播磨風土記の原文は漢文(全部漢字)です。播州弁訳の作成に、小学館1997年発行新編日本古典文学全集5 植垣節也校注・訳の「風土記」を主として、その他、岩波書店発行日本古典文学大系「風土記」、岩波文庫武田祐吉編「風土記」、姫路文庫・谷川健一監修・播磨地名研究会編「古代播磨の地名は語る」等を参考にしました。

餝磨の郡しかまのこおり

(姫路市の大半、飾磨郡夢前町・家島町)

 なんで飾磨しかまゆうかゆうたら、大三間津日子おおみまつひこの命みことが、ここへ狩りしに来て泊まるために作った家で座すわっとったら、近くに大きな鹿しかが来て鳴いたんや。そしたら、命みことが「鹿が鳴きょる」とゆうたったんで、そいで飾磨しかまと名付けたんやて。(飾磨と言うと、今の姫路の人は飾磨港の有る海辺の辺りか、或いは北部の飾磨郡夢前町。元は今の姫路市を含んで全部飾磨郡。で、大三間津彦命が鹿の鳴き声を聞いたのは、広峰山南麓、北平野公民館の辺りか?。大三間津彦命は孝昭天皇とする説がある。)

 漢部あやべの里、土地はまあまあええ!中の上ゆうとこや。なんで漢部あやべゆうかゆうたら、朝鮮半島ちょうせんはんとうから来て讃岐さぬき(愛媛県)に居てた人等(漢部あやべがこっちへ移って来て住んでたからや。そいで、漢部あやべとゆうんや。(JR姫新線・余部駅の辺りが漢部の里。あやべ・・余部。今は姫路市北青山辺り。)

 菅生すがふの里、土地はまあまあええ!中の上ゆうとこや。なんで菅生すがふゆうかゆうたら菅すげがよーさん生えとったからや。そいで菅生すがふや。(菅生は飾磨郡・夢前町の西部。北部に菅生ダム、そして菅生川、菅生小学校等多くの地名関連の名が残っている。菅生澗すごおだにが地名の場所とされている。菅はカヤツリグサ科の多年草で川原や沼地に生える。数十種類の菅が存在するが、1メートル以上になる笠菅かさすげは昔から笠の材料として珍重されていた。ちなみに大和の笠縫氏は古代に良質の菅を求めて大阪・深江に移住し、伊勢神宮に奉納する菅笠を作り続けた。菅笠、菅箕はゴア・テックスより通気性に富み、雨期には必需品であった。蛇足:今の傘の形は室町時代に中国から。当時は唐人傘と言っていた。江戸時代に番傘、今では和傘。それもコウモリに代わり、菅笠は四国遍路か山田の案山子しか愛用しない。)

 麻跡まさきの里。土地はまあまあええ!中の上ゆうとこや。なんで麻跡まさきゆうかゆうたら、昔、品太ほむだの天皇(応神天皇)が来たったときに、「この2つの山を見たら、人の目尻を裂いて下にしたみたいや」ゆうたったんで、そいで目割まさきとゆうんや。(二つの低い丘があたかも人の目のように見える所。それは姫路市御立)

英賀あがの里。土地はまあまあええ!中の上ゆうとこや。なんで英賀あがゆうかゆうたら伊和いわの大神おおかみの子の阿賀比古あがひこ、阿賀比売あがひめとゆう2人の神さんが居てたからや。そいで神さんの名をとって里の名にしたんや。(英賀は飾磨区英賀、夢前川河口の東側)

 伊和いわの里。船丘ふなおか・波丘なみおか・琴丘ことおか・匣丘くしげおか・箕丘みおか・日女道丘ひめじおか・藤丘ふじおか・稲丘いなおか・冑丘かぶとおか・鹿丘しかおか・犬丘いぬおか・甕丘みかおか・筥丘はこおか。土地はまあまあええ!。なんで伊和部いわべゆうかゆうたら、宍禾しさわの郡こおりの伊和いわの人等がここに来て住んどったから伊和部いわべゆうんや。(今の姫路市のほぼ中心部。当時の人は平地よりも丘や山麓の小高い土地に住んでいた。当時は海岸線は今よりもずっと内陸部で、加えて市川や夢前川の洪水の恐れが有ったためである。伊和の里は八丈岩山の南麓・西麓に位置する。以下の14の丘もその範囲に有る。

