昭和二十一年六月から八月にかけ、遅れて人ソした組は北朝鮮だけのようで、思うにこれは栄養失調の逆送者の代替として、穴埋めに使われた感がする。
 昭和二十一年末にはソ連地区の日本人の引き揚げに関する米ソ協定が結ばれ、第一船が真岡より函館に入港したのが昭和二十一年十二月五日であった。本格的な引き揚げが開始されるのは翌年四月以降のことであるが、これら帰還者がもたらす情報により、初めてソ連国内の恐ろしき抑留の全貌が明らかとなってきた。
 復員局が引き揚げ者から聞き取り調査した結果をまとめた資料が、付属文書の付表7である。ついでに付表6と併せ参照せられたい。これに拠ると、関東軍の部隊名(師団以上)、集結地、人ソ時期、行き失地等の大略を知ることが出来る。ただし、この資料は人ソ初期のもので、その後次々と移動や編成替えを繰り返しているので、実態と大分かけ離れているかも知れない。
 人数については、集結地で編成された作業大隊を基準にして算出されている様子なので、編成時期を統一しないと、ダブル危険性がある。例えば三合里から興南に行き、そこに暫くとどまり、編成替えをして翌年入ソした組もあるので、それをどのように調整したか判らない。延吉に行った者も同様である。
 資料に拠れば、
中国東北部 将兵  四十七万八千二百名
北朝鮮   〃     六万三千名
千島・樺太   〃     七万二千名
  計-       六十一万三千二百名
 とあるが、付表7の合計人数に千島・樺太の分を加えると五十九万人となり、若干足りないが大略の人数となる。
 一方ソ連側の一番早い情報は、一九四五年(昭和二十年)九月十一日 ソ連情報局の発表として、タス通信が伝えるところによれば、
日本軍将兵(内負傷者二万人を含む) 五十九万四千名
船舶関係者(負傷者を含む)       二万二千三百六十四名
 計               六十一万六千三百六十四名
 よってこの数字は多少の差はあるものの、概ね信用してよいと思われるものである。
 ところが引き揚げが開始されると、当初死亡者を認めなかったソ連側の数字の矛盾が明らかになることに気付き、一九四九年(昭和二十四年)五月二十日付のタス通信は四月二十一日ソ連邦閣僚会議の発表として、八割方終わった日本兵送還の中間発表を次のように伝えている。
 日本軍将兵              五十九万四千名の内
 昭和二十年内に直接戦闘地域で釈放した者  七万八百八十名
 差し引き               五十二万三千百二十名
 既送還人               四十一万八千百六十六名
 本年十一月までの送還予定者        九万五千名
 受刑者および引き揚げ不可能者         九千九百五十四名
「直接戦闘地域で釈放した者」とは不可解である。一般邦人なら考えられるが、軍人ではあり得ない話だ。思い当たる節があるとすれば昭和二十年末から翌年六月にかけて、中国東北部および北朝鮮に病弱者四万二千五百五十名を送り帰して来ている。その詳細は次章で述べることにするが、他にあるとすれば推定だが、負傷者や当初からの病人は延吉の如く残置したまま、本国には移送しなかったのではないか。これらを併せると七万余の数字は理解できるが、戦勝国として得意気に発表した当初の数字に臍を噛む思いがしたことであろう。
 しかも、翌昭和二十五年四月二十二日の送還完了時の発表によると、
 送還予定者 九万五千名の内      実送還者 五万一千四百九名
 受刑者他    九千九百五十四名の内 〃      一千四百八十七名
                    病人           九名
                    中国戦犯引き渡し 凡百七十一名
残余(五万一千七十八名)についての説明は何もなかった。
 この時点でなお若干の受刑者があることは判っていたが、船舶関係者の二万余の人達と併せて七万近い人の数字の詰めをしなければならない。
 この結果ソ連の言う送還者は中国引き渡しを除き、総計四十七万一千七十一名となる。
 それでは実際の帰還者数はどうだったのかを、復員局の資料から見ると次頁の通りである。この数字には中国東北部および北朝鮮からの帰還者は含まれていないものと考えられるが、これ以降の帰還者は受刑者で、昭和二十六年から同三十一年まで十一次にわたり計二千五百七十八名が釈放されている。
