第三章 後期抑留生活

 前期抑留生活は主として、三合里収容所からの送り出しに重点が置かれたのに対し、後期抑留生活はシベリアからの病弱者の受け入れと、その治療に重点が置かれたのが大きな特徴であった。
 第一節 栄養失調症患者受け入れ
 昭和二十一年七月十三日、三合里収容所にとって今までの平穏な生活を打ち破る衝撃的な事件が起こった。シベリアから逆送組の第一陣千五百名が突然送られて来たのだ。衝撃的なのは何も予告なしに突然だったからではない。その姿の惨たらしさ、ソ軍の扱い方の酷さ、人間の尊厳も何もなくした者の哀れさに呆然とすると同時に、「なんて酷いことをする」と怒り心頭に発しない者は無かった。シベリアの強制労働が想像を超える苛酷なものであったこと、このような病人を夏の暑い最中に、平壌駅から二十キロ近い道程を行軍させて来たことなど、牛馬にも等しいソ連の扱い方に正直腹が立った。
 よし、それなら「絶対元気にして見せる」と意気込んではみたものの、到着早々に息を引き取る者、危篤状態に陥る者等が続出し、身上調書を取るのが精一杯というところであった。栄養失調症の一般的症状は、極度の栄養不足により体力が消耗し、消化吸収が出来ない状態となって、食べても下痢症状を呈して慢性腸炎を起こし、益々栄養不足になる等悪循環を繰り返した。事実、死亡者の解剖結果の所見によると、腸膜が紙のように薄くすぐに破けるような状態であったという。このような状態だったから、急に固い食事を与えることは禁物で、最初は流動食を与え徐々に体力の回復を待って、普通食に切り替えてゆくのだが、目の前に食物があれば何でも口に入れたがる状態なので、症状に依って病棟を区分し、なるべく目に触れさせないように管理する必要があった。
 収容所の組織からいうと、受け入れは舎営司令の管轄で、病状の悪い者は病院に入院させる建て前だが、殆どが病人なので病院側と共同で身体検査を行い、病状に応じて病棟別にさせた。特に患者は病気に対する抵抗力が弱く、下痢症状はアメーバー赤痢や腸チフスに罹り易く、伝染病には神経を使い、後には隔離病棟を用意して受け入れた。一息つく間もなく、五日後に第二陣の千五百人が到着した。これでは今後どれだけの人員が送られて来るか判らないので、至急診療体制を見直す必要があった。即ち、内科は第一科から第四科まであったが、それぞれ一棟宛とし重症、中症、軽症、その他と区分した。また伝染科は第一科から第三科まであったが、各々二棟宛とし結核、赤痢、その他と区分し、他に隔離病棟と隔離幕舎を用意させ、これに応じて職員を強化増員した。なお、病人のすべてを入院させる訳にもゆかないので、夜盲症のような軽症者は隊舎に居て治療するようにした。結局、三合里収容所には七月十三日、同十八日、同二十七日、八月十五日、同二十八日と五梯団(各千五百名)計七千五百名が来た。各梯団とも病状に程度の差はあるものの、九死に一生を得てたどり着いたという感じであった。
 () シベリアから逆送された者の全体像
 ソ連に抑留された者の内、日本国以外に送り帰された実態は余り知られていないので、その全体像を知っておく必要がある。これは身柄を拘束しておきながら、使い物にならないからと故国に送り届けるならまだしも、極東の荒野に放置するに等しいやり方に我慢出来ないからである。
 資料に拠れば、これら逆送組は送り返された時期により、次の二つに分けられる。
 一、終戦直後から翌年四月迄に逆送された者で、その実態はよく判らないが、推定するに終戦時、各地のソ軍はその戦果を誇示するため、病人や負傷者までも抑留して連れていったと思われるが、ソ連の捕虜規定では健康な労働力のある者となっており、それに該当しない者は送り返せとなったのではないかと思われる。
 二、昭和二十一年六月から八月にかけて、各地の収容所や病院の患者の内、体力六級以上の病弱者を選んで送り返して来た。これは長期間輸送に耐える者であるとの条件から、主として栄養失調症の者が多く、五級以下の軽症者は選ばれなかった。
 以上の逆送組の人数と受け入れ先等を別表7その1及び2に示す。
 表7 病弱者逆送状況表(そのー)
期間                  経由  受け入れ先  人員数
昭和209月下旬から同214月下旬   輝春   延吉     5500
昭和2011月上旬から同年12月上旬    〃   教化     150
                         牡丹江
昭和2010月中旬から同年12月中旬   緩券河  液河.拉古   8500
                                       謝家洵
昭和2011月中旬から214月上旬 ブラゴェ・チェンスク 黒河 1400
     小計                          15550

 表7 病弱者逆送状況表(その2
期間                  経由  受け入れ先 人員数
昭和二十一年六月上旬から同年七月中旬  清浄   古茂山  二万四千名
昭和二十一年七月下旬から同年八月上旬  ポセツト 興前   三千名
この内方茂山から富寧を経て三合軍病院に七千五百名が来た。
興南には古茂山から五千名が移動し、併せて八千名が興南病院(旧第百七十九兵姑病院)に収容された。
 小計 二万七千名
 合計 四万二千五百五十名
 なお、送り出した収容所等の詳細を付属文書の付表9に示す。
 () 逆送組の輸送状況について
 四万二千余名の逆送者がどのような状況で輸送され、その後どのようになったかに就いては、殆ど知られていない。それは正規な送還協定と違い、他国の空の下に放り出して闇から闇に葬り去ろうとした卑劣なやり方であるからである。恐らくソ連の送り状には氏名等はない筈だ。有るのは唯人数だけで馬や羊と何等変わらない。だから本国から送り返してしてしまえば何一つ痕跡は残らないようになっている。だから、この逆送者の内、生還した人は判るとしても、何処で何人死亡したか、その氏名は誰かは全く闇の中である。辛うじて帰還者がもたらした情報により、一部の死亡が確認出来た程度であろう。輸送途中に死亡して線路の傍らに埋葬された人、収容所に着いて調書をとる間もなく死亡した人達の遺族の心情を思う時、怒り心頭に発するものがある。恐らく三合里収容所に来た者は最も遠い所だから、一番元気な者が送られて来たと思われるが、それでもこのようなありさまなのだから、他は推して知るべしで、その悲惨さは三合里の比ではないと想像される。たまたま、明石市在住の井田義一氏がこの間の様子を手記にまとめておられるので、氏の許しを得て以下に紹介し一原文のまま一、以てその苦労を偲ぶよすがとしたい。