船丘:景福寺山(51m)…姫路城の南西・位置の橋のすぐ西。景福寺が建てられる前は嵐山、その前が船丘。

波丘:名古山(43m)…霊園が有ります。葬祭場も有ります。近年、行く機会が増えた。

琴丘:薬師山(45m)…下を名古山トンネルが通っています。中腹に私のもう一つの母校琴陵中学校が移転しています。

匣丘:船越山(びんぐし山)(186m)…下手野。

箕丘:水尾山(20m)…姫路文学館の有る処、男山に隣接。姫路文学館には、姫路ゆかりの和辻哲郎、辻善之助、椎名麟三、阿部知二、司馬遼太郎等の事跡と遺品が展示されている。箕丘のもう一つの比定地は秩父山。現在は平地。城西小学校の運動場・及びその南の地域。

日女道丘:姫山(46m)…姫路城の天守閣が建っているところ。姫路の東にある御着の小寺家の家老であった黒田官兵衛が戦国時代に姫山に山城を築き姫路を治めていた。

藤岡:風土記の本文にはJISに無い異体字が使われている。藤岡は今の二階町辺りと考えられている。二階町は姫路駅から姫路城のへのほぼ真ん中、平地の商店街、こんな所が昔は丘だったなんて!。

稲丘:稲岡山(64m)…西部の青山、近くにゴルフ場。

冑丘:冑山(36m)…西延末。手柄山の北、JR山陽本線と新幹線が分岐してすぐの処。

鹿丘:??。犬丘:??。八丈岩山の頂上から見て、鹿に見えたら鹿丘、犬に見えたら犬丘。

甕丘:神子丘(38m)…名古山の西南、姫路測候所のある所。

筥丘:男山(57m)…上述の文学館の東。貯水池がある。

こうしてみると、宍粟郡を本拠地にしていた伊和の人々が今の姫路の中心市街地から西の夢前河畔の丘陵地にかけて、移ってきて住んでいたとみられる。)

 手苅丘てかりおかゆうわけは、この辺に前から居ったった神さんがここへ来て、手で草を刈ってそれをテーブルクロスにしてたからや。そいで手苅てかりゆうんや。そやけど他の人がゆうてんのんには、朝鮮半島から来た人が鎌かまを知らんかったさかい、手で稲いねを刈ったんで、そいで手刈りの村、ゆうんや。どっちがほんまやろ?。(手苅丘は手柄山。姫路の小学校・低学年が遠足に行く所。ちなみに高学年は書写山。手柄山には水族館、野球場、植物園、体育館、市立科学館等がある。手で草を刈ったのは、元からこの近くに住んでた人。宍粟郡から来た伊和の人は出雲伝来の製鉄技術集団。まして朝鮮半島は当時の日本より先進国、そこから来た人は当然、鉄の鎌を持っている。)

 いまゆーた14の丘がどないしてでけたんか、おせーたげる。昔、大汝おおなむちの命みことの子やった火明ほあかりの命みことは、いしこい権太ごんたもんでお父ちゃんが困っとんや。そいで、お父ちゃんの大汝おおなむちの命みことはここで息子むすこを放って帰ってしもたろー思たんや。そいで乗って来た船を因達いだての神山かみやまにつけて、息子に「陸りくにあがって水を汲んでこい」ゆうて、息子が帰って来る前に船を出して逃げてもたんや。火明ほあかりの命みことが水汲んで帰ってきたら、船が行ってしまいよるんを見て、ごっつう怒って波風なみかぜを船めがけて起こしたんや。そんで、お父ちゃんが乗っとった船は、進めんようになってしもて、とうとう岸に打ち上げられて壊こわれてしもたんや。(大汝の命は大国の命、もしくはその係累。いずれにしろ、出雲系・伊和族の伝承と考えます。因達の神山は、新在家の北の八丈岳(173m)。大汝の船は新在家に錨を下ろしました。当時の姫路は市川と夢前川に挟まれた河口の中州で、その間に今の船場川や白川に相当する川が流れていた。新在家へは白川を船で上っていったのでしょう。)

