播磨風土記の原文は漢文(全部漢字)です。播州弁訳の作成に、小学館1997年発行新編日本古典文学全集5 植垣節也校注・訳の「風土記」を主として、その他、岩波書店発行日本古典文学大系「風土記」、岩波文庫武田祐吉編「風土記」、姫路文庫・谷川健一監修・播磨地名研究会編「古代播磨の地名は語る」等を参考にしました。

神前の郡 かんざきのこおり

(神崎郡大河内町・神崎町・市川町・福崎町・香寺町、朝来郡生野町、姫路市船津町・山田町・豊富町・砥堀)

何で神前郡かんざきぐんゆうかゆうたらなあ、伊和いわの神さんの子の建石敬たけいわしきの命みことゆう神さんが山崎(使)村の神前山かむさきやまに居ったからやねん。ほいで、神さんがおったったんで、ここを神前かむさきとゆーんや。(山使の村は異説がありますが、福崎町山崎と考えられています。福崎町山崎は市川の西岸の丘陵地でここから北に行くにつれ、市川の両岸が迫ってきます。洗足(せんぞく)という地名が山崎の直ぐ北にあり、神さんが山に腰を掛けて足を洗ったとか、柳田国男の著書にも書かれている。神崎山は山崎山でその麓に福崎中学校が有りましたが、今は福崎西中学校と名を変え、約1キロ南に移転しています。建石敬の命の神社は、今は二宮神社と呼ばれ、地域の氏神さんとして親しまれている。私が福崎小学校や福崎中学校に通っていた頃、山崎のモモ畑から出土したと言う割れた土器が校舎の入り口のガラス戸に有りましたが、今もあるのかしら?。)

昭和36年撮影。この写真を見ていて山崎山が神奈備形の山であることに気がつきました。伊和神社のある一宮町の一つ山(宮山)は完全な神奈備形で、奈良の三輪神社と同様、山そのものがご神体との説を村上紘揺氏が述べられています。山崎山が神奈備山であることから伊和の大神は息子を住まわせたのでしょう。

 埴岡はにおかゆうたら生野、大河内町、粟賀(神崎町)、それになあ市川町の北の方をゆーんや。土は全然あかん。べった(びり)もえーとこや。なんで埴岡ゆうかゆうたら、昔、大汝命おおなむちのみことと少彦名命すくなひこねのみこととゆう二人の神さんが土地の取りやいで賭かけをしたんや。どんな賭かゆうたら、重おもたい粘土ねんど(埴)を背中せなかに担かついでと、途中とちゅうで糞くそをせんと、どちらが遠くまで行けるかの我慢比がまんくらべしたんよ。大汝命は糞すんのを我慢するゆうて、少彦名命は粘土を背負うて、ヨーイ・ドンで一緒に並んで歩きだしたんやて。歩き始めて数日したら大汝命が「わえはもう辛抱しんぼうできひん」ゆうて、篠竹しのたけの茂しげみに屈しゃがんで糞したんや。少彦名命も笑いながら「ああーえらー」ゆうて、粘土(埴)をそこの岡おかにほかして、勝負しょうぶは引き分け。この粘土(埴)を放ほうり投げた岡やから、埴岡と名付けたんや。そんでなあ、大汝命が糞した時に篠竹が弾はじき返かえって糞が飛んで着物きものに糞が付いたんや。きちゃないなあ。ほんで、糞がはじけて着物に付いたとこを波自加はじかと名付けたんや。その時ときの粘土と糞は石になって今もあるんやで。ある人がゆうてんには、応神天皇おうじんてんのうがこの辺へんを視察しさつに来たとき、この粘土と糞で出来た岡に宿舎を作って、「ここの土は粘土(焼き物)にしか、使えへん」とゆーたった。そやから埴岡とゆうんや。(二人の神さんがどこからヨーイ・ドンをしたのでしょう?。大河内町の日吉神社には埴と糞が固まったとされる巨岩が鎮座ちんざしている。ここがゴール点ですが、逆算してスタート地点を推測すいそくして下さい。粘土は土器を作るのに必要で良い粘土は遠方から肩に担いで運んだと想像されますが、農業には適しません。生野は中世から近世にかけて銀山、銅山として知られていますが、それだけいわゆる鉱毒が地質に影響していたのでしょう。波自加は、市川町屋形初鹿野と云われています。)


生野
いくのとゆーよになったんは、昔むかしこの辺へんごんたな神さんがおってな、ここを通とおるひとを仰山ぎょうさんころしたんや。そんで、死に野ゆーとったんやけど、応神天皇が「名前が悪わるい」とおっしゃられてな、生野に変えたんやで。(姫路ひめじから和田山わだやままで播但連絡自動車道が2000年5月に繋つながりました。高校生の頃、学校からハイキングで生野高原に行きましたがすばらしいところです。ところで、ごんたな神さん「あらブル神」の正体しょうたいは?)