 「十三ビラカン」
 十一月七日(昭和二十年)雪の積もった寒い土地に降ろされた。後で判ったがハバロフスク西方約七十粁程の地点のビラカンという所だそうだ。直ちに装具検査をして、収容所に入れられた。営門と同じように入口に露兵が銃剣を提げて立っている。四、五箇所に櫓のような高い見張り台が造っであって、その一番高い所にも露兵が油断なく看視している。愈々袋の鼠同様だ、絶対に逃げられそうもない。「あゝこれから先何年此処で働かされるのだろう。その内にこちらの体の方が先に参ってしまうだろう。戦争に負けていながら、母国に帰り親と会えるなんて虫の良いことを今まで考えたものだ。こうして露国が俺達を作業に使うのも無理はない。どうかお父さん、お母さん、我亡き後第達の成長を楽しみに長生きして下さい」と、何度写真を出して呟いたことだろう。その内に兵の中から強そうな者ばかりが選ばれた。この組を強兵組として、一番重労働の伐採作業に回すとのことであった。俺はこの組に編入された。この組だけは此処より二キロ程山の中にある収容所に送られることになった。全部で九十名程だ。
 作業は二人一組となり、雪深い山の中に入り、二人用の大鋸で大木を切り倒し、一名が枝を払って焼く。木は定められた寸法に切る。
 朝晩は飯盆半分位の高梁や粟の雑炊、昼は薄いパン一切れ、これが俺達重労働組に与えられた一日の食糧だ。これで朝早くから夜遅くまで働かされた。日が経つにつれて、労働の過重と寒さとひもじさとで、体が段々衰え骨皮筋左衛門に成って行く。飯盒に一杯の水を持っても体が傾き、人が一寸突き当たると倒れ、作業よりの帰りなど小さい木等が道に転がっていても、跨いで通る元気がなく、っまずいて倒れる迄に衰弱していった。
 唯一の楽しみは夕食後より寝る迄の時間を、帰る事と食う事で戦友同士が話し合うことだけだった。
「内地に帰してくれるのは何時だろうか」
「俺の故郷ではこういうご馳走をして正月は食う」等の話ばかりだった。毎日同じ話を飽きることなく話し合って、苦しい毎日を慰め合った。色気などの話をする者は一人もいない。色気などという事は食べ物が平常に有る時のことで、現在のように毎日腹のすき通しでは、色気などという事は爪の垢程もない。毎日が食う事と帰る事の話ばかり、今になって考えると嘘のような話だが、こんな話を何百回、否何千回何万回となく話しては、衰弱してゆくわが身を元気づけたことやら………。《中略》
 三月の暮(昭和二十一年三月末)に収容所が変わり、今度は農業をやらされた。温床を造ったり、野菜と言ってもシベリアのような荒れた土地だから、菜っ葉かトマト等しかなかったが、これらの苗を植え肥料をやって育てた。
 此処に移ってから食糧は並々悪くなり、一番悪い時は小豆か大豆が十粒か二十粒種入った、スープといっても塩で一寸味をつけただけのを、丼一杯程すゝって働かされた。
 此処の我が軍の隊長は自分は将校食といって、兵隊と違い特別にこしらえた旨い物を腹一杯食べ、俺達兵隊は露国の口車におだてられて、労働の過重をさせた。故に俺達は露国の幹部よりは我が軍の隊長を憎んだ。
「あんな隊長は若し、内地に帰れるようになったら、日本海の真ん中で袋だたきにして、海の中に投げ込んでやる」といって憤慨する戦友も居た。
 食糧が少ない為、蛙を食ったり、ゴミ捨場をあさり、露兵の捨てた。パンの切れ端だとか、じゃが芋の腐れかかったのを拾って食べた。「あゝ何時になったら白い飯を食えるやら、おかずは漬物で良いから、こんな水のような食べ物でなく、箸で食べるような白い飯が食いたい。それ迄は死んでも死に切れない」と語り合った。今晩は皆と話し合いながら一緒に飯を食っていた戦友が、翌朝になるとうんとも、すんとも言わず冷たくなっていた、という様な悲惨なこともあった。
 長期間このような水のような物ばかり食わされていると、病気に対する抵抗力が全然なくなり、体の方は骨ごつごつになり、すやすやと眠るように死んで行った。俺達も何時死ぬか判らないので、その時の用意に、
「もしか、この中で一人位は生き残って帰れるだろう。帰ったら俺の家へ元気だと一筆知らせておいてくれ」とお互いに住所を知らせ合って、紙切れに書き止めた。《中略》
 五月暮(昭和二十一年五月末)に露国軍医の体格検査があり、一級より漸次悪い方に二級、三線と等級を決められた。俺はこの時六級だった。今にして思えば六級だった故に内地に帰れたわけだ。等級決定後「六級以下は作業困難とみなして内地に帰す」との話だ。だが、停戦以来騙され通しなので誰も本当にする者はいなかった。しかし、今度の場合は今までと違って、何かにつけて帰すような態度を取り出した。皆喜んでその日を待った。
 六月二十日、ビラカンの地を出発した。一級より五線までは此処に残って作業続行だ。「一足先に帰るからな」「体に気を付けて働けよ」「俺達もすぐ後から帰るからな」「帰ったら俺の家に元気だと知らせてくれ」「途中は十分気を付けて行けよ」等と出発する者、残る者、互いに感無量で言いあった。
 六級以上の者ばかりなので元気な者は余り居なかった。箸を持って食事するのが精一杯で、便所等は人に世話して貰わねば出来ぬ者が大勢いた。俺は元気な方だった。
 今度は一応患者という名目だから、シベリアに送られて来た時より幾分車中はゆっくりだった。ゆっくりといっても少し横になると、足の出し場もない程であった。
 五、六日して日本海沿岸に出た。久し振りに見る海、「あゝこの向こうは懐かしの母国だ。海でなかったら歩いて帰れるのになあ!」と嘆息した。