 そいで船が難破なんぱした所が船丘ふなおか、波なみが激はげしかった所が波丘なみおか、琴ことがまくれたとこが琴神丘ことかみおか、箱はこが落ったとこが箱丘はこおか、梳匣くしげがまくれたとこが匣丘くしげおか、箕が落ったとこが箕形丘みかたおか、甕みかがまくれたとこが甕丘みかおか、稲いねが落ったとこが稲牟礼丘いなむれおか、冑かぶとがまくれたとこが冑丘かぶとおか、沈石いかりが落ったとこが沈石丘いかりおか、綱あみがまくれたとこが藤丘ふじおか、鹿しかが落ったとこが鹿丘しかおか、犬がまくれたとこが犬丘、蚕子ひめこが落ったとこが日女道丘ひめじおかとゆうたんや。そん時に大汝おおなむちの神さんが嫁はんの弩都比売のつひめに「あのがきゃー、放ってきたろ思てたら、逆に台風でえらい目におおてしもうた」とぼやいとってねん。そいで、波風がひどかったとこを酷塩からしお 又は いかしおとゆうて、沖おきの船が通る所を苦しみの斉わたり、ゆうようになったんや。(火明ほあかりの命は、「古事記」の天孫降臨のところで出てくる邇邇芸ににぎの命の兄です。と、言うことは、火明の命は大和王国の代表者。大汝の命は、伊和族も含め出雲王国の代表者。両者は親子ではありません。大和王国は最初、伊和族を討伐するのに新羅から来た天の日矛を遣わしました。播磨風土記は、地名伝承と共に、この両者の戦いが大きなテーマです。伊和族は段々追いつめられ、最後は本拠地である宍粟の一の宮まで攻め込まれます。最近の発掘では、一の宮の住居跡で多量の炭化した穀物や焼け残りの日常品が出てきて、夜襲・焼き討ちの跡ではないかと?考えられています。ですから、この14の丘の物語は、伊和族から大和王国への国譲りと考えられています。波風はあったものの、姫路では大きな戦争は起こらなかった?。ところで、犬丘、鹿丘、沈石丘は今の何処か解りません。沈石丘は船丘・波丘の近く名古山の一部分では?。犬丘、これと同じ地名が中国に有ります。秦の始皇帝の祖先が住んでいた所です。風土記を書く程の人は、秦の事跡を知っていて、付け加えたのでは?。鹿丘、これは因達の神山の麓、今の新在家の丘陵地帯と考えます。伊和の里の中で最大の丘陵地帯がこの新在家、その東端の八代緑ヶ丘、行者堂の有る辺りが鹿丘と推定します。古老の話では伊和の里に現在は完全な平地ですが、戦後まもなくまで上記以外に低い丘が点在していたそうです。「播磨風土記新考」を現した井上通泰は、明治28年に姫路病院に勤務していましたが、この頃は専門の眼科に多忙。以上の14の丘は名古山を中心に半径4キロ以内の所謂伊和の里にありますが、これとは別にもう一つの場所が比定されています。かなり無理がありますがそれは、播磨全域に渡っています。以下、参考までに

 賀野かやの里.幣まひの丘。土地はまあまあええ!。なんで加野かやゆうかゆうたら、品太ほむだの天皇(応神天皇)がここに来たときに泊まるとこを作ったんやけど、蚊が多いんで蚊帳かや吊って寝たんや。そいで加野かやや。山も川も同じなまえにしたんや。幣みてぐらの丘ゆうわけは、応神天皇がここの神さんに幣まひをそなえたんや。そいで幣まひの丘ゆうんや。(飾磨郡の旧・鹿谷村かやむら、今の夢前町の北部。幣の丘は明神山・別名・御幣山。賀野山は雪彦山、賀野川は夢前川。)