 これらを併せると総数四十七万三千六名となるが、なお七万一千五百余名の不明者があることになる。
 昭和二十一年十二月から翌年一月          五千名
 昭和二十二年四月七日から同十二月五日    二十万七百七十四名
 昭和二十三年五月六日から同十二月四日    十六万九千六百九十一名
 昭和二十四年六月二十八日から同十二月二日   八万七千四百十六名
 昭和二十五年一・月二十一日から同四月二十二日    七千五百四十七名
  合計                  四十七万四百二十八名
 ソ連邦解体後、日本軍抑留の実態が徐々ではあるが明らかとなり、当初五十七万とも言われてきた総人数が、六十万を超えることは間違いなさそうだし、死亡者にしても五万数千と考えられていたのが、六万人を超えると判明したことは一歩前進だが、ロシアとは交流が盛んになっているのだから、死亡者の総人数位どうして正確に掌握できないのか、国の対応に悲憤するものである。
 第五節 収容所生活点描
 () 食料事情
 収容所の日常生活で最も切実な問題は食料である。衣・食・住について当初は住居の確保に苦労したが、一応のめどがついた後はやはり食べ物の不安であった。
 古舘司令の言によれば、三合里に入所当初中田主計少尉に命じて、糧秣請求を再三要求したが、ソ軍側は一カ月は日本側で賄う約束になっていると言って耳を貸さなかったという。後で一人一日あたり米一合、野菜として干しわらび、味噌の代わりに魚糟、岩塩といった物をくれたようだ。
 また、三合里以来糧秣係を担当していた阿部鐵太郎氏の証言によると、次のような状況であったと言う。
 三合里収容所に入所当初はソ軍よりの糧秣支給など望むべくもなく、止むなく各自の携行食並びに部隊所持糧秣を供出させて適宜賄ってきたが、九月半ば頃から底を突きはじめ、所内の動植物で食べられる物はすべて取り尽くした。九月末頃になってやっとソ軍の糧秣支給が開始されたが、コーリャン、コーン粉末、岩塩、塩漬魚等の粗末な物で、しかも不規則な支給方法なので献立計画が立たず、また何時支給が途切れるかも知れぬ不安が常にあった。
 最も頭を悩ましたものに野菜不足があり、夜盲症患者が出るに及んで、ソ軍兵の監視の元に馬車で市内に野菜の買い出しに行くようになった。買い出しといってもソ軍による徴発に近いやり方なので、しばしば、現地の人との間にトラブルが起こり、ソ軍兵が威嚇発砲する騒ぎとなり、多数の死傷者が出たこともあったという。これらの業務を円滑に遂行するため、ソ軍兵には彼らが欲しがる時計や万年筆等の貴重品を、一同から供出してもらって提供した。
 昭和二十年十月頃、出発大隊の携行糧秣に十日分の携行食料が支給され、炊飯器具の携帯を命じていたので、おかしいと思い質問したが明確な回答も無く、不安を強くした。十一月頃になって人員が減るに比例して糧秣支給も良くなり、炊事設備も整備されて一括炊事の上、各隊に配給できるようになり、ようやく食料事情が軌道に乗った。
 その後、食料事情は日を追って改善され、人員が減少したことと相まって飢えの心配は無くなり、むしろ現状に於いて如何に創意工夫して、食卓を賑わずかに留意するようになった。。パンやぜんざいやどぶろく等を作り出したのもその頃であり、後期逆送者を受け入れてからは病人食の粥租米も支給され、糧秣も豊富になり並々創意工夫に磨きがかかり、病弱者に喜んでもらえるよう努力したという。 また、古舘司令の証言によると、三合里収容所当時、ソ軍は平壌工兵隊作業所跡で北朝鮮各地から徴発した赤褐色牛を現地の人に畜殺させ、枝肉と皮を本国に送り、牛の頭をトラック数台で収容所に運んで来たので、一時各作業大隊の炊事場の釜の中には、牛の頭が石川五左衛門よろしく釜ゆでにされていた。それから規格外小牛を目頭宛二回、自分達で処理して食べるよう、生きたまま運び込んだことがあったという。これらの生年は舎宮本部脇の小高い丘の広場で処理され、食卓を賑わした。
 前期に於ける一人あたりの食料配給量の詳細は不明だが、後期に於いては秋乙収容所の糧秣係小田島英雄氏の証言によると次のようなものである。
 昭和二十一年四月以降食料事情は一段と好転し、「スターリン給与」とソ軍が自慢していた一人あたりの食料配給基準は次のようなものである。
 一、主食六百グラム 但し、入荷量又は担当官の裁量により米四〜六割、他は雑穀となる。
 二、副食野菜六百グラム 但し、現物の配給はなし、雑穀二百グラムで代用する。