 「十四 ポセツト」
 やがて海辺近くに降ろされた。ポセツトだ。体から衣類まで皆消毒させられ、やがて船に乗り込んだ。皆の喜び様と言ったら激しかった。夜が更けてから船は動き出した。
 十時間位も走ったと思ったら、知らない土地に降ろされた。ソ連でないことは建物等を見てすぐ判ったが、日本でもないようだ。乗船前敦賀に着くとの噂だったので、日本海を横断するには十時間ではとても無理だ。「あゝまた編されたのか」と気がついた。後で判ったが、北朝鮮の清浄だった。

 「十五 清浄」
 此処で二晩程天幕を張って寝たが、運の悪いことに雨が降って夜中に眼が覚めて気がつくと、下に敷いていた天幕やら毛布はびしょびしょで、着ている軍衣までがすっかり濡れている。それからは寝ることも出来ず、夜の明けるまで皆抱き合って寝た。
 二日後、また貨車にて次へと向かう。

 「十六 古茂山」
 山の中の古茂山という収容所に着く。此処での食糧も非常に悪く、ポミばかりの日が続いた。これで胃腸を壊し多くの戦友が死んで行った。食糧が少ない、それにポミ、大豆、小豆のような物ばかりで大勢の者が栄養失調に罹った。
 その上、栄養不足で四、五名に一名の割位で、夜盲症と言う病気が出だした。これは昼間は何等変わらないが、夜になると盲目のように何も見えなくなる。この病気になったら夜は一歩も歩けない。便所に行く時は按摩のように、他人に手を取ってもらわねば行けない。方向が全然判らないため、便所に行くのに外柵の鉄条網に近寄り、逃亡者と間違えられて露軍より射殺された戦友もあった。こんな事で死んだ戦友は、死んでも死に切れないものがあるだろう。
 それに疥癬と言う病気もはやった。これは手、股等に特に出来る病気で、できもののような物が出来て痒くてたまらず、掻くと汁が出て他の箇所にもすぐ移る。陰部になど出来たら恥も外聞もなく、揮をはずして風に当てながら寝た。
 通訳の話に依ると、「お前等のような吹けば飛ぶような奴が無理して内地に帰っても、日本再建の役にはならないから、これから露軍の病院に入れ、旨い物を沢山食べさせて戦前のような立派な体にして帰してやる」との事らしかった。露助の言うことも一理あるし、成るようにしかならぬ身ゆえ皆諦めて、「今尚、シベリアの奥地で強制労働させられている同胞もあるし、俺達は一歩でも日本の地に近づいたのだから」と思い直した。
 このように物事を善意に考えねば体が参ってしまう。「あゝ俺達はもう駄目だ、永久に帰してもらえぬ」等と悲観でもするなら、自分で死を早めるようなものだ。
 二週間位滞在して、また貨車に詰め込まれた。暑い最中だから車内ではとてもたまらず、俺達若くて元気な者は貨車の屋根に登った。屋根の上は風もあるし幾分気持ちが良かったが、車の中は百二十名か百三十名位詰められ、全く蒸風呂のようだ。だが、俺達は一時も気が緩められない。滑り落ちたらそれ迄だ。トンネルがとても多いので顔は真っ黒だ。
 汽車の進行中も病が悪化して大分死んだ。暑い時だし死体を何時までも車中に置くわけにも行かず、といって進行中に捨てる訳にも行かず、一寸の停車時間を利用して、線路際にやっと死体が隠れる程度に穴を掘って埋葬した。少しでも雨が降れば土は剥されて死体は露出することだろう。「あゝこんな何処とも知れない線路際に埋められ、誰にも参ってもらえず、その内に犬や鳥の餌にされてしまうのか」と思うと可哀想でならなかった。戦友によって名も判らぬ草花が立てられた。これが今出来る俺達同胞の死者に対する最大のはなむけだ。こうして次々と戦友は減ってゆく。
 その一寸した停車時間に、この次は何時止まるか判らぬので、皆急いで飯を炊く。未だ煮えてない時でも「全員乗車」と露助はお構いなく言うので、俺達は半煮えの飯盆を抱えて慌てて乗車する。まったく哀れなものだ。
 その内に平壌に着く。(氏の記憶では昭和二十一年七月二十九日であるという)街には昔の内地を偲ばせる露天商売が並んでいる。菓子、果物等瓶にぎっしり入っている。「あゝ旨いだろうなあ!、腹一杯食べて見たいなあ!」と思った。
 駅に降りた時の俺らの恰好と言えば、それは哀れの一語に尽きる。中国人の着る作業服の破れて中から綿のはみ出したのを着て、背には何処で拾ったのか判らぬようなムシロを一枚ずつ背負い、(これは雨が降った時の傘の代用だ)頭の髪、髭は伸びたまま、何カ月も風呂に入らぬし、手足は垢で真っ黒、それに食器の代用に拾った缶詰の空き缶を二、三個ずつ腰にぶら下げ、体はミイラの様に痩せ細り、眼ばかりぎょろぎょろさせて、ごみ箱があれば皆で中を漁り散らし、何か食べ物が捨ててあれば、むしゃむしゃやりだす。まったく乞食同様だ。街を通る時、内地の女の人が走って来て、ハンカチや手を振ってくれていたが、俺らの姿を見て泣いていた。
「あの寒いシベリアでさぞ苦労されたでしょう。本当にご苦労様でした」と言ってくれた。世が世であれば、戦闘帽、軍靴、小銃、帯剣、背嚢等で身を固め、皇軍の意気高らかに行進するのだが、この姿を見たら泣けるのも当然だ。
「母にこの姿を見せたら、さぞ泣くことだろう」と思われた。だがやはり日本人の同胞だ、「ご苦労様」の一言も言ってくれて、有り難いことだと思った。