粟賀
あわがの河内かわちとゆうわけは、但馬たじまの粟鹿山あわかやまから流ながれてきた川の平野部へいやぶやからや。楡にれの木が生えとるで。(粟賀を流れる川は越知川で源流は粟鹿山ではない。似た地名と混同した)


大河内町
おおこうちちょうは川の両岸りょうぎしの大きな平野部へいやぶゆうことで名がついたんや。檜ひのき、杉すぎが生えとー。ほんでな、けったいなんが30軒けんほどおるぞ。(播磨風土記には土着どちゃくの伊和いわの神と韓国かんこく新羅しらぎから渡来とらいした天あめの日桙ひぼこの命みこととの死闘しとうが記されている。異俗人あたしくにびとがこのいずれに属ぞくするのか?。縄文文化じょうもんぶんかを頑かたくなに継承けいしょうしている部族ぶぞくや杣人そまびとと考えるが、或いは大陸や南洋からの渡来人かも。学者の説では、日本武(ヤマトタケル)の尊みことが東国遠征をした時の蝦夷えみしの子孫とのことである)


湯川
ゆかわは昔むかし湯が川に流れて来よったんで湯川ゆうねん。檜、杉、黒蔦くろかづらが生えとお。ほんでな、このへんにもけったいなんが30軒ほどおるぞ。(神崎郡の温泉おんせんは殆ほとんど冷泉れいせんで、湯が出るのはどこなのか?。湯川は小田原川との説が有りますが、温泉が湧くという話は聞いたことがない。小田原川の源流げんりゅうは峰山高原みねやまこうげんですが、此処ここには簡易保険かんぽの宿があり、大浴場は登山者に好評との事です。寺前小学校、南小田小学校、上小田小学校、長谷小学校の皆さん、峰山、砥峰とのみねの情報を発信して下さい。)


川辺
かんなべは瀬加川せかがわ、砺川山とがわやま。土はあかんこと無いけどもーひとつやな。この村は、市川いちかわや、岡部川おかべがわのすぐそばにあるさかい、かんなべとゆうんや。(播磨富士と称される笠形山かさがたやまの有る市川町の南部なんぶがかんなべです。子供の頃は風土記なぞ念頭ねんとうになく、瀬加せかの山は松茸まつたけがなんぼでも採れる山くらいしか思っていなかった。秋祭あきまつりの頃には直径1メートル近い竹駕篭たけかごにあふれるほどの松茸が無造作むぞうさに置かれていたが、神崎郡の松茸はどこに消えたのでしょう?。)


瀬加
せかとゆうわけは応神天皇おうじんてんのうがこの岡部川おかべがわのへんで狩りをし、此処ここに猪いのししや鹿しかを追い出して(勢子せこが勢る)、殺ころしたんで、瀬加とゆーうようになったんや。もう、暗くろうなって星ほしが出る頃ころまで、なんぼでも猪や鹿が獲れて、そんでこの山を星肆ほしくらとゆーようになったんや。(星肆と云うのはどこだろう?星をせい、肆をか、でせいかが、せか。中世ちゅうせいには世賀と書かれたことも有ったそうな。瀬加小学校、粟賀小学校、越知谷第一・第二小学校、大山小学校の皆さん。誰か知ってたら、おせーて。)


砥川山
とがわやまとゆうのはその山から砥石といしが採れるからや。そいで、砥川山ゆうんや。(これも何処どこの山を指すのか解わかりません。大河内町には砥峰高原とのみねこうげんが有りますが、川辺とは離れすぎているし?……。と書きましたが、地元の研究者(大沢政雄氏)が貴重な情報を出しています。福崎町の文化センターが発行している「かたりべ」の最近号に砥川山は日光寺山という記事が出ています.内容は風土記の記述通り.まさしく良い砥石が採れるから。大沢先生と一緒に調べられた亀坪に住んでいる河嶋さんは、若い頃、日光寺山の砥石谷で砥石を切り出して使っていたそうです。日光寺は室町頃の創建、江戸中期に明道上人の再興、日光寺創建後砥川山は日光寺山となったが、地元の人は日光寺山の大きな谷全体を砥谷と言い、良質な砥石が産する沢を砥石谷と呼んでいる。江戸時代の入会権訴訟の訴状に「西大貫村地内字亀坪四ヶ村入会山之内豊后砥石山」の文があり、江戸時代は砥石山と呼んでいたのでは?。2002年3月31日、日光寺山に登って来ました。お寺は山頂近くの南面に面し、400メートル足らずの山に関わらず播州平野が一望出来る。寺のすぐ近くに電話中継塔。北へ下りればそこは川辺の里)

  