   魚   五十グラム 塩鯖、塩練。
   肉   二十グラム
   砂糖  二十グラム
   塩   十五グラム
   油   二十グラム 
   煙草   十グラム 但し、将校のみ。
 配給日数は大略一週間並まとめて配給されるが、必ずしも額面通り配給されるとは限らず、その時の在庫状況と担当官の機嫌一つで運不運があり、糧秣受領係にとっては真剣勝負にも似た駆け引きが要求された。
 秋乙収容所時代になると、コーリャン等はまずくて食べないので余り出し、要らないと言っても馬にでも食わせろといって支給してくるので、最後には土中に埋める始末だった。
 () 逃亡
 一方抑留された者の心理状態がどんなものかは、誰もが初めて体験することだったので、人によっては様々な人間の弱点を露出した。
 明日はどうなるか判らない心理的不安や、妻子を居留地に残した人々の精神的苦痛、群集心理から来る流言飛語等により、うつ病になる者、自暴自棄になって反抗する者、精神錯乱に陥る者等が出たことである。中でも手を焼いたものに逃亡があった。
 炊事に必要な燃料や暖房用の燃料は近くの山林に薪取りに行って確保したが、これが引率者にとってはなかなか厄介な気苦労の多い日課で、ソ軍兵の監視付きで馬車隊を編成し、一日がかりの仕事であった。薪取りは収容所の外に出る唯一の機会であり、外部の情報を知り得る有力な手段で、それがために逃亡の誘惑に駆られる危険な罠でもあった。事実、この薪取りに山に入り、そのまま逃亡した者が幾人かあった。
 舎営司令以下作業大隊の編成組織はあるものの、そこには昔の軍隊はない。命令にたいする服従はもはや無く、処罰も営舎がある程度で、三万余の人間を平穏裡に統率してゆくことは決して容易ではなかった筈だ。にも拘らずともかく無事に送り出すことが出来たのは、舎営司令古舘少佐の人格に負うところが大であったと思われる。彼は常々「俺の任務は貴様達を無事日本に送り届けることにある」といって部下を叱りつけていたという。
 しかし、逃亡だけは「逃げるな」といって、止められる筋のものではなかった。逃亡は主として使役先、例えば薪取り、貨車積み作業、糧秣受領、出先作業所等の監視の手薄な時を狙う。収容所から直接逃亡するという大胆不敵な者まで現れたのである。「東京ダモイ」といって続々送り出される一方で、逃亡者がでるということは、やはりソ連を信用していなかった証拠かも知れない。
 どれくらいの人数が逃亡したかは明らかでないが、古舘司令の推定では百名に近い数字ではないかという。逃亡者がでると、とたんに監視が厳しくなり後に残る人は迷惑するが、憎む気持ちにはなれなかった。無事に逃げてくれよと祈る気持ちの方が強かった。というのは朝鮮語が話せない限り、大抵は途中で捕まり再び収容所に連れ戻されるからであった。
 古舘司令の言によれば連れ戻された兵の話として、三八度線の近くではカーキ色の軍服を着た日本兵の死体がゴロゴロとあったこと、及び現地の人に捕らえられ駐在所の留置所で半殺しの折檻にあい、後幸いにも息を吹き返したので、送り返されたと言う。それ故三八度線は警戒が厳重だから中国東北部に逃げた方が成功し易いという噂がでたくらいであった。舎営司令部では当初荒天の夜に十名、二十名と脱走したのでその補充に苦労し、秋乙病院への入院払い出し、退院受け入れの操作で余剰人員を確保し、常時二百名程のエキストラを抱えており、逃亡者が出た時の補充に当てていたようだが、逃亡者が捕まって送り返されて、そのからくりがばれ、以後はやめにしたという。
 昭和二十年十一月中旬、逃亡者が余りにも多いので捕まえた逃亡者を、みせしめのため処刑するというショッキングな事件が起こった。しかも衆人環視の中で銃殺刑にするから立ち会えと言う。一罰百戒のつもりだろうが、むごいことをするものだと顔をそむけたものであった。
 古舘司令の証言による銃殺刑の真相は次のようなものであった。
 逃亡の罪で銃殺刑に処せられた二名は、南浦(旧領南浦)から帰った衛生下士官と衛生兵十二名の中の衛生兵で、ある時衛兵所の外にあったドラム缶を受領に行くと称して、隊伍堂々衛門を通過し、そのまま全員逃亡したが、二名だけは運悪く平壌市街に行く途中ソ連兵に捕まった。面子を失ったソ軍は見せしめのため公開銃殺にすると称し、各大隊より代表二名ずつ約三十名を引率して刑場に立ち会わせた。