 「十七 三合里」
 自動車に乗せられて街から五、六里離れた三合里の収容所に入れられた。収容所の日本将校が出て来て、「あゝご苦労だったね、長い間シベリアで苦労したろうね。此処まで来ればもう大丈夫だ。此処でゆっくり保養することだ」
といって慰めてくれ、傍らを通る元気そうな兵隊を指差して、
「あの兵隊もやっぱり一月程前シベリアから帰って来たばかりだが、見ろあんなに肥えて元気になっている。お前達もすぐあの様に元気になるからな」
と言った。長い旅で喉も乾いたろうと湯茶の接待もしてくれた。
「あゝシベリアとは全く違う。日本の将校がこんなに親切にしてくれる、もう大丈夫だろう」と精神的に大分ゆとりが出てきた。
 此処に来てから初めて箸で食うような固い飯にありついた。だが、白米ではない。やはり高梁か粟、良い時でも玄米であった。炊事の方で露軍より配給になる少量の砂糖を、一週間か十日程貯めて置いて、饅頭や牡丹餅等を食わせてくれた。その旨かったことは今でも忘れられない。
 此処では俺は古茂山以来疥癬に罹っていたので、隔離病院に入れられ一カ月程養生して退院した。退院後は俺の分隊は殆ど三十歳以上位の人が多かったので、年寄りに働かせては相済まんと思い、使役などが有れば率先して出るし、何かにつけて分隊のために働いた。「井田は若い者に似合わず感心だ。我らのために良く働いてくれる」と可愛がってくれ、誰か体の調子が悪くて食事をせぬ者があると、「井田にやれ。あれが一番働くし、若いから腹も減るだろう」といって時々くれた。
 その内に体格検査があり、強い者だけが平壌の街はずれにある秋乙収容所に行くことになった。俺も強兵組に入れられた。三合里に
残る者は愈々患者ばかりで、役にたたない者ばかりだ。
(氏が秋乙収容所に移ったのは昭和二十一年九月十五日であるという

  第二節 秋乙患者収容所の開設
 昭和二十一年八月の初め頃と思われるが、秋乙収容所内に秋乙患者収容所と言う診療組織が出来て、岩橋軍医大佐以下四十数名の医療技術者が三合里病院から移って来た。その診療組織及び職員表は付属文書の付表10に示す通りであるが、その内容を見る限り医療施設は別として、診療業務の遂行には支障ない程度の組織であるにも拘らず、何故診療所と呼ばないで収容所と呼んだか不可解であるが、それは患者収容所の置かれた任務にあると思われる。
 死亡記録に拠れば「八月三日患者収容所一名」とあるので、この収容所の開設は八月始めであることは確かであるが、この時点に於ける三合里の状況は既に三梯団四千五百名い人員が逆送されて来ており、更に今後とも増加する可能性は十分考えられた事と、こ時点では伝染病は発生してはいなかったが、もし発生した場合の対策も構ずる必要があたのではないか。
 不幸にもその不安は的中し、九月に入るとコレラが発生して三合里収容所は大混乱に陥り、緊急防疫態勢を敷いて、真性患者も疑似患者も総て隔離した。そして快復途上の者や軽労働に耐える者は秋乙収容所に移送したものと思われる。しかも、栄養失調症患者は一見健康そうに快復しても、真の快復には時間がかかり、病後の養生が極めて重要てあった。従って、三合里病院を退院しても、暫くの間患者収容所に入れて養生させ、しかる後一般隊員の中に組み入れたのではないかと思われる。
 これを裏付けするかのように、秋乙収容所の死亡記録を見ると、八月から十二月まで死亡者八十七名の内、患者収容所で死亡したのは僅か十三名で、他は一般隊員となった者である。しかもその四割が十月に死亡していることは、如何に快復途上に於ける危険性大であるかを物語っているものと考えられる。
 作業大隊に編入されると、多少の使役労働があり、食事も普通食となるので、ややもすると暴食しがちになる。病名は単に栄養失調症となっているが、急性または慢性の大腸炎、腹膜炎等の併発が多かったのもこの故である。
 秋乙患者収容所建物配置見取り図を図3に示す。
 なお、秋乙収容所配置見取り図(1)を見ると、車廠の一隅に死亡者石碑なる物が描かれている。これに就いては古舘司令の次のような証言があるので披露したい。 終戦の晩、平壌神社が焼き打ちされ大理石の鳥居が倒されたが、その柱部分を石井自動車隊に命じて三合里に運び、石臼に加工して使用した。その後約一メートル角の台座が残っていたので、これを秋乙収容所に運び、加工して石碑を作った。
 三井大尉の筆になる麗書により七十五名の死亡者の名を刻ませ、いざ建立となった所で、ソ軍側からストップがかかり、破壊せよと言われたが、自動車廠の東北隅に深さ一メートルあまりの穴を掘り伏せて埋めた。(一説には建立しであったのを見つかったともいう
 何時の日か、日の目を見る時が来ることを祈って止まない。(なお、刻した人数が百三名との説があるようだが、一区画五名五列で二十五名宛四区画あり、最後の一区画は空白だったようだから、七十五名で、百名を超えることはないという)

 第三節 患者死亡者多発とコレラ事件
 気息奄々として平壌に辿り着き、故国に一歩近づいたと喜んだものの、幸福の女神は未だ彼らに微笑むことはなかった。間もなくこの三合里収容所始まって以来の最も悲惨な悲しい出来事が起ころうとは、誰も予想し得なかったのである。
 () 患者死亡の全貌
 昭和二十一年七月中旬から同十二月中旬までの間、三合里病院並びに三合里収容所で死亡した人数は、中川俊二氏の資料により千二百四十三名となっており、その内四百七十九名の氏名が判明している。この中には秋乙患者収容所並びに秋乙収容所で死亡した者、および三合里病院を撤収して秋乙収容所に移動し、平壌を去るまでに死亡した人数は含まれていない。これらを併せると千三百五十三名となる。
 僅か五カ月の間にどうしてこのように死亡したのであろうか。病名を見るとすべてが栄養失調症患者ではないと思われるが、圧倒的に栄養失調症が多いのは当然として、次に多いのが赤痢、コレラ、結核と続いている。その詳細は付属文書の付表11死亡者統計解析に示してあるが、死亡の原因は栄養失調により病気に対する抵抗力が衰え、伝染病や余病を併発して死亡する例が多かったようである。
 また、これを時系列的にみれば、付表11に示すように圧倒的に九月が多く、その六割余がこの月に集中している。次いで八月と十月が多く、他は極端に少なくなっている。九月が多いのは次に述べるコレラによる死亡もその一因ではあるが、仮にそれを除いても多いことには変わりはない。では何故九月に集中したのであろうか。
 先に述べたように、今度の逆送組は体力が六級以上の患者で、十級程度の者は本来自力による移動は困難だった筈で、相当無理をして来たことは明らかで、最も早い者は移動途中で、次いで三合里到着直後に力尽きた様子を伺い知ることが出来る。幸い死なないまでもこれら重症患者は、病院関係者の必死の看護の甲斐もなく一カ月後位に亡くなったのではないだろうか。一方六級程度の者は伝染病等に罹らない限り快復も早く、一カ月並で元気になれるのだが、元来栄養失調症は消化器系統が劣化しており、この快復には長期間の養生が必要で、この間の無養生が命取りになる恐れがある。暴食による急性大腸炎や慢性大腸炎、腹膜炎等の病名が見られるのもこれを物語っている。
 ともあれ、帰国を目前にして心ならずも病魔に斃れた無念の想いを誰に伝えようとしたであろうか。例外なく、枯れ木の折れるが如く静かな臨終であったということが、なお哀れであった。かくして、日に二十名から多い時で五十名にも達したという死亡者の惨状に、三合里の丘は鬼気迫るものがあったことと想われる。