 韓室からむろの里。土地は普通や。なんで韓室からむろゆうかゆうたら韓室からむろの首宝おびとたから等の先祖がごっつい家建てて、よーけものがあったさかいに韓室からむろも造ったんや。そいで韓室からむろゆうんや。(韓室は韓国風の部屋。当然、朝鮮半島からの渡来人。先進の技術で農作物も充分収穫出来たのでしょう。韓室の里は書写山の南、旧曽左村。曽左小学校がある。)

 巨智こちの里。草上くさかみの村・大立おおたちの丘。土地はかなりえー。こんとこは巨智こち等が最初の住んださかい、そいで、里の名なあにしたんや。(姫路市辻井の草上郷から御立、さらに飾磨郡夢前町古知の庄あたりまで。)

 なんで草上くさかみゆうかゆうたら、韓人山村からひとやまむら等の先祖で柞ならの巨智賀那こちかな、ここが欲しいゆうて貰もろおて田圃たんぼを作ったんやけどそん時に草むらがあって、草を引いたらその根がごっつうくそーて、そいで草上くさかみゆうんや。(前段の辻井、草上は共に交通の要所を意味する。草上の本来の地名は「往方来方ゆくさ・くさ」で往来を意味する。)

 大立おおたちの丘とゆうたわけは、品太ほむだの天皇(応神天皇)がこの丘に立って「ここはえーとこや」とほめたんや。そいで大立おおたちの丘や。(大立は本来「お発ち」すなわち「御立」。出発の意味です。古代山陽道の交通の要所ならではの地名です。)

 安相あさぐの里。長畝ながうねの里。土地はまあまあや。なんで安相あさぐの里ゆうかゆうたら、品太ほむだの天皇(応神天皇)が但馬たじまの国からこっちぃに来た時、国の境さかいがわからんかったんで、刀の鞘さやを道みちに刺して「ここはわいの土地や」とゆうことをせんかったんや。そんで、播磨はりまの国造くにつきりやった豊忍別とよおしわけの命みことと但馬たじまの国造くにつくりの阿胡尼あこねの命が怒られたんやけど、豊忍別とよおしわけの命みことは罪を被かぶったんでここを陰かがふりの山前やまさきゆうんや。そやけど、阿胡尼あこねの命の方は「これでこらえて」ゆうて、そのころの罰金ばっきんの塩しおの代わりに塩田えんでんをよーけ差し出してこらえて貰もろーたんや。その塩田えんでんで働はたらく人がよーけ但馬たじまの国の朝来あさぐから来て、ここに住んだんや。そいで、安相あさぐとゆうんや。そやけど、元の名なあは沙部いさごべゆうとったんや。後になって、里の名が漢字かんじが変わってしもて、安相あんそうの里になってもた。(播磨の地は伊和一族と大和朝廷との取り合い。大和朝廷の先兵であった天の日矛は余りに戦闘的で、その為途中で但馬制圧の大将に更迭。元々播磨の住民は伊和族も含めよそ者に寛容。朝鮮半島からの渡来人や他国の人も危害を加えなければ受入れ協調する。良く言えば度量の広いお人好し、悪く言えばおっちょこちょいで思量足らず。天の日矛の後は大和朝廷の飴と鞭で遂に陥落。先に制圧した但馬から播磨へ応神天皇が来たときに、ここは大和朝廷の土地であるという儀式(要するに唾をつける)がまだであるということを、但馬の役人も、播磨に新しく任命された役人も忘れていたので怒られた、と言う話。播磨の役人は新人で罰を受けたが、但馬の役人は塩田を賄賂に贈って罪を逃れた。朝来郡の人が来たから安相、今の土山、今宿と考えられています。)