 ソ軍将校が拳銃を、他に射手二名がマンドリン銃を構え、至近距離で相対した。目隠しはしていたと思う。司令が通訳を通じソ軍司令官より渡された紙片を読み上げ終わらぬ内に銃声がし、振り返った時、後ろの壕に倒れ込むのを目撃したという。
 この二人の逃亡者にとっては運悪く真に気の毒なことだが、秋風寒き三合里の丘の露と消えたことは哀れである。その一人の名は山本一等兵と言われているが、二人とも悪びれることもなく従容として処刑されたのが、せめてもの慰めであった。遺体の埋葬個所は処刑された場所の前の穴で、収容所の東側小高い丘の見張り所のある近くだったという。
 ところが、実はこの後始末が大変だった。ソ軍側は所属大隊の責任者を処罰し、死刑にするというし、どういう訳か某少尉がその兵の戦闘帽を後ろポケットに持っていたという理由だけで、同罪として銃殺にすると言い出し、舎営司令以下必死の説得ですったもんだの末、日本軍では考えられないことだが、直属上司の小、中、大各隊長の階級剥奪の上、営倉一カ月の処分で一件落着した。営倉はソ軍宿舎の上の方にある丘の中腹に横穴を掘った程度のもので、食事はその都度皆が運んだという。
 第六節 三合里収容所の組織変更と秋乙収容所の開設
 三合里収容所の舎営司令部の任務は収容人員を無事送り出すことにあったので、収容所が空になれば早晩解体されるものと考えられていたが、実はそうならなかった。むしろ、栗里収容所の陣容が強化されて秋乙収容所となり、三合里収容所と二本建てになったのが当時は不思議に思われた。後から考えると、これは後述する逆送組の受け入れ準備だったのである。即ち、昭和二十一年一月初め三合里収容所の人員は七割以上の者が出発し、残された者は九千名足らずであった。厳寒の平壌では屋外作業も逃亡もままならず、静かに春を待つのみであった。この頃になると、すべてシベリアに送られたことも判り、残された者もいずれは送られるという不安はあったものの、暖かくなれば何とかなるという落ち着きも出て、諦観した生活であった。半年間の抑留生活で病気の場合は別として、衣・食.住の不安、特に食の心配が無かったことが、どれだけ生活を明るくしたことか。米の配給は量こそ少なかったけれども最後まであったのは、ここだけではなかったろうか。
 四月に入ると、三合里から栗里に舎営司令共々移動を命ぜられ、秋乙収容所の新組織が発表され、同時に残された三合果収容所の舎営司令の新陣容も決まった。また時を同じくして次節に述べるように新たに三合里病院が開設され、秋乙病院から患者や看護婦が大勢移ってきた。この時点で健康者はすべて秋乙収容所に移され、三合里収容所には若干の病弱者と病院患者が残された。
 秋乙舎営司令部組織および新三合里舎営司令部組織をそれぞれ別表5および6に、秋乙収容所の配置見取り図を別図1に示す。
 表5 秋乙舎営司令部組織職員表
 職務  元階級  氏名     出身府県
 司令  少佐   古舘勉    北海道
 副官  中尉   島浦友一   福井県
 書記  曹長   依藤邦雄   兵庫県
 〃   上等兵  宮崎誠治   兵庫県
 獣医  大尉   佐藤敏男   大阪府
 〃   中尉   小川州平   岡山県
 糧秣  少尉   中田恭一   〃
 〃   軍曹   須原清    福岡県
 〃   〃    小田島英雄  山形県
 〃   伍長   中橋英雄   山口県
 被服  少尉   山本草太郎  鳥取県
 〃   軍曹   八田剛    奈良県
 技術  少尉   小室鐵雄   東京都
 〃   〃    中川俊二   大阪府
 通訳       岩本啓一   島根県
 〃        池田吟二   福岡県  
 〃        小滴初男   広島県
 昭和一十一年四月の時点に於ける残留人員は約九千余名で、四月初めに一作業大隊が三合里から延吉経由で人ソした。それ以降残余の部隊も逐次三合里から秋乙に移動を開始し、六月初めにはすべての者が秋乙収容所に移った。
 表6 三合軍収容所舎営司令部組織職員表
 職務  元階級   氏名    出身府県
 司令  中佐   加藤義雄   福井県
 副官  中尉   田村耕作   富山県
 書記  曹長   若林善良   富山県
 〃        山口恵弘   佐賀県
 獣医  中佐   木村一栄   福井県
 〃   中尉   鈴木武四郎  愛媛県
 糧秣  少尉   阿部鐵太郎  兵庫県
 〃   軍曹   真壁良治   神奈川県