 () コレラ発生事件
 三合里収容所でコレラが何時頃発生したかは判っていないが、真性コレラと断定したのは、吉祥寺在住の山本政輔氏の記録により、九月十五日であったことが判明している。しかし、これより前、死亡記録によると九月八日、十一日、十四日と特に死亡者が多い日が続いているので、南方でコレラ患者を診たことのある軍医や、中国東北部(旧満州)でコレラ患者に接したことのある看護婦達が、症状から診てこれはおかしいと気付いたというから、多分この頃から発生していたのかも知れない。コレラ発見の経緯については、川口市在住の阿武保郎氏(軍医)の証言により、小原喜重郎氏(軍医)が水口小一郎氏(病理試験)に命じて、コレラ・ビブリオを染色して顕微鏡により確認した上で、真性コレラと決定したとのことであった。
 ソ連側もこの事に驚き、至急百名程の防疫班を編成して防疫体制を敷いたが、何分医薬品も底を突き食塩注射の手当位しか無かったという。一人の真性患者が出るとその左右に寝ていた二人宛計四人を、疑似患者として隔離したというから相当数の隔離者が出たものと思われる。阿武氏の言によれば、コレラに罹った患者は六百名を超えたと思われるが、職員一同必死の看護により死亡者はそれ種多くはなかったという。実際コレラで何名死亡したかは判らないが、付表11の記録の解析から見ると二百名はあったと推定され、九月十九、二十、二十三、二十四日と特に多い日が続いている。しかも奇妙なことに栄養失調患者よりも、快復して元気になった者の方がコレラに罹り易かったという。
 コレラの感染経路はよく判らないが、使役に出た者が持ち込んだ食物からではないかと推測されている。ソ連側も使役先での一切の食物、飲物を厳禁した。
 九月は一般の死亡者が多い上、コレラによる死亡者が急増したことで、病院は一時。パニツク状態となり、てんやわんやではなかったかと思われたが、涼しくなった十月半ば頃にはさしもの猖獗を極めたコレラも終息し、一同やれやれと胸をなでおろしたのである。

 () 死体解剖について
 古舘司令の言によれば、ソ軍司令部にアーニャとノーニャと言う二十歳前後の軍医少尉が居て、この者の研修の為栄養失調症で死亡した日本兵の死体解剖をやらせてくれと、しばしば要求してきていた。苛酷な待遇で死に至らしめた上、更に屍を冒漬するのは許し難いと極力拒否してきたが、あまり執拗なので一回だけとして、日本軍医執刀の許で二名だけの解剖を許可した。
 司令もこれに立ち会ったが、痩せ細ったのは体だけでなく、内臓そのものも痩せ細り、、心臓などは小さな握り拳大であったという。この時、通訳した仲啓一氏の言によれば、日本軍医の執刀者は相沢中佐であったという。

 () 埋葬
 埋葬地等に就いては第二編で述べることにするが、前期三合里収容所で何人死亡し、誰が何処に、どのように埋葬したのかは明らかでない。三合里収容所での死亡者名簿を持ち帰ることが出来なかったことにもよるが、昭和二十年八月末から翌年七月中旬まで、即ち逆送組が来るまでに三合里で死亡した人数は大略六十名前後ではないかと思われる。人数が少ないのは初期の重病人は皆秋乙病院に移送したからである。
 これら死亡者の埋葬は庶務班の手で埋葬されたと思うし、埋葬場所も当初から一個所と考えられるので、後期の場合と同じ場所と思われるが、現認者が見当たらないので確証がない。ただ、当時は健康者が居ったし、被服も予備があったので、被服を着けて丁寧に埋葬出来たと考えられるが、墓碑番号等は付けなかったのではと推定される。
 後期については埋葬責任者が豊川市在住の駒崎繁利氏であることが判明しており、氏の手記「三合里の丘に誓う」に詳しく記述されているので、埋葬方法等に就いての記述は重複を避けるが、その中に墓碑名の記入をソ連から許されないため、墓碑番号にしたとあるので、おそらく逆送組の死亡者第古庁から番号を付け始めたのではないかと思われる。それは昭和二十一年七月十三日逆送組第一陣が到着時死亡した人からだと思われ、今後どれだけの人数が死亡するかも判らない状況を察し、一列二十五名ずつの埋葬計画を立案した賢明な処置であったと思われる。持ち帰った死亡者名簿の墓碑番号(極めて一部であるが)によれば、八月二日には既に二列の二番になっているところをみれば、七月末には一列に二十五名が埋まっていたものと推定される。最後に見える番号は十二月十七日で、五十列十一番とあり、翌十八日は三合里を出立しているので、五十列が最終と思われる。
 しかし、埋葬地はそれ程広大な土地ではなく、多分最初は丘の頂付近から埋め始めたと思われるが、人数が多くなるに従って丘を下り、谷を越え次の丘を越えていたというから驚きである。一列二十五名の墓穴にしても、途中石があったり、木の株があって掘りにくかったり、一直線にゆかないことがあったという。 一方、穴を掘って用意する準備班の方が埋葬班より大変だったと思われるのは、使役する者がすべて病弱者か、快復したばかりの者であったので、一日の作業量に限度があり、毎日の穴掘りには苦労したことであろうと思われる。これも皆明日はわが身かも知れない逆境にあって、死者を悼む気持ちから頑張ったのではないだろうか。