 なんで長畝川ながうねかわゆうかゆうたら、昔、この川に真蒋まこもが生えとってなあ。賀毛かもの郡こおりの長畝ながうねの人等が来て、真蒋まこもを苅って持って行こうとしたんや。それを見た此処ここの石作いしつくりの連むらじ等が「わいとこのもんや。かやせ!」ゆうて喧嘩けんかになったんや。そいで、とうとう長畝ながうねの人等を殺ころいてしもて、この川に放ほうり棄てたんや。そいで、長畝川ながうねがわゆーよーになったんや。(真蒋はむしろの材料。賀毛の郡の長畝は加西市の長か?。そうだとすると、約20キロの距離を歩いて来たことになる。賀毛の郡の長畝は、石の宝殿と並ぶ播磨の石の産地。切り出した石を運んで来たのだろう。同じ石工でも賀毛の郡の方が技量は上。些細なことで地元の石工と喧嘩になった。とにかく、播州人は喧嘩早い。決して真蒋が原因では無い。姫路駅のすぐ南に南畝町のうねんちょうがある。長畝川は船場川の支流であったと考えられている。)

 この昔話が載っとた本の続きに、「阿胡尼あこねの命が英保あぼの村から嫁よめはんをもろたんやけど、この村で亡くなったんでここに墓はかを造って埋めたんや。そんで、後になってから改葬かいそうのために遺体いたいを但馬たじままで運はこんだ」と書いてあるわ。(英保は姫路駅の南東部。)

 牧野ひらのの里は、新羅訓しらくにの村、筥岡はこおかがある。なんで牧野ひらのゆうかゆうたら昔はこまい丘おかがある野原のはらやったんや。そんで、牧野ひらのゆうんや。

 新羅訓しらくにと名付なづけたんは、昔、新羅しらぎの国から来た人がこの村に泊まったんや。そいで、新羅訓しらくにゆうんや。

 筥岡はこおかゆうわけは、大汝少日子根おほなむちすくなひこねの命みことが日女道丘ひめじをかの神さんとデートの約束をした時に、日女道ひめじの神さんが丘おかにお弁当べんとうや箱はこや食器を用意してルンルンやったんやて。そいで筥丘はこゆうんや(大汝少日子根は本来2人の神さん。14の丘にも筥丘。それは、日女道丘の西隣の男山。牧野の地とは離れている。家の近くで初めてのデートは味気ない。ここは少し離れた牧野の丘と考えるべき。自衛隊駐屯地の北、大蔵神社の裏の丘と考える)

 大野おおのの里。砥堀とほり。土地はまあまあや。なんで大野おおのゆうかゆうたら、元は広い荒れ野やったんで大野ゆうんや。欽明天皇きんめいてんのうの頃に村上むらかみの足嶋たるしまの先祖せんぞの恵多えたゆう人が、この荒れ野が欲しいゆうて貰もろおて、そこに住んで里の名なあにしたんや。(大野の里はJR 野里駅周辺。市川の西に位置し古代には川の氾濫等で荒れていたのだろう)

 砥堀とほりとゆうわけは品太ほむだの天皇(応神天皇)の頃に神前かんざきの郡こおりと飾磨しかまの郡こおりとの堺さかいに市川の岸の道を作ったんや。その時、砥石といしを掘ったんで、砥堀とほりと名付けたんや。今も砥堀ゆうてるで。(神前郡の所でも同様の話がある)

 少川おがわの里さと。高瀬たかせの村、豊国とよくにの村、英馬野あがまの、射目前いめさき、檀坂まゆみざか、多取山たとりやま、御取みとりの丘、伊刀嶋いとしま。土地はまあまあや。前は私きさきの里ゆーとったとこや。なんで私きさきの里ゆーとったかゆうたら、欽明天皇きんめいてんのうの頃に私部きさきべの弓束ゆみつか等の先祖せんぞで田又利たたりの君鼻留きみひるゆう人がここが欲しいゆうて住んだんや。そんで、私きさきの里ゆうんや。その後、庚寅かのえとらの年に上かみの大夫まえつぎみが播磨はりまの国司こくしになったときに小川おがわの里にしたんや。しかし、他の説では小川おがわが大野おおのの方からこっちへ流れて来よるから小川や。(現在の市川の東側、花田町小川を中心にかなり広い範囲。当時の市川は今の県道518号線とほぼ同じで、砥堀から山麓に沿って西へ蛇行し、野里の西を南進し、姫路城の辺りで更に西に蛇行、大手前通りを蛇行しながら南進していたと考えられている。14の丘で藤丘は二階町と比定されているが、市川の流れに浸食されて丘は平地になったのであろう。その市川の支流が小川。)