日光寺境内から播磨平野を望む     日光寺境内から谷を望む    八千種野の東端から日光寺山を望む

高岡
たかおかは山崎山やまさきやまから七種山なぐさやまの途中とちゅうや。土はまあまあやなあ。高岡ゆうのんは、この辺へんに高い岡が有ったからや。そいで、高岡と名付けたんや。(高岡小学校が一寸高いところに有るので、高岡と思とったけど、昔の人もそれに近い考えをしていたようだ。現在の高岡はJR福崎駅に近い東から順に、神谷こだに、長野ながの、桜さくら、板坂いたざか、田口たぐちに分かれている。風土記の頃の高岡は、現在の旧福崎町と香寺町の恒屋、中村、久畑と考えられている。市川の川原から西を眺めれば、西治から高橋にかけての岡に福崎工業団地が望める。当時の人は洪水の恐れが有るため、山の麓や岡に住んでいた。子供の頃、七種川の洪水で福崎小学校の運動場が全部冠水したのを思い出した。)

昭和32年7月の洪水で冠水した福崎小学校の校庭。後方、校庭の東端に良治の雄イチョウが見える。左から富美ちゃん、政ちゃん、小西先生、裕ちゃん、ひーぼー。(木村先生?・撮影?)


昔、福崎中学校の有った裏
うらの山なあ、昔はかむさきやまとゆーとったんやてー。この話の始めにあったやろ(中学校の跡地はスポーツセンターになっています)

福崎警察署の西北部より昭和35年撮影。山崎山は見る位置によって、秀麗なカンナビ山に見える。七種橋の雌イチョウは福崎町の保存樹。小学校のイチョウと同じ明治16年に吉田良治が富栖村から移植したので、良治の大イチョウと言う人もいる。


七種山なぐさやまには檜ひのきが生えとー。なんでなぐさゆーか知らんわー。(檜は神社建築の良材として古代から珍重された。神崎郡には檜の自然林が昔から有ったと云うことでしょう。姫路城の昭和の大修理にも神崎町・市川町にまたがる笠型山の檜が使われている。七種の滝の事に触れられていないのは何故?。多分、普段は水が少ないからだろう。雨が降った翌日がお奨め。)


多田
ただは邑日野おおわちの・八千草野やちぐさの・粳岡ぬかおかがあるとこや。土は今一つ。多田と名付けたんは、応神天皇がこの辺を見に来たときに、お供ともでついてきた佐伯さえきさんとこの先祖せんぞに当たる阿我乃古あがのこゆう人が「ここの土地とちが欲しいんでくれへん」とゆーたんや。ほんで、天皇さんが「只ただで土地を呉れとずけずけゆーやっちゃなー」ゆうたってん。そんで、多田ゆーようになったんや。(多駄ただは今の姫路市山田町多田。直(ただ)は素直にの意味で、直=只としたのは私のこじつけ。山田小学校の人は素直な人が多いのだろう)


邑日野
おおわちのゆーんはなあ、阿遅須伎高日石尼あぢすきたかひこねの命みことゆう神さんが新次にいすきに居ったってなあ、神社じんじゃを造つくるときに茅かや(おおわち)を刈ってきて神社の回まわりを囲かこんだからやねん。(邑日野は今の何処どこに当たるのだろう?語感ごかんから類推るいすいすると福崎町大貫かやの群生地であった西光寺野が邑日野とされている。中世から近世にかけてお寺が出来ると、寺の名前や山号が地名に置き換わっているようだ。)


粳岡
ぬかおかは、伊和いわの神さんと天あめの日桙ひぼこの命みこととゆー二人の神さんが昔むかし此処ここで戦争せんそうしよってなあ、その時、伊和の神さんの軍勢ぐんぜいが「腹はらが減っては戦いくさができひん」ゆーて仰山ぎょうさんの米こめをついたら、糠ぬかが岡のようになったんやて。そいで、吹き飛ばした糠を墓はかゆーたり、城牟礼山きむれやまゆーたんや。誰やったかよってんのんには、城しろを掘ったとこは応神天皇の頃に百済くだらゆーとこから来た人やらが百済風の城を作って住んだんやて。その百済の子孫は川辺のみやけの人で夜代やしろなんやて。(3世紀後半から4世紀に、国くにつ神である伊和の大神の軍勢1万と大和朝廷の先鋒軍せんぽうぐんである天あめの日枠ひぼこの命の軍勢8千が、神崎郡福崎町から姫路市山田町船津ふなつにかけての市川の東岸で対峙たいじした。両軍の死闘は播磨風土記の宍粟郡しそうぐん、飾磨郡しかまぐんに多く見られるが、此処が両軍の東の境界線きょうかいせんに位置するのだろう。それだけに、両軍とも最大限の兵力を動員した。奈良時代の日本の人口は600万人、3世紀後半の人口は300万人くらいか?。さらに類推るいすいして当時の播磨全域の人口は多くても10万人、神崎郡では数千人、ちなみに現在の神崎郡の人口は7万人弱、いずれにしても天下分け目の合戦で有ったことは間違いがないのだが、勝敗の行方は記されていない。その後の情勢を見ると伊和の大神は次第に宍粟しそうの山奥に追いやられて行ったようだ。天下分け目の合戦と言えば「関ヶ原」。しかし、中世の播磨は湊川の戦いの後背地としての陣取りがあり、応仁の乱の後では赤松・山名の直接対決、その後秀吉軍と三木城の攻防と日本史を塗り替える可能性のある戦いが行われた。ちなみに天あめの日枠ひぼこの命は、今の韓国から渡来し、大和朝廷に仕えて歴戦し、最後は出石に居を定めた。)