 第四節 病院生活点描
 病院の患者収容能力を超えて多数の患者が収容され、病院挙げててんてこ舞いした時期は前後二回あった。しかも偶然にも年こそ違えいずれも九月であった。第一回は昭和二十年九月、平壌第一陸軍病院にすべての患者が集結させられた時期で、約二カ月続いた。第二回目は昭和二十一年九月、シベリアから逆送された栄養失調患者が、三合里病院で多数死亡し、剰えコレラが発生し途方に暮れた時期であった。
 しかし、第一回は正規の病院施設であり、医療器具や医薬品も揃っており、看護者も多数いたのに比べ,、第二回は病院とは名ばかりで医療施設は無きに等しく、医薬品も底をつき、看護者も極端に少なくなっていたので、看護する身にとっては早く涼しくなってくれるよう、祈るような毎日であったという。
 これら二回の混乱期を除いた病院の生活は精神的不安はあったものの、むしろ平穏の日々といった方に近く、収容所と比べ恵まれた環境ではなかったかと思われる。
 平壌第二陸軍病院から平壌第一病院へ、更に三合里病院へと、終始これらの難局を切り抜けて看護してきた、看護婦長古賀妙氏を始め、新京第一陸軍病院看護婦岡本ミヤキ氏、同じく宮本晴子氏、新京第二陸軍病院看護婦島田しづか氏寺、諸氏の手記から当時の病院の生活はどんなだったかを点描して見よう。

 () 前期病院生活
 世田谷在住の古賀妙氏は「さらば三合里」に次のように記述している。
《昭和二十年晩秋、平壌第一陸軍病院勤務中の看護婦十名、主として元平壌第二陸軍病院看護婦が三合里病院に転属になる。(当時は未だ医務室と言っていた)
 トラックで迎えに来て下さった阿部斉軍医少佐に案内されて収容所に向かう。営門で武装したソ連兵に見られながら、収容所の門を入る。収容所は二重の鉄条網で囲まれ、所々の望楼には銃を構えたソ連兵が立哨している。無断で近づくと即座に実弾が飛んでくると聞かされる。広い平地に沢山の大きなバラックの兵舎が見えるだけで、心を和ませてくれるものは何もない。見知らぬ男性ばかりのこの大きな集団のただ中で、仲間はたった十名の非力な若い女性だけ。晩秋の黄昏どきの風の冷たさが心にしみる。《中略》o:p>

<科及び外科に分
 私共の内科病棟は開放性でない胸部疾患と栄養失調の方が主だったと記憶しているが、栄養失調の方の主な症状は頑固な下痢。動ける方は厠に行って頂くが、一人で行けない方にはブリキのおまるを使って頂くが数が足りない。何とか室内だけなら動ける方のため、衛生兵が腰を掛けて用をたせる木製の便器を考案して下さって、患者さんも看護婦も大変助かった。この木製便器は日本への最後の旅(平壌から興南までの停車している時間の方が長いように思われた有蓋貨車の中)で大変助かった。
 動けない方は〈おまる〉と称するブリキ製の便器。用が済むと部屋の隅の容器にまとめ、屋外に掘られた大きな穴に捨てに行く。晴れた日のほかに、雨の日もあれば雪の日もあり、風の日もある。病院と言っても元々健康者の宿泊施設、看護の設備は皆無。汚物は前近代的な方法で処理しなければならない。
 排泄されたものの臭いは何ともしようがないが、看護の手は少ない。そういう状況の中で不快な様子も示さず、黙々と介護に当たって下さったM看護婦の姿が、沢山の年月が過ぎた今でも尊く、頭が下がる思いである。《中略》
 発疹チフスには随分悩まされた。
 無いない尽くしの収容所の病院、十分な手当も出来ない。予防はともかく虱を退治しなければ。(集団生活のある所必ず虱が湧き、虱のある所必ず発疹チフスがある。夏は赤痢、冬は発疹チフスが軍隊の伝染病の双壁である。かのナポレオンがモスクワ遠征に先立って悩まされたのが、この虱であったことは有名な話である)
 暖かい日は各自、身につけている衣服の虱を取る。主人は痩せ細っているのに丸々と太った虱。縫い目に潜んでいるところを、両の栂指の爪の間で音をたてて命を落として行く。毛糸の編み目に深々と潜り込んでいるものもいる。
 身を起こす気力のない者は唯噛まれた所をもそもそと掻いておられる。そう言う姿が目に入ると虱を取る手伝いをするが、とても退治と迄は手伝えない。
 発病した患者さんの衣類は石油缶で煮沸消毒するが、動ける方が一日がかりで何処からか曳いて来て下さる生松の木の薪では、需要を満たすだけの量は頂けない。自分の虱は自分で取らねばならない。(これが我が身を守る病院の捉であった)》。
 また、山口県在住の岡本ミヤキ氏は次のような手記を寄せてきている。
 《私はその頃、秋乙病院で鈴木一夫軍医少佐、小原喜重郎同少尉の許で勤務しておりましたが、三合里から毎日のように発疹チフスの患者が送られて来ました。元気になった患者を見てホッとする間もなく、又重症患者が送られてきました。高熱におかされて脳症を起こし、リュックを背負っては「船が出る」と言って帰る夢ばかりを見ていたのでしょうか。元気になってからは笑い話も出来るようになりました。
 その間に同僚の看護婦も感染しました。もしもの事があってはと必死になって看護しました。丁度その頃、新京第二陸病の佐藤ミワ婦長は皆様の看護の甲斐もなく、異郷の地で亡くなられた悲しい出来事が今でも忘れられません。 古賀婦長以下看護婦十名位の先発隊が三合里に行き、どの位過ぎた頃か秋乙に居た残留組も三合里に集結して来ました。収容所内の桜が咲いていた頃でした。この頃の病院は重症患者もなくのんびりして居たようでした。高台にあった看護婦宿舎から内科、外科、伝染科と各自の勤務場所で働いて居りました。そんな成日は素人演芸会、野球試合も催され、一時の娯楽を楽しんだ時もありました》。