 高瀬たかせゆうわけは品太ほむだの天皇(応神天皇)が夢前ゆめさきの丘おかに登のぼって周囲しゅういを見渡みわたしたら北の方に白いもんが見えたんで、「あれはなんや」と聞いたったんや。そんで、舎人とねりの上野かみつけのの国の麻奈毘古まなひこに行って見てこいゆうて見さしたら、「高たかいとっから落ちとる水が白うみえたんや」とゆうたんや。そいで、高瀬たかせの村と名付けたんや。(高瀬の村は花田町高木。小川の流れが早瀬となり白く見えた。夢前の丘はどこだろう?。高木の南方の丘陵といえば、四郷町の小富士山。5キロ程離れているが見えない距離ではない。)

 豊国とよくにと名付なづけたんは、筑紫つくしの国の神さんが移ってきてここで住んどるからや。そんで、豊国とよくにの村ゆうんや。(九州の豊前・豊後からの移住者がいた。飾東町豊国)

 英馬野あがまのと名付けたんは品太ほむだの天皇(応神天皇)がここで狩かりをした時に、一頭いっとうの馬うまが逃げたんや。そんで「誰だれの馬や?」と訊いたったら、お付きの人が「朕が御馬みうまなり(あんたの馬や)」と答えたんで我馬野あがまのとゆうんや。この時、射目いめ(待ち伏せて矢を射る者)を立てたとこを射目前いめさきとなあ(名)付けて、弓が折れたとこを檀丘まゆみおかとなあ付けて、天皇が立って指揮しきしたとこを御立丘みたちおかとなあつけたんや。この時、おおけー牝鹿めじかが海うみを泳およいで向こうの島しまに行っとんや。そいで、伊刀嶋いとしまとなあ付けたんや。(逃げた馬が天皇の馬か、従者の馬か、2説ある。英馬野を姫路市西部の英賀保、射目前を同じく夢前川下流、御立丘を北部の御立とする説があるが、無理がある。やはり、市川の東側と考える。狩りをしたのは御国野町一帯・桶居山の麓ではないか。檀丘は有名な檀場山古墳のあるところでは?。伊刀嶋は瀬戸内海の家島という説があるが、鹿が見える筈がない。遠すぎる。古代山陽道の近くまで満潮時は海だった。地形から見て、御着の南の南山では?と考える。)

 英保あぼの里さと。土はまあまあええ。なんで英保あぼゆうかゆうたら、伊予いよの国の英保あぼの村の人が来てここに住んだからや。そんで、英保あぼの村とと名付なづけたんや。(英保は阿保。JR山陽線の南)

 美濃みのの里。継つぎの潮みなと。土地はげぼにちかい。下の中や。なんで美濃みのゆうかゆうたら、讃岐さぬきの国くに弥濃みのの郡こおりの人が来て住んどるからや。そいで、美濃みのとゆうんや。(東阿保の南東、小富士山の東の四郷町見野。香川県三野(三豊郡)の人が移住してきた)

 継つぎの潮みなととゆうわけは、昔、ここで若わかい女の人が死んだんや。そこへ筑紫つくしの国火の君きみ等の先祖せんぞ(なあは知らん)が来たら、生き返って息いきを継いだんやて。そいで、その女の人を嫁よめはんにしたんや。そやから、継つぎの潮みなととゆうんや。(2号線・姫路バイパス、姫路東ランプの南が継。)

 因達いだての里。土地はまあまあや。なんで因達いだてゆうかゆうたら、息長帯比売おきながたらしひめの命みこと(神功皇后)が韓国からくにをやっつけよう思おて、朝鮮半島ちょうせんはんとうへ渡わたって行った時に、船首せんしゅに守まもり神として付けた伊太代いだての神さんがここに居てるんや。そいで、神さんのなあを里のなあにしたんや。(因達の神山は大汝が火明の命に水汲みに行かせた所。即ち、新在家が因達の里。)