 被服  少尉   佐藤廉    兵庫県
 〃   軍曹   榊原延一   山口県
 〃   伍長   高橋健三郎  兵庫県
 技術  少尉   松尾正    佐賀県
 〃   〃    高倉桃太   大分県
 通訳  〃    仲啓一    京都府
 〃   兵長   中野荒太郎  山口県
 ここでいう秋乙収容所とは秋乙地区栗里にある元石灰石の坑夫の宿舎で、別名栗里収容所とも称したが、開設は昭和二十一年四月頃と思われる。それまでにしばしば作業隊が秋乙地区に移動したという記録があるが、秋乙収容所と呼称していない所をみると別の場所らしい。三合里収容所を完全に病院化させたため、健康を取り戻した者を、この秋乙収容所に移動させて、各作業に従事させるための収容所であった。
図秋乙収容所

 例えば、三月から四月にかけて三合里の第二十三作業大隊が秋乙に移り、各々秋乙第五、六大作業大隊に、六月には三合里第十五、十九、二十一の各作業隊が来て、秋乙第二、三大隊となり、それ以前に在った作業大隊と新たに秋乙第一から第九(第八大隊欠け)までの作業大隊の編成替えが行われた。これら三合里と秋乙の作業大隊の変遷を付属文書付表5に示した。六月中旬に入ると新組織に慣れる間もなく、秋乙収容所に居た健康な作業隊が続々と出発し、僅かな作業隊を残して殆ど空になった。平壌地区に残った者としては平壌飛行場、平壌兵器補給廠、平壌ソ軍司令部等の各作業隊および鎮南浦作業隊ぐらいで、これら残された人々も舎営司令部の人も早晩送られるものと覚悟を決めて、身の回りの整理を始めたものであった。事実、これら残された人や使役に出て居た大部分の者は、最後の一作業大隊にまとめられて、八月二十三日洪儀経由クラスキーノを経て、遠く中央アジアまで輸送されたのであった。
 第七節 三合里病院の開設と秋乙病院の閉鎖
 旧平壌第一陸軍病院が関東軍の疎開した病院等を統合して、ソ連管理下の秋乙病院となり、昭和二十年十月末、病弱者並びに病院勤務者が二挺団とも延吉に移送されたことは既に述べた通りである。
 従って、一時は千七百名近くいた患者は、延吉に千百十七名、その後快復されて三合里に帰った人三百名、現地退院した人(これは多分一般邦人と思われる)百六十名、死亡した八百六十名と次第に減少し、昭和二十年暮れ頃には百六十余名の重症患者を残すのみとなっていた。これら患者は長期療養患者で、主として結核患者が多かったようである。このような状況だから、ソ軍側がこの施設に目をつけ、一般病棟とX線室は早くから接収して使用し、伝染病棟のみ日本軍が使用するようになっていた。この冬発疹チフスが発生し、看護婦さえも十名程度罹り、うち二名が死亡している。岩手県出身の佐藤ミフという老看護婦長もその一人で、同僚達が埋葬は忍びないから遺骨にして持って帰りたいと、院内で初めて火葬にした。しかし、持って帰れたかどうかは定かでないが、帰国に際し興南でソ軍が遺骨を含めて死亡者名簿等をすべて没収したことは事実であるので、折角の好意が仇になったかも知れない。その後病院閉鎖の噂は多分早くからあったとおもわれるが、実際に三合里に移動を開始したのは翌二十一年二月半ばからであるので、三月末の閉鎖までは余裕をもって行われたものと思われる。三合里収容所の医務室が開設された経緯は既に述べたが、三合里病院と正式に呼ばれるようになったのは四月以降のことである。元々三合里収容所では相沢軍医中佐以下のかなりの職員が診療業務を行っていたので、日常の診療業務自体は何等変わらなかったと思われるが、秋乙病院からの移籍組を加えて陣容が強化されたものと考えられる。三合里病院の組織並びに職員名簿を付属文書の付表8に、配置見取り図を別図2に示す。これに拠ると、総員百余名の大所帯で、百六十名前後の患者を診ることになっているので、一見賛沢な病院組織と思われたが、後から考えるとシベリアからの逆送組の受け入れ態勢であったことが判り、納得し得たものであった。勿論、当初からこのような人員配置ではなかったと思われたが、逆送組の受け入れは全病院を挙げて取り組まざるを得なかったので、伝染科を重点にした人員配置になったと考えられる。四月以降はそれまで月あたり二桁台あった死亡者も、暖かくなると共に一桁台と少なくなり、逆送組が来る七月半ばまでの百日余りは、この収容所を通して一番平穏無事の毎日であった。

第三章後期抑留生活に行く        ホームに戻る