 () 後期病院生活
 昭和二十一年七月、シベリアから沢山の栄養失調患者が送られて来た時の衝撃的な様子を古賀氏は次のように書いている。
 《陽が西に傾く頃、病院勤務者が収容所衛門に呼び出される。 異様な風体の沢山の兵隊が入って来られる。弊衣破帽の乞食、魑魅魍魎と言う言葉がほんの一瞬頭の中をよぎる。ボロボロの軍衣、帽子、伸び放題の髪と髭、体は垢だらけ、巻いた莚を背に負い、腰に雑嚢、錆びた空き缶が吊るされている。破れた軍靴は縄で縛り付けてある。ノロノロと、ゾロゾロと。これまでのご苦労が偲ばれる。長旅の終わった安堵か、うずくまってしまう方、溝のせせらぎに顔を近付けて水を飲もうとする者、直ちに、
「生水を飲むな!
と禁止の甲高い声が幾度も頭上を飛ぶ。清い水だが、生で飲むと血便を出すと言うことで、最後まで一度も生水を飲んだことはない。
 指示に従って病人は病院に。動ける方はドラム缶で入浴。動けない方には清拭、散髪、髭剃りと若い看護婦諸姉の処置は鮮やかで手際よい。清潔な病衣に着替え、貧しいながらも温かい食事に箸をつけて頂K。思いも掛けず若い看護婦に会えて、「日本に帰ったような気がする」と涙を流して喜んでいた者も居た。》。
 実はこの日を境にして、病院生活は一変したのだ。
 栄養失調特有の下痢患者、夜盲症、そして次々に息を引き取る死亡者、それにも拘らず続々と送り込まれる逆送者、夏の暑い最中に病院側にとっては気が狂いそうな毎日であったことであろう。
 しかも悪いことに、九月に入るとコレラが発生した。
 この間の事情を岡本氏は次のように述べている。
《その内、古茂山方面から沢山の栄養失調患者が送られて来てからは、唯てんてこ舞いの毎日でした。病院とは名ばかりで薬も乏しく、僅かなリンゲル注射とブドウ糖注射では皆の患者に足りる筈はありません。衰弱しきった者は声もなく眠るように息絶えて、それはそれは可哀そうな最後でした。中でも重症患者はすぐ判るように頭上に白墨で丸印を付けて、夜間勤務の衛生兵の方に申し送りをして居りました。 翌朝、勤務につくと一番に担架で運んだものでした。林田(松村)さんと二人で、あの頃は若さと元気もありましたが、急な坂道をフウフウ言いながら天幕の中へ運びました。中にはずらりと寝かされた死体の数々、本当に哀れな姿に五十年過ぎようとしている今でも、あの光景は脳裏から消えません。今思えば名前を覚える暇もない一番大変な時でした。運良く元気を取り戻した人とは今になっても色々と想い出話をしています。
 その中で印象に残る人は、栄養失調から元気になられた若い兵士で体格もよく、気立ての優しい患者が居りました。その後その人は私達勤務者の手伝いをしてくれていましたが、急に容態が悪くなったのか、翌朝出勤して見ると前日の様相は全くなく、頬も見違える程にげっそりしてしまい、思わず、
「どうしたの」と大声をだしてしまいました。
「下痢をした」と言うではありませんか。手の甲を摘み上げて見るともう既にコレラ症状です。早速コレラ病棟に移され、その後あの笑顔を見ることもなく、異郷の地に眠ってしまったようでした。その人の名は私の記憶では今田五郎さんではなかったかと、あれからずっと脳裏の片隅に残っています》。
 また、浜松在住の島田しづか氏は次のように言っている。
 《病室と言っても旧兵舎で、土間を挟んだ両側の板の間がベッドであり、そこに軍隊毛布を六ツ折りにした敷物を、看護婦の足幅だけ離して敷き詰め、そこに寝かされて療養するのである。栄養失調で骨ばった身体にはどんなにか痛く病んだことであったと思う。衰弱が激しく身動きさえままならない患者に体位交換や清拭など、看護の基本さえ出来ないもどかしさの中で、下痢便の始末の際肛門の回りにうごめく白い小さな虫を発見した時の驚きを、今でも忘れることが出来ない。折しもコレラの発生で急激に重症化した患者の目頭を襲い始めた。この白いうじ虫にこの世の地獄かと怒りがこみ上げ、このうじ虫との戦いが始まったのだが、二本の腕の限界を知らされた結果となった。 食欲のない患者には塩酸リモナーゼ、下痢患者には炭の粉(木炭末)が処方され、私選はこれを服用させるのが唯一の治療と懸命に飲ませようとするが、この薬さえ喉を通さず、坂道を転がるように死の淵へと近づく方々の命の炎が、遂に燃えつき最後を迎える場に幾度か遭遇した。大部屋の真ん中で仕切りもなく、私選の手を握り締め、
「オカァーサン」とかすかに呼んで、眼を閉じ永遠の眠りに就かれました。
 その方々のお名前は今では全く思いだせないが、あの情景は生涯私の、心から消えることはないでしよう》。
 同じように、豊田市在住の宮本晴子氏は次のように書いて来ている。
 《シベリアからの兵士の実に惨めな姿だけは、よくもこんな目に遭わせてと思うと、敗戦国であることを突きつけられた思いが致しました。
 衛生材料や機材の入った箱(医嚢と申しましたか)の中に、横に水の入った容器があり、軍衣の襦袢を小さく切った布が唯一のちり紙代わりでした。便器の上にその布を置き排便を訴える患者さんにそれを渡す。一方で用便が済んだ方が便器を返す。排便はコレラ患者特有の粥汁の水様便で、それを医嚢の中に捨てて、ちょっと水で洗って次の方に渡す。このようなやり取りの連続が一カ月も続きました。
 夜、病棟でコレラ患者さんのようだとの通報で、翌朝病室に行くと脱水して顔貌は前日に比べ老人のように見え、看護生徒であった私にとって、言い現すことも出来ない衝撃のため、その場に立ち尽くしたことを覚えております。
 コレラ菌は非常に酸に弱いので、「塩酸リモナーゼ」を食事の際必ず飲むようになっていたと記憶しております。これを飲みながら唯便器のやりとりと、死後の処置をするだけで、薬もありませんから手の打ちようもありませんでした。本当に何も苦しまずひっそりと次から次へと亡くなってゆかれました。 その死後の処置を致しますと、いつの間にか私どもの看護衣の縫い目の間に虱とその卵がびっしりと付いておりました。亡くなられますと体温が冷たくなるからでしょうか、虱はすーとその体から離れるそうです。苦しんでいる者の血を最後まで吸い取って止まない憎むべきは「虱」でした。 鈴木一夫少佐殿か、阿武保郎少尉殿かはっきり致しませんが、一本の「アンナカ」を大切に持って来ており「一番必要な人に注射してくれないか」と渡して下さいました。全く治療の医薬品がございませんでしたので、私はこの強心利尿剤が宝物のように思いましたのを覚えております》。