八千種
やちくさゆーたらなあ、天あめの日桙ひぼこの命みことの兵隊が8千人此処に来たからや。そいで八千種ゆーんや。(言語学者は、ヤチは谷間の湿地を云い、後には谷内と表記される。確かに八千種の地は住吉山と春日山の谷間に位置し、周辺にはため池が多い。)


八千種野の東端にある春日山麓の案内板


蔭山
かげやまの里さとは蔭岡かげおかと冑岡かぶとおか。土は中の下。蔭山とゆーのは、応神天皇が髪飾かみかざりをこの山に落としたって。髪飾りのことを昔は蔭、偉い人のんやから御蔭みかげや。そいで、御蔭を落とした山やさかい蔭山とゆーんや、又、蔭岡とゆーそうや。そいで、髪飾りを拾いに行こーとしたら、草木くさきが邪魔じゃまでおまけに草や木の枝を払はらう刀かたなも全然切れへんかってん。そいで、天皇さんがごーわかして「砥石といしを掘ってこい」ゆーたって、そいでそこが砥堀とほりになったんや。(蔭山は姫路市豊富町とよとみちょう御蔭、市川の東岸の丘陵地帯で姫路セントラルパークがあり、ライオンやトラが寝そべっている。一方、砥堀は市川の西岸で増位山ますいやまの東側の麓ふもと。この辺は昔は神崎郡でしたが、明治以降に南西地区より徐々に町村合併で姫路市に組み込まれ、昭和33年に神崎郡神南町じんなんちょうが姫路市と合併して今日に至っている。増位山随願寺は735年に行基の創建。増位山は昔は有明の峰と言われていた。今では随願寺の山号がそのまま山の名前となり、奈良時代からの由緒有る有明を使う人は殆どいない。中学時代の恩師・吉田 先生は、砥堀の在で「有明誌」を編纂されている。)


 冑岡
かぶとおかは、伊与都比古いよつひこの神さんと宇知賀久牟豊富うちかくむとよほの命が、此処で戦争した時に、冑かぶとがこの岡に落ちたから、そいで冑岡とゆうんや。(名前からして伊予いよの国(今の愛媛県えひめけん)から来た神さんと、地元・豊富町とよとみちょうの神さんが戦争をした場所。現在は豊富町甲丘、甲山に甲八幡神社、市川を西に渡り北へ1キロ程行くと日本玩具博物館がんぐはくぶつかんがある)


的部
いくはべの里さとゆーたら石坐いわくらの神山かみやまや高野たかのの社やしろのあるとこや。土はまあまあ。なんで「いくはべ」ゆーかゆうたら、弓矢ゆみやの的まとを作つくる的部いくはべが居ったからや。なんや、おもろーもなんとも無い、りゆうやなあ。(学者の説では武内の宿祢(タケウチノスクネ)の子孫で弓や的を作る技術集団とのこと。的部は香寺町岩部、石坐の神山は香寺町須加院、高野は香寺町田野・高野神社。中寺小学校、香呂小学校、香呂南小学校の皆さん、何か面白いこと知っとったらおせーてください。)


石坐
いわくらの神山ゆーんは、この山のてっぺんに石が有るからや。それに豊穂とよほの命みことゆー神さんがそこにすんどって、石が有って、神さんが住んでる山で神山や(石坐は姫路市香寺町奥須加院・石蔵山万福寺)

高野の社ゆーんは、この辺が周りより高いとこにあるからや。又、玉依比売たまよりひめの神さんが住んどったんで神社や。そいで高野の社とゆふんや。槐(えんじゅ)や桂が生えとう。(仁豊野駅の西、弥高山或いは鷹の山と呼ばれている所。)

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(播州に18年、阪神間に17年、徳島に34年で、大阪弁と阿波弁の混じった播州弁になってしまいました。播州弁の訂正や、ご意見、ご感想を頂けますと幸に存じます。mailto:yosihide@rhythm.ocn.ne.jp