 安師あなしの里。土地はまあまあや。安師あなしゆうわけは、奈良ならの穴无あなしの神さんがここの人に取り憑いたんで、穴无あなしの神さんに仕えるようになったんや。そんで、穴師あなしと名付けたんや。(山陽電鉄・飾磨と妻鹿の間の地域。飾磨区阿成あなせ

 漢部あやべの里。多志野たしの・阿比野あひの・手沼川てぬまがわ。里のなあ(名)は飾磨しかまの郡こおりの始はじめにゆうたやろ。(漢部は余部地区)

 多志野たしのゆうわけは、品太ほむだの天皇てんのう(応神天皇)がここへ来た時、鞭むちでこの辺の野原のはらを指して「この野原に家いえを造つくって田を耕たがやせ」ゆうたったんで、佐志野さしのと名付けたんや。それが今は多志野たしのになったんや。(青山か?)

 阿比野あひのゆうわけは品太ほむだの天皇てんのう(応神天皇)が山の方から来た時に、お付きの人等は海の方から来て、ここででおうたからや。そんで、会野あひのゆうんや。(会野は相野。山陽自動車道姫路西インターがある)

 手沼川てぬがわとゆうんは、品太ほむだの天皇てんのう(応神天皇)がこの川で手を洗ろうたからや。そんで、手沼川てぬがわや。年魚あゆがとれる。うまい年魚あゆ(手沼川は夢前川と菅生川の合流地の夢前川を指す。上手野、下手野地域)

 貽和いわの里さとの船丘ふなおかの北に馬墓うまはかの池いけがある。昔、大長谷おおはつせの天皇(雄略天皇)の頃に尾治おわりの連むらじ等の先祖やった長日子ながひこは、よその人がいかめがる程ほど、ええおてったいさんと馬うまとを持っとって、ごっつう気にいっとったんや。そいで、自分が死ぬときに子供に「わいが死んだら、おてったいさんと馬うまをわいとおんなじように葬ほおむってくれ」ゆうたんや。そいで、第一に長日子ながひこの墓はか、第二におてったいさんの墓はか、第三に馬うまの墓はか、合計3つの墓はかを造ったんや。最近になって、上生石かみのおほしの大夫まえつぎみ、国司みこともちになった時に墓はかのそばに池いけを掘ったんや。そいで、馬墓うまはかの池となったんや。(船丘とされる景福寺山の北には東辻井と西新在家、新在家本町の各一つずつ池がある。北新在家にはもっと大きな池があるが少し遠い(髭繁が池の辺に住んでいる)。主人が亡くなった時に、従者や家畜が殉死する風習があったと考えられているが、記録としては最初である。上生石かみのおほしの大夫まえつぎみは風土記の編纂が命じられた頃の播磨国司と考えられている。)

 飾磨しかまの御宅みやけゆうんは、大雀おおさざきの天皇(仁徳天皇)の時に意伎おき・出雲いずも・伯耆ははき・因幡いなば・但馬たじまの5つ国くにの造等みやつこらに大和朝廷やまとちょうていのとこへ来るように命令したんや。そしたらこの国の造みやつこ等は、天皇のお使いの人に船ふねを漕がして都みやこへ行ったんや。それがばれて、国くにの造みやっこをやめさせられ、罰ばつとして播磨はりまの飾磨しかまで田を作らしたんや。そん時に作った田を意伎田おきだ・出雲田いずもだ・伯耆田ははきだ・因幡田いなばだ・但馬田たじまだと名付けたんや。そんで、その田ででけた稲いねを収おさめるとこを飾磨しかまの御宅みやけと号なづけ、賀和良久かわらくの三宅みやけともゆうんや。(手柄山の南、飾磨区三宅、姫路バイパス南ランプの場所。賀和良久は川ら処・船場川が曲がっている処。と言う説と、重罰にするカワリのかわりと言う説。石ころだらけで耕作していても瓦のような音がする処と言う説がある)

揖保の郡へ    ホームに戻る