 看護婦のこのような表の仕事の他に、次のような裏の仕事があったことは殆ど知られていない。以下は島田氏の手記である。
 《日勤勤務を終えて夜勤者に申し送りを済ますと、私達にはもう一つの仕事が待っています。それは洗濯場に山と積まれた汚れた病衣の洗濯であった。便器を当てるのが間に合わず病衣の中への下痢便、.済まないね」と弱々しく腰を上げる患者に、何も出来ない私達に唯一つ出来る看護は、その汚れを一刻も早く取り除きさっぱりした気持ちにしてあげること位だったので、「こちらこそ済まないねえ」と心で詫びていた。
 私選の看護はこの便器と病衣とうじ虫との格闘に明け暮れた、一時期であったことを忘れられない。
 洗濯の山が次第に崩れて小さくなってゆく、「終わりましたね、疲れましたでしょ」と同僚の宮本看護婦に声を掛け、重りを付けたような腰をゆっくり延ばして夜空を仰いだ。中天に浮かんだお月様が.ご苦労様」と微笑んでいた。洗濯場が夜中でも明るかったのは、お月様が見守っていてくれたお蔭だったのだ。夜更けに坂道を宿舎に戻る二人は、仕事を成し終えた満足に満たされていました。
 宿舎の隣にある阿部斉少佐と直木力中尉の部屋の灯りが洩れてくる。私達の帰りを心配して寝ないで待って居てくれたのだ。婦長さんの、ご苦労様」の言葉も若い二人には子守歌に聞こえて、バターンキューではなかったでしょうか》。
 一方病院に入れない夜盲症のような軽症者は、どのような経緯を辿ったかに就いては横浜市在住の安田光義氏の、「夜盲症の記」があるので、その一部を抜粋してお目に掛けたい。
 《私選を乗せて走る送還列車は無蓋貨車で、清津から平壌までは七月下旬か八月初め頃と思われたが、夏の夜空がとても綺麗で満天の星空は今も忘れられない程の素晴らしい夜景でした。
 この素晴らしい星の輝く夜空を見上げていて、ふと私の眼の視界が狭くなっていることに気が付いた。眼の視界は外周が狭まり、四分の三位の中心部のみが正常に見えるのみでした。その目の異常に気付き目をこすって見たが何の変わりもないので、特に不自由を感じる程のこともなく朝を迎えた。朝日はいつものように明るく八月の太陽は燦々と輝いており、昨夜の視力の異常は忘れていた。
 三合里での第一日目は平穏に終わり、やがて夕闇が迫って来た。宿舎の内部は五燭光か、十燭光かの裸電灯が何箇所か吊るされていた。その電灯の明かりは淡くぼんやり見えるけれども、その他の室内は何も見えない状態に驚きながらも、その夜はどうやら少しの明かりを頼りに行動することが出来た。
 第三夜の晩には十燭光の明かりは全く役に立たず、夜は完全に盲同然の状態となってしまった。これが昔田舎で聞いたことのある所謂鳥目と言うものかと気付かされた。
 折しもその頃、三合里では発疹チフスや栄養失調症による死亡者に加えて、真性コレラが流行して急に死亡者の数が増え、一日四、五十名位の戦友が死亡した。その埋葬のため百米ものの行列が衛門を出て行く光景に、唯でさえ俄か盲で心細くなって、気弱くなっている私の心は慄然として、名状し難い寂しいものでした。
 その頃私は夜盲症に苦しみ、且つ異常な粘液便を排泄しており、生きた心地のしない毎日でした。
 秋になると雨の日が多くなり、兵舎の外は路面が滑り易く、夜間トイレに行くのが大変になる。しかもこの様な雨の日に限ってトイレに行くのが頻繁になるのだ。兵舎の外壁を手探りで聖伝いに横向きに歩いて、トイレに行くのでかなり時間が掛かる。一晩に三回も起きると睡眠不足になる。

 そんな私の俄か盲で不自由している姿を哀れんだか、隣に寝ていた宇井清上等兵殿が.お前は夜盲症で大変困っているようだし、殊に夜のトイレ行きは地面が滑って危ないので、トイレの時は手を貸してやるから遠慮なく起こせよ」と申し出てくれた。
 その後、この方には夜盲症を患っている約一カ月の間、夕食時の配膳は勿論食器も箸も手に持たせて頂く程の手厚い介護をして頂いた。又食後の食器洗いから跡片付けの一切を快く引き受けて頂き、この方の御恩は一生息れてはならないと、、心の中で感謝していた。
 夜になるのが怖く、嫌な夜を一ヶ月位過ごした頃でしょうか、成日衛生下士官殿に呼ばれて行くと「お前の視力はどんな具合なんだ」と聞かれたので、それまでの視力の変化の状態や現状は夜は全くの盲同然であることを申し上げた所、それは確かに夜盲症だ。この肝油を今日は小匙一杯呑ませるから明日又来るように」と言って肝油小匙一杯を舌の上にのせてくれた。。その夜半に小用を催して目覚めた眼に、天井の淡い十燭光の明かりが見えるではないか。視界は狭く視野のほんの中心の一部のみでも、一人でトイレを済ますことが出来たことは、とても嬉しく、塞いでいた私の心に小さいながらも明かりが射し、譬えようもない喜びを覚えた。
 翌日早速に衛生兵殿に視力快復の状況を報告に行き、お礼を申し上げると共に、また肝油小匙一杯を頂いた。肝油を服用して二目の夜は殆ど視力は快復し、視界も従来通りに戻り、どんな雨の夜でも一人でトイレに行けるようになった。肝油の薬効こそは目に見える程の効き目で今更ながら薬の有難さをしみじみと思い知らされた。
 夜盲症の原因は栄養欠乏によるビタミンの欠乏が第一の原因とか、そのピタミンの特効薬が肝油であり、その肝油は主として魚類から採取するとのことを知った。
 夜盲症を患ったことで、目の大事なことを痛感すると共に、魚類から頂いた肝油で救われたこと、しかも回りの戦友の手助けなしには快復出来なかったこと等知った時、生きとし生ける者はすべて何らかの関わり合いを持って、互いに支えられていることを思い知らされたのである》。

第4章ダモイ(帰国)      ホームに